奸臣
一方、王宮では、セドリックが亡き王の代理として、重い執務の椅子に座っていました。
しかし、彼の柔和な、あるいは、悪く言えば決断力に欠ける性格は、こうした未曾有の非常時の対応には、明らかに向いていませんでした。玉座の重みと、差し迫る危機が、彼の肩にのしかかってきています。
彼が下す指示の多くは、側近であるサイモンの助言をそのままなぞったものに過ぎませんでした。セドリック自身、その政の舵取りの大きな部分を、サイモンという男の怜悧な判断力に頼っている自覚がありました。
問題は、山積していました。
「サイモン、近隣の町や村の農地は、やはり……」
「はい。瘴気の影響は甚大です。王都に食糧を供給していた村々は、今年の収穫はほぼ見込めないとのことです」
サイモンの報告は、淡々としていましたが、その内容は王都の死活問題でありました。 魔王は滅びました。しかし、その毒は大地に残り、人々の命の基である「食」を脅かしているのです。
王都の食料事情が、早晩ひっ迫してくることは、誰の目にも明らかでした。すでに、その動きを察知した一部の貴族による、醜い食糧の買占めも始まっていました。
セドリックが重い書類から顔を上げ、窓の外に目をやると、遥か上空を、小さな影が動いているのが見えました。 空を飛びながら瘴気の残滓を祓っているという、弟のチャールズと、あの伯爵令嬢ソフィア。
街の人々の噂は、セドリックの耳にも届いていました。彼ら二人への称賛と、感謝の念は、日増しに高まっていました。それは、王宮に籠り、迫りくる飢饉に有効な手立てを打てないでいる自分とは、あまりにも対照的でありました。
(チャールズめ。好き勝手に飛び回りおって……)
セドリックは、彼らを、目の上のたん瘤のように感じていました。民の支持という、目に見えない力が、自分ではなく、弟へと流れていくのを、ただ苛立たしく見ているしかありませんでした。
その苛立ちに追い打ちをかけるように、サイモンが次の報告を上げてきました。
「殿下。ビクトリア妃殿下を通じて、実家であるフレイザー伯爵家より、救援物資の申し出があります」
「フレイザー伯爵家から?」
「はい。かの地は王都より距離があり、瘴気の影響は皆無。食糧事情も良いとのこと。王都の窮状を救うべく、備蓄の穀物を送りたいと」
それは、喉から手が出るほど欲しい申し出のはずでした。 だが、セドリックの口から出たのは、感謝の言葉ではありませんでした。
「……フレイザー家。それは、妃、ビクトリアの実家であると同時に、ソフィア嬢の実家でもあるな」
サイモンは、何も答えませんでした。
セドリックは、二の足を踏んでいました。その援助を受け入れれば、民は、ソフィアの実家が王都を救ったと、さらに彼女らを称えるだろう。それは、彼の矜持が許さなかったのです。
サイモンは、そうして葛藤に揺れる主君の横顔を、値踏みするように見つめていました。 (この男は、やはりこの程度か、王位簒奪計画遂行の時は近いな)
彼は、セドリックのことを「優しいが能力不足」と思っていました。この危機において、王たる者が私的な感情で、民の命綱である食糧援助を受けることをためらうことなど、あってはならないことでした。
そう思われていることを、セドリックもまた、肌で感じていました。サイモンの忠誠は、父である公爵の野心にのみ向けられています。そして、その野心を阻む存在は、この男がためらいなく切り捨てる対象でありました。
二人の間には、見えない壁と、冷たい空気が流れていました。王都が抱える危機は、食糧だけではありませんでした。それでもサイモンに頼らなければ政務が回せなかったのです。
王の権力が不安定になっていることは、水面に広がった波紋のように、王国内の貴族たちにも、知らぬうちに広がっていきました。城壁の中に閉じ込められた王宮の重苦しい空気は、外の世界へも流れ出ていたのです。
王国内で第二の勢力を持つサザーランド公爵家。その当主、マイケル・サザーランド公爵は、自身の広大な邸の書斎で、深く思案に暮れていました。
彼の目の前には、王亡き後の「玉座」という名の巨大な天秤がありました。 セドリックを担ぐか、チャールズを担ぐか。
王宮に送り込んでいる息子サイモンの情報によれば王都が魔王による瘴気の被害に見舞われるという、建国以来の非常時。この危機に際し、セドリックはあまりにひ弱に過ぎるという見立てでした。彼の優柔不断な性格は、飢えと不安に苛まれる民をまとめ上げる器ではありません。
しかし、弟のチャールズは、先王から勘当され、一度は下野した身。その血筋の正統性には、若干の瑕があります。しかし、彼は今、王都を救う「聖女」ソフィアを、ほぼ身内として傍らに置いています。この「聖女」の光は、一門を担ぐにはあまりにも大きな力でありました。
公爵は、顎髭を撫でながら、さらに危険な思案を巡らせました。 (いっそのこと、この混乱に乗じて、わがサザーランド公爵家が王国を簒奪するか……)
王家の血筋に頼らず、自ら王となる。それは、長きにわたり王権を支えてきた大貴族ならば、一度は胸に抱く野望でありました。王都の窮地は、彼にとって、まさに好機に見えていたのです。
王都の民は貧しいものから順に飢えていました。王宮にも食糧庫を解放してくれとの幾度も陳情が来ていましたがサイモンがすべてを一蹴しておりセドリックの耳に民の声が届くことはありませんでした。
王宮内の食糧事情は、民衆とは違って、すぐに破綻するわけではありませんでした。 亡き先王の妃、ジャネットは、王都の混乱が始まる前に、実家であるスペンサー公爵家から、充分な食糧の提供を受けていました。ジャネット妃の実家は、王国の遥か南方、豊穣の土地を支配しており、瘴気の影響など及びもしなかったのです。
王宮内部は、当面の間、飢えることはありません。 これが、セドリックがフレイザー伯爵家からの穀物提供の申し出に二の足を踏んでいる、もう一つの理由でもありました。
(王宮は事足りている。民の食糧など、後回しにしても、すぐに自分の立場が危うくなるわけではない)
セドリックは、民の飢えよりも、ソフィアという光の力を借りたフレイザー家の勢力が、これ以上強くなることを恐れていたのです。彼の視線は常に、王の座という、狭く、閉鎖された一点にのみ向けられていました。
王国の命運は、今、広大なる空を翔ける浄化の光と、暗い王宮の中で渦巻く、貴族たちの思惑の狭間で、危うく揺れ動いていました。




