救援計画
フレイザー伯爵邸の書斎は、いつも通り、磨き上げられた木の香りと、古い革装丁本の匂いが満ちていました。しかし、その静寂は、伯爵とチャールズが交わす緊迫した会話によって、張り詰めた糸のように震えていました。
テーブルの上には、広げられた王都周辺の地図が置かれている。しかし、二人が見つめるのは、紙の上の線ではなく、その向こう側にある、飢えに喘ぐ人々の顔でした。
「馬車で運んでいたら、二十日近く掛かる」
伯爵は、分厚い指で地図上の王都を叩きながら言いました。
「聞き及んでいる王都の様子だと、民は持つまい。暴動が始まると手に負えないし、兵が動けば人死も出るだろう」
チャールズの心にも、同じ予感がありました。問題は、物流という名の時間の壁でした。
「ソフィアの風魔法によって、緊急物資を運ぶことが出来ないかと、考えておりまして」 チャールズは切り出しました。 彼の視線は、地図の上を滑り、フレイザー領を流れる川で止まりました。
「こちらには船はありませんか?」
「我が領に海は無いので、大きな船はないな」
伯爵は首を振りました。 「湖で漁師が使うような小舟では、穀物を運ぶには埒が明かんだろう」
チャールズは、思考の歯車を速めました。風で運ぶとなれば、軽くて、大量の穀物を収められる「入れ物」が必要だ。それは船のような、水を必要としない入れ物。
「大きな箱のようなものは無いでしょうか」
「箱舟か」 伯爵の目が光りました。
「大工を集めて作らせようか。あまり欲張って大きなものを作っても、ソフィアの魔法で運べなければ意味がないから、控えめなサイズのものを作ってみよう」
伯爵は、一旦「やる」と決めると、その判断は迅速で、行動は迷いがありません。長年、この豊かな領地を治めてきた領主としての、確かな手腕でした。
「穀物の集荷は大丈夫ですか」 チャールズが確認します。
「とりあえずは、伯爵邸の穀物倉庫のものを出そう。それだけで、数日は繋げるだろう。その間に、各地の倉庫から集荷させよう」
伯爵は、すぐさま召使いを呼び、大工と倉庫番に指示を飛ばしました。一気に動き出した伯爵邸の喧騒が、書斎の静寂を打ち破りました。
「ところでチャールズ、王子でも王族でもなくなった君がなぜここまで王都の民の事を気に掛けるのだ。フレイザー領にいればソフィアの親友として飢饉が過ぎるまで過ごすことも可能なのに」
伯爵がチャールズに問いかけました。 チャールズは伯爵に答えました。
「私はソフィアが守りたいと思うものを守ることにしたのです。これで答えになりますか」
まさにその時、伯爵邸全体が、飢餓と戦うための戦場へと変貌を遂げ始めました。 緊迫の瞬間に風が、窓の外で一度だけ強く鳴りました。
ソフィアが、王都の暗い影を背負って、帰って来たのでした。彼女の顔には、姉ビクトリアの悲痛と、王都の飢えのざわめきが焼き付いていました。
伯爵とチャールズは、振り返り、彼女の姿をその目で捉えました。彼らの目線の先には、空を飛び、人々の命を繋ぐ、希望の「箱舟」の青図が、ようやく完成したところでした。
応接間の重い空気の中、ソフィアは、王都の飢えのざわめきを纏ったまま立っていました。伯爵は、彼女の顔色の青白さから、ビクトリア妃の窮状を察したようでした。
「おお、ソフィア、ビクトリアは無事であったか」
伯爵の声は、いつになく心配の色を含んでいました。
「お姉さまは、王宮の奥で、何の情報もない中で震えておられました」
ソフィアは、その恐れを目の当たりにしたことを忘れられずにいました。 「民衆の叫び声に怯え、次に何が起こるか分からない恐怖の中にいらっしゃる」
「なんと……セドリック殿下はどうしたのだ」
「見つからない穀物を求めて、あちこちの倉庫を尋ねておられるようでした」 ソフィアの言葉には、セドリックの行動への、諦めに似た響きがありました。
「サザーランド領には行ったのか?」
「サイモン様を通じていろいろ問い合わせているようですが、すでに出荷済との返事ばかりとのことでした」
その報告に、チャールズと伯爵は、同時に顔を見合わせました。
「それは俄かには信じがたいな」
チャールズが静かに言いました。伯爵も深く頷きます。サザーランド公爵家の広大な領地から、一粒の穀物も残らないほどに全てが出荷された、という事実は、彼らの持つ政治的な常識に照らしても、極めて不自然でした。
伯爵は、意を決したように、ソフィアに告げました。
「幸い、フレイザー領には備蓄穀物があるので、それを王都に提供しようと思っている。今、キャラバンの準備をしているが、ソフィアの風魔法でも運べないかと思っているのだが……」
ソフィアは、チャールズが抱いていた希望が、伯爵によって現実のものとして語られていることに胸を熱くしました。
「風の精霊に、どれくらいのものが運べるのか聞いてみるわ」
そう言うと、ソフィアは応接間の隅に静かに膝をつき、瞑目して祈りを捧げました。その祈りは、ただの願いではなく、風の精霊たちとの確かな盟約を確かめ合う儀式でした。
その時、一陣の、清らかな風が部屋を満たしました。御者台から飛び去ったはずの、風魔法の師匠ゼフィーリアが、再び、まるで自然な光のようにそこに現れていました。
「ソフィアよ、風魔法にも限界があるが、王都を救いたいという願いは、風の精霊様にも届いているよ」
ゼフィーリアは、穏やかながらも力強い声音で言いました。
「私も協力する」
その師の言葉は、ソフィアにとって何よりも確かな保証となりました。
伯爵は、ゼフィーリアの存在に驚きつつも、彼女の申し出に深く頭を下げました。
「ありがとうございます。今、風魔法で運びやすい様に箱を作っているところです。この領地の各地から馬車を供出させて、主力は馬車で運ぶので、その馬車が着くまでの分を、どうか風魔法使い、そして風の精霊様にお助けいただきたい!」
伯爵の願いは、私的な功績のためではなく、飢えに苦しむ人々の命を繋ぎ止める、切実な思いでした。
ソフィアは目を開き、力強く頷きました。師と、風の精霊の助けがあれば、この困難な救援は、必ず成し遂げられる。 希望という名の箱舟は、今、まさに、フレイザー領の大工の手によって形作られ始めていました。




