風の知らせとソフィアの跳躍
車輪が踏む土の音は柔らかく、フサフサとした草地の香りが、窓から流れ込んでくる風に乗って、二人の胸を満たしていました。フレイザー領の村々は、王都の惨状を知らぬかのように豊かで、農夫たちが鍬を振るう姿は、大地との古い、確かな盟約を物語っているようでした。ソフィアとチャールズは、その穏やかな光景を、束の間の安息のように眺めていました。
そのとき、ふいに、風の揺らぎが乱れました。 それは、空気の裂け目から零れ落ちた、「音」というよりも、冷たい「ざわめき」の破片でした。馬車の窓を通り過ぎるはずの風が、鋭い氷の刃のように二人の耳を打ちます。
「王都の食糧事情が悪化し…」 「王宮が市民に取り囲まれているよ…」 「お城の倉庫を解放しろって民衆が騒いでいるよ…」
それは、いくつもの、焦燥に満ちた声の響きでした。
ソフィアは思わず息を呑み、チャールズと顔を見合わせました。王都の穀物価格が高騰していることは知っていましたが、つい数日前の状況では、ここまでの騒乱は想像もできませんでした。この、ほんの僅かな時間の間に、いったい何が起こったというのでしょう。
不安が二人の胸に影を落とした、まさにその瞬間でした。
馬車の御者台に、風の精霊を束ねるソフィアの師匠、ゼフィーリアが、まるで陽炎のように唐突に現れました。彼女は、空気の薄い層を身に纏っているかのように、周囲の緑に溶け込んでいます。
「ソフィア、君の姉さんが君を呼んでいる」
ゼフィーリアの声は、樹木の葉擦れの音と見紛うほどに軽やかでした。
「余計なことかとも思ったのだが、風の精霊に彼女が頼んでいるので、一応知らせに来た」
そう言い終えるや否や、師匠は、風が窓を吹き抜けるように唐突に消え去りました。 ソフィアは、握りしめたチャールズの手の熱で、自らの現実に繋ぎ止められました。
「ソフィア、姉さんのところに行ってあげなさい」
チャールズは、迷いのない、澄んだ眼差しで彼女を見つめました。
「身内の苦境に何もしないと、後で悔やむことになる」
ソフィアは、その言葉の重みに、感謝の念を抱きました。彼は、彼女が背負うべき「情」の鎖を断ち切らせようとはしません。
「あなたはどうするの」 ソフィアが尋ねました。
「僕はこちらに残って伯爵と今後の話をするよ。この風の噂を放っておけないからね」
王位を捨てたチャールズにとって、もはや「王都」は彼の故郷ではない。だが、飢えと瘴気に苦しむ「民」は、彼が純粋に守ろうと誓ったものでした。その救国の務めこそが、彼を突き動かします。
ソフィアは深く頷きました。 「ありがとう」
彼女は風の精霊を呼び寄せました。その身を包み込む柔らかな風の揺りかごは、彼女を伯爵邸ではなく、王都の光と影が渦巻く、姉ビクトリアの許へと、一瞬で加速させたのでした。
チャールズは、ソフィアの残した、僅かに揺れる空気の余韻を背中に感じながら、伯爵邸の応接間に駆け戻りました。紅茶の湯気が静かに昇っていた、あの和やかな空気は、彼の持ち込んだ「風の噂」で一変します。
伯爵は、眉をひそめてチャールズを見ます。
「伯爵、急ぎお話したいことがあります」 「ソフィアはどうした」 「ソフィアはこの件で王都のビクトリア様のところに飛んでいきました」
チャールズは、早口で、しかし一語一語を明確に発しました。
「この件というのは何だ」 伯爵が問います。
「実は、ソフィアが風の精霊から『王都が穀物不足になり、王宮が民衆に取り囲まれて、穀物倉庫を開け放てと要求される騒ぎとなっている』ことを告げられまして。ビクトリア様の事を心配に思った彼女は、風魔法で王都に飛んだのでございます。数刻後には着くかと存じます」
伯爵は、顔色を変えました。飢餓による民衆の蜂起と、王宮の危機。それは、長きにわたり王国を支えてきた貴族の血が、本能的に畏れる「内乱」の予兆に他なりませんでした。
「なぜ王都で穀物不足が起きるのだ」
伯爵の声に、焦燥の色が混じります。
「王都への穀物供給はサザーランド公爵の務めではないのか。サザーランド領も瘴気の影響を受けているのか」
チャールズは静かに、しかし決然と答えました。
「サザーランドまでは瘴気の影響は及んでいないと承知しています」
その言葉に、伯爵の顔の皺が一段と深くなりました。瘴気による不可抗力ではない。ならば、これは人為的な危機、すなわち陰謀である可能性が高い。
「王都で何が起きているのだ」
伯爵は、イライラを隠しませんでした。彼は、王都の食糧事情が、単なる管理不足ではない、政治的な思惑で深く汚染されていることを、瞬時に察知していました。その思惑は、彼自身の娘たちの未来と、フレイザー家の安寧を脅かすものでした。
玉座の間から遠く離れた、しかし、王宮の息苦しい闇が染み込んでいるかのようなビクトリア妃の私室に、ソフィアは風の精霊の腕に抱かれて降り立ちました。その着地は音もなく、まるで水面に落ちた羽毛のようでした。




