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別離

 蝋燭のわずかな明かりが、その広大な空間を照らしていました。床には、身を寄せ合うようにして、ぎっしりと人がいます。貴族も、使用人も、そしてフレイザー家の者たちも、皆、顔を青白くして横たわっています。


「チャールズとソフィアが帰還しました!」「魔王は討伐しました!」


 チャールズが、大声で告げます。しかし、彼らの帰還という、これ以上ない朗報に対しても、人々の反応は弱かったのです。


 顔を上げる者は少なく、わずかに視線を向けても、すぐに虚ろな瞳で下を向いてしまいます。彼らは皆、極度の疲労と、濁った空気の中で、意識が朦朧としていることが見て取れました。


「空気が悪い。換気しよう!」


 チャールズが叫び、開いている窓を探して駆け寄りました。 その時、一人の衛兵が、弱々しい力でチャールズの腕を掴みました。


「だめだ! 王子! 外の瘴気が入ってくる!」


 衛兵の顔は、外の空気に対する根深い恐怖で歪んでいました。 チャールズは、衛兵の目を見て、きっぱりと言い放ちます。


「瘴気は、すでに大半が祓われた。大丈夫だ!」


 彼は、衛兵の手を振り払い、窓に近づくと、分厚い目張りを引き剥がし、留め具を外し、力任せに窓を開けさせました。


 瞬間、冷たい、清冽な外の空気が、大広間になだれ込んできました。 瘴気の気配は、もはやない。夜の冷たさと、微かな森の匂いを含んだその空気が、よどんだ熱気を押し流していきます。


 すると、どうでしょう。 横たわっていた人々の顔に、わずかながらに色が戻り始めました。数人が、深々と息を吸い込み、咳き込みました。彼らは、まるで水を得た魚のように、生き返ったかのような表情を見せました。


 彼らが「疫病」と呼んだものは、重く澱んだ瘴気と、密室の不潔な空気が生み出した、一種の衰弱状態だったのかもしれません。光と風。それが、彼らにとって、何よりも必要なものだったのです。


 王都の聖堂の客室。ソフィアは、窓から差し込む、清浄さを増した光を見つめていました。


 だが、その光は、彼女の心の奥に巣食う小さな影を、拭い去ってはくれませんでした。魔王を滅したあの日から、もう二日。身体の疲労は、久しぶりの柔らかなマットレスと、簡素ながら温かい食事によって、確かに和らいできていました。


 だが、魔力だけが、戻ってこないのです。 かつては、一晩眠れば、体の奥にある魔力の源泉は、清らかな泉のように満たされていたものでした。しかし今は、底をさらってしまった後のように、静まり返っているのです。


 風に様子を尋ねても、風は沈黙したままでした。街の空気がまだ重いのか、あるいは、風の精霊たちもまた、深い闇の後ろに静かに息を潜めているのかもしれませんでした。


 チャールズは、そんなソフィアの不安に気づきながらも、王都の復興に尽力していました。彼の目は、まだ澱みが残る街の光景と、籠城のまま呆然としている王宮の様子を、絶えず見張っていました。


 その夕刻、彼らが聖堂の庭で静かに休んでいると、一陣の清冽な風が、庭の古い石像を撫でて通り過ぎました。風の渦が収まった場所に、ゼフィーリアが音もなく立っていました。


 ゼフィーリアは、まずチャールズに鋭い視線を向け、風の声音で問いかけました。


「チャールズよ。ソフィアには、風の精霊による癒しが必要なようだ。魔王との戦いの影響が、その魂の根源にまで残ってしまっている。連れていくがよいか」


 チャールズは、一瞬、逡巡しました。 (本来なら、この清らかな生活を、彼女と片時も離れずに送りたい)


 だが、彼は深く息を吐き出し、遠くにある王宮の方角を見ました。籠城策で人の命を繋いだだけの、無策の王宮、そして、未だ瘴気の澱みが残る王都。彼は、一人の男としての使命を、静かに悟っていました。


「ゼフィーリア殿。本来ならば、ソフィアと共に、あなた方の村へ向かうべきでしょう」


 彼はそう言って、ソフィアの手をそっと握りしめました。


「ですが、王都の惨状を目の当たりにすると、今は、こちらで復興にあたりたいのです。王の勘当を受けた身ですが、僕にもできることが何かあるはずだ」


 チャールズは、ソフィアの手を離し、ゼフィーリアに向き直りました。


「ソフィアのことは、よろしくお願いします」


 ソフィアは、ただ、頷きました。二人の間に、もう言葉はいりませんでした。 風は、彼女の体を優しく持ち上げ、チャールズが手を振る聖堂の庭から、あっという間に遥か彼方へと飛び去りました。


 風使いの村に着くと、ソフィアは、ゼフィーリアに導かれるまま、村の外れにある古い精霊の木の根元へと向かいました。 その木の幹は、数千年の風の記憶を刻みつけているかのように太く、葉は夜の帳の中で、微かな精霊の光を湛えていました。ソフィアは、その木の根元の苔むした大地に、そっと横たわりました。


 瞬間、彼女の意識は、過去への奔流へと吸い込まれていったのです。 (ああ、これは……)


 彼女は、子供の頃、領都の収穫祭で、唐突に魔力の目覚めを迎えた日の、あの戸惑いと興奮を追体験していました。次に、王都の魔力鑑定で、自分が「全属性持ち」であるという宿命を知った瞬間。そして、チャールズと初めて言葉を交わした日の、清冽な喜び。


 記憶は、まるで風に運ばれる木の葉のように、次々と彼女の意識を通り過ぎていきます。大災厄の恐怖、王都の水源を巡る戦い、そして、風使いの村での魂の静養。


 風の精霊は、その間ずっと、ソフィアを懐に抱くように、彼女の魂を癒していきました。木の根の深い土の中から、清らかな水の流れのように、生命の力がソフィアの全身の細胞の一つ一つへと注ぎ込まれていきます。それは、力ずくで魔力を満たすのではなく、傷つき、疲弊した力の源泉を、優しく、慈愛に満ちた手で修復していくかのようでした。


「だいじょうぶ……だいじょうぶ」


 声はなかったが、風の精霊の意志が、彼女の耳の奥に響いていました。


 王城に残ったチャールズは、覚悟を決めた足取りで、人の気配のない王宮の奥へと進んでいきました。


 彼が向かったのは、王の私室。扉の前には、腰を抜かしたように座り込む衛兵が一人。チャールズの姿を見ると、彼は震える指で部屋の中を指し示しました。


「で、殿下……陛下が、陛下が……」


 言葉にならない呻きを聞き捨て、チャールズは重厚な扉を押し開けました。 むっとするような異臭が鼻を突きます。それは、死臭というよりも、もっと根源的な、古びた憎悪の澱んだ臭いでした。


「……これは」


 部屋の中は、荒らされていました。宝石や権利書が散乱し、王が逃亡の準備をしていたことは明らかでした。そして、その瓦礫の海の中で、父王ウイリアムは息絶えていました。


 ベッドの上でも、玉座の上でもない。部屋の出口へ向かう床の上で、何かを掴もうと手を伸ばしたまま、苦悶の表情で固まっていたのです。その顔はどす黒く変色し、かつての威厳は見る影もありません。


「ソフィアという『力の源』を自分の手の届く場所に置こうと執着した報いが、これか……」


 ソフィアに相対する力の根源であった魔王の瘴気。それに真っ先に狙われ、飲み込まれたのは、皮肉にも王都で最も力を欲した男でした。


「……あ、あぁ……黒い、霧が……父上を……」


 部屋の隅、カーテンの陰から、掠れた声が聞こえました。 チャールズが振り返ると、そこには兄、セドリック第一王子が膝を抱えて震えていました。


「兄上?」


「逃げようとしたんだ……父上は、私を置いて、真っ先に。そうしたら、窓から黒い手が……」


 セドリックの瞳は虚ろで、焦点が合っていません。目の前で父が異界の毒に冒され、悶え死ぬ姿を見た恐怖が、彼の精神を深く蝕んでいるようでした。


(これが、籠城の理由か)


 瘴気を防ぐための籠城策。それは民を守るためではなく、ただ、あの黒い恐怖から目を逸らし、閉じこもりたかっただけの、兄の悲鳴だったのです。


 王城の大広間に、貴族や使用人、そしてフレイザー伯爵の家族までも集め、扉を固く閉ざしたことが、かえって空気の悪化と衰弱を招いていました。あの時、チャールズとソフィアが駆けつけ、窓を開けなければ、大広間に集められた人々の命は尽きていたかもしれませんでした。


 大広間に集まった貴族やその使用人たちは、命の恩人であり、元王子であるチャールズこそが次の王にふさわしいと、戴冠を迫りました。


「チャールズ王子! あなたが王座に就かれるべきだ! 陛下は亡くなられた。セドリック殿下の判断は、我々を窮地に陥れた!」


 しかし、セドリック王子は、顔を青白くさせながらも、断固として首を縦に振りませんでした。


「待て! 私が正統に王位を継ぐべき者だ! 勘当されたチャールズなどに、王位を譲る道理はない!」


 大広間の空気が、再び重く淀み始めました。だが、それは瘴気の重さではない。権力と、人々の思惑がもたらす、ねっとりとした重さでした。


 チャールズは、ソフィアと静かに歩んだ日々を思い出し、その重さから解放された、ただの「チャールズ」として、静かに、しかし、明確な決意を固めていました。


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