王都の現状
姉の顔色は、王宮の窓から差し込む鈍い光のように青白く、その瞳には、深い湖の底のような不安が沈んでいました。
「姉さん、どうしたの?」
ソフィアの声に、ビクトリアは一瞬、夢から覚めたように目を見開きました。
「ああ、ソフィア……!」
その声は震え、安堵と焦燥がないまぜになっていました。 「戻って来てくれたのね、本当に」
「風の精霊様から、お姉さまのところへ行けと知らせがあったのよ」
ビクトリアは、細い指先で胸元の装飾をきつく握りしめ、まるでその場にいない神に語りかけるように呟きました。 「ああ、風の精霊様……ありがとうございます」
「で、何があったの?」 ソフィアは姉の傍に寄り、その冷えた手を包み込みました。
ビクトリアは、窓の外――厚い石壁のさらに向こう側にあるはずの、王都のざわめきに耳を傾けるように顔を上げました。
「王都の人たちが、王宮を取り囲んでいるのよ。『食べ物をよこせ』と、口々に叫んでいるわ」
その声は、壁を通り抜け、王宮の重い空気に響いているようでした。飢えに駆られた人々の、生命の根源からの叫び。
「王宮の食糧庫にも、大した量は入っていないらしいのよ。そこを開け放したら、私たちも飢えてしまう」
ソフィアは唇を噛みました。瘴気を祓うことはできても、人々の腹を満たす魔法は持ってはいません。
「王都周辺に領地を持つ貴族からの物資は届かないの?」
「サイモン・サザーランドが手配しているのだけれど、なぜか入ってこないって言うのよ」
ビクトリアの声が、ここで初めて疑念の色を帯びました。 「彼が、どれほど動いているのかも分からないわ」
「セドリック様はどうしているの」
「民衆の前に立って、『城にも食べ物は無い』って叫んでいるけれども……民衆を納得させられていないわね」
王の言葉には、民の心を鎮める力があるはずだ。だが、今のセドリックの言葉には、王冠の重みが伴っていないのです。
「姉さん、私に何が出来る?」
「フレイザーから食べ物を運んでこられないかしら」
ビクトリアは縋るように言いました。 「あなたの風魔法なら、何かできるのではないかと……それだけを思って、風の精霊に願ったのよ」
ソフィアは、チャールズと交わした言葉を思い出していました。風魔法による穀物の輸送という、途方もない可能性。
「普通に運んだら半月は掛かる。それまで待っていられる状況なの?」
「私には分からないわ……」
ビクトリアは力なく首を振りました。 「王宮の奥って、情報が何もないのよ。ただ、重い空気と、飢えの恐怖だけが満ちている」
ソフィアの瞳に、強い光が宿りました。それは、聖魔法を放つ時のような、一点の曇りもない決意の色でした。
「セドリック様と相談しなければならないわ。ここに呼ぶことはできる? 私が来ていることは、サイモンには内緒にしておいて」
ビクトリアは驚き、その顔に疑問の色を浮かべました。 「なぜ?」
ソフィアは、窓の外のざわめきを遠くに感じながら、静かに答えました。
「ちょっと思うところがあるのよ。この食糧不足は、単なる災厄ではない気がするの。……王宮の影の奥で、何かが動いている予感がするわ」
セドリック王子の私室は、王宮の奥深くにあり、外の喧騒を遮断するための厚い壁に囲まれていました。しかし、その静寂は、民衆の飢えから逃れたいというセドリックの焦燥によって、かえって張り詰めていました。 ビクトリア妃が呼んでいるという知らせを聞くと、彼は民衆の前に立つ重責から、一瞬でも身を隠せると安堵し、文字通り飛ぶように奥へと戻ってきました。
「ビクトリア、何の用だい?」
その声には、苛立ちと疲労の色が滲んでいました。 ビクトリアは、隠れていたソフィアに目配せをし、努めて穏やかな声で言いました。
「ソフィアが戻って来てくれたのよ。私の妹が」
「それがどうしたの」
セドリックの反応は素っ気ないものでした。疲弊した彼の心には、妹の帰還よりも、目前の危機のほうが重くのしかかっていました。
「王都の窮状を、ソフィアなら何とか出来ないかと思ったの」
セドリックは、まるで棘に触れたかのように顔を顰めました。
「大量の食糧を運んでくることは、聖女にも難しいのじゃないか。切れ者のサイモンですら難渋しているというのに」
その言葉の奥底には、自分を差し置いて民の心を掴んだソフィアと、彼女の力を頼る妃への、微かな嫉妬が混じっていました。
その瞬間、部屋の隅の影から、ソフィアが静かに姿を現しました。彼女の足音は、壁を伝わる王都のざわめきよりも、ずっと静かでした。
「セドリック様。姉の窮状を救いたいという妹の思いだけで戻ったのです。どうか、現状を教えてください」
ソフィアの瞳は澄んでおり、彼の動揺や疑念を一切受け付けない、強い意志を持っていました。その圧力に、セドリックは観念したように、重い口を開きました。
「そういうことなら……王都と周辺の農地は、瘴気の影響で収穫が出来ないのは知っているね。それ以外の農作物、特に穀物は、領地が広いサザーランド公爵が、王都への供給に責任を持っていてくれたのだが……」
セドリックは溜息をつきました。
「公爵は例年通り充分な量を供給しているというのだが、穀物供給に不安を持った商人や貴族が必要以上に買い占めてしまって、普通の民たちの手元に渡るべき穀物が届かなくなってしまって」
「買占めしている商人や貴族に、在庫を吐き出すように命令はしたのですか」
「それはした。実地に倉庫まで見に行ったのだが、どこも空っぽだった」
セドリックは、両手を広げ、諦めを含んだ仕草をしました。
「王都の民に説明しても、『どこかにあるはずだ』と言って納得してくれなくてね」
「そうでしょうね。飢えは、判断を誤らせますからね」
ソフィアは、その言葉を重々しく受け止めました。 この問題の根が、瘴気や天候ではなく、王宮のすぐ近くに潜む「人の心」と「私的な欲望」にあることを、ソフィアは確信しました。そして、その陰には、あのサイモン・サザーランドの影が揺らめいているように思われました。




