支配者の器
大広間は、熱を帯びていました。集められた貴族たちの視線が、ざわめきと、期待と、そして深い不安の混じり合った濁流となって、ただ一人、中央に立つ若き英雄——チャールズに注がれています。 彼らは皆、この王都を、暗き厄災の淵から救い出した者が、当然のように、あの空位の玉座に座ることを望んでいたのです。
しかし、チャールズの意思は、岩のように固く、揺るぎませんでした。 風使いの隠れ里で、自らその身に纏う「王子」という名の鎖を断ち切ったあの日から、彼の魂は、この重く、淀んだ権力という名の構造から、とうに解き放たれていました。
彼は、ざわめく貴族たちに向き直ります。深い、しかし一切のためらいなき澄んだ声が、広間の高天井に響き渡ります。
「私は、王位を固く辞退する」
瞬間、広間は息を呑んだかのように静まり返り、次いで、困惑のざわめきが波のように広がります。何人かの老貴族は、信じられないという様子で互いに顔を見合わせ、その深き皺に驚愕の色を浮かべていました。
チャールズは、その混乱には目もくれず、未だ王族の装束を身に纏い、しかしその威厳を失ったように佇む、兄の第一王子セドリックへと向き直ります。
「セドリック殿下こそが、この国の法と、清き血筋に則り、王位を継承するにふさわしい方です」
彼は、そう言い切ると、広間の冷たい大理石の床へと、静かに、しかし決然と腰を折りました。額が、冷たき石床に触れる寸前まで深く下げられます。 それは、一人の臣下として、新しき王に絶対の忠誠を誓う、清々しさに満ちた姿勢でありました。彼の心には、王冠の重圧に代わる、ただ純粋な「救国の務め」への想いだけがありました。
「王都復興に、私にできることであれば、何でも手を貸しましょう。セドリック王、ご命令を」
その言葉の響きは、王位継承の儀式にも似た重さを持っていました。
「いや、チャールズ」
セドリックは、たまらずといった様子で声を上げました。その顔には、安堵と、縋るような焦燥の色が浮かんでいます。
「共同でこの国を統治しないか。お前を勘当したのは先王だ。私ではない。魔王の瘴気で、王都を中心に我が国土は、大きく傷ついている。これは、一人の王で担える状態ではないと考える。緊急事態ともいえる。この国を救うかどうかはお前次第だ」
兄は、この重責を弟と分け合おうと必死でした。しかしながら、チャールズは、再び王家の、あの淀んだ権力の渦に身を投じることを、魂が許しませんでした。
「兄さん、国が立ち直るまで、いくらでも手助けは致します。しかし、私は王家に戻る意思はありません」
その語気は、兄の懇願を静かに、しかし強く拒絶していました。
「まずは、王都に巣食う瘴気の残渣を祓うべく、聖堂の聖魔法使いたちと打ち合わせに行かせてください」
「わかった、それもまた、国土再生の重要な任務の一つだな」
セドリックは、弟の能力と献身に、僅かな光を見出した。彼は、広間に控える料理長を顧みます。
「ところで料理長、王宮の食料は、後どれくらい残っている」
やややつれた様子の料理長は、不安げな面持ちで進み出ました。
「あれだけの人数で籠城しておりましたので、食糧庫の中身はかなり減っております。王太后様のご実家からいただいた食糧を別とすると、一週間ほど持つかどうかと…」
「少なすぎるな」
セドリックは眉をひそめ、側近のサイモン・サザーランドへと目を向けます。
「サイモン、すぐに食料調達を」
サイモンは、内心で冷ややかにほくそ笑みます。(これで、セドリックの無能さが露呈する。サザーランドからの食料供給はわが父がすでに止めているからな)。
瘴気に覆われた王都の、再建は、今、この瞬間から始まりました。それは、王冠の重さではなく、飢餓と病と、そして目に見えぬ瘴気の脅威との、静かなる戦いでありました。
王都の市場ではすでに穀物価格が急騰し、日頃の倍ほどの値段になっていました。穀倉地帯のサザーランド産の穀物の入荷が何故か止まっているせいだといいます。
チャールズは、儀礼と体面だけが残された王宮を後にし、急ぎ足で聖堂へ向かいました。彼の背後には、セドリックの縋るような眼差しと、サイモンの計算高い眼差しがありましたが、今は顧みません。 彼の眼差しは、ただ一つの場所、聖堂前の広場を目指していました。風の知らせでソフィアが広場にいると聞いていたからです。
そこは今、先の混乱から立ち直りつつある避難民が身を寄せ合う、仮の安息の地となっていました。
そこここに木材が積み上げられ、ソフィアが火魔法で点火し、大きな焚火として人々はその周りに集まり静かに過ごしていました。
その静かな空間で、チャールズは、風使いの村から戻ったソフィアと、ようやく向き合う事が出来ました。
彼女の姿は、以前と変わりはありません。しかし、その瞳の奥には、確かな力が満ちていました。
ソフィアは、風使いの村の深い静寂の中で、己の力の源泉と静かに向き合ったのでしょう。魔王との戦いで枯れ果てていた魔力の泉を再び満たし、大地と風との間にあった、断たれたはずの紐帯を、再び結び直して戻ってきていたのです。 彼女の全身には、王宮の闇に囚われる危険を顧みず、チャールズの進める王都の息を吹き返す務めに、己のすべてを捧げるという、強い決意が宿っていました。
「ソフィア」
チャールズは、偽りなき言葉を、まっすぐ彼女に投げかけました。
「君に、一つの務めを託したい。王都の空気の底に残る、あの瘴気の残滓を、根こそぎ浄化したいのだ。その務めを、フィリッポ・モラッティ師と力を合わせ、君が担ってくれないだろうか」
ソフィアは、ためらいというものを知らぬかのように、力強く頷きました。その瞳は、一点の曇りもなく、チャールズの決意を映し返していました。
「もちろんです。そのために、私は、遠き風使いの村から、急いで帰って来たのだもの」
二人の間に交わされた言葉は、単なる約束ではありません。それは、滅された魔王が残した王都の病を根絶し、この街に真の生命の息吹を取り戻すための、新たなる誓いでありました。
一方、食料調達を命じられたサイモンは父親のサザーランド公爵に自領に有る穀物備蓄を秘匿するように進言していました。また、王都内で始まった穀物の買占めについて把握していましたが特に手は打たず、高値で王宮用の穀物を仕入れ、さらなる価格高騰を煽っていました。




