王都の惨状
「風の噂」は聞こえてきません。しかし、いつまでも聖堂に留まっているわけにはいかない。ソフィアとチャールズは話し合い、王宮とフレイザー伯爵家へと、街の様子を見に行くことを決めました。
ソフィアの魔力の回復は遅く、体の中の魔力の源泉が、底をさらってしまった後のように、静まり返っています。回復の兆しはあるものの、風を束ねて二人で宙を飛んでいくほどの魔力は回復していません。二人は、ゆっくりと、歩いて街へ向かうことにしました。
石畳を踏みしめながら歩んでいくと、街の光景が、予想以上に重く、目に飛び込んできました。
瘴気。それは、地下深くの根源は滅したとはいえ、まだあちらこちらに、湿った苔のようにこびりついていました。建物の陰、路地の隅、打ち捨てられた荷車の側。空気がよどみ、黒ずんだ靄が微かに漂っています。そうした「澱み」のあるところには、まだ魔物が潜んでいるような、どろりとした気配が残っています。
「……街が、考えていた以上に荒廃している」
チャールズが、低くつぶやきました。彼の言う通りでした。魔王の存在は、知らぬ間に街の「空気」そのものを毒し、人々の心と生活を蝕んでいたのでした。
しばらく歩いて、フレイザー伯爵家のタウンハウスに着きました。
しかし、門は堅く閉ざされています。玄関には、ソフィアの帰宅を伝え、喜びに駆けてくるはずの使用人の姿も、気配もありません。邸全体が、まるで息をひそめたように静まり返っています。
ソフィアの胸に、冷たい水が流れ込んできました。
「誰も……いない」
チャールズが警戒しながら門番の扉を叩きますが、応答はありません。 不安に駆られたソフィアは、通用門から入り馴染んだ玄関の扉に手をかけました。閂はかかっていませんでした。軋む音を立てて扉を開け、中へ入ります。
広々としたエントランスも、応接間も、静寂に包まれています。人影は、どこにもありません。家人も、使用人も、誰も居ませんでした。まるで、時間が止まってしまったかのように、家具だけが整然と並んでいます。
チャールズが剣に手をかけ、警戒しながら邸内を巡ります。ソフィアは、不安を抑えながら食堂へ足を踏み入れました。
テーブルの上に、一枚の書き置きが置かれていました。かすかに震える手でそれを開くと。母の、いつもの流れるような筆跡でした。
「ソフィアへ、 もし、お前が(奇跡的に)戻って来たのであれば、この手紙を読むだろう。 家族も使用人も、全員、王宮に避難している。王都は『疫病』でひどい有様になってしまった。 もしまだ無事なのであれば、速やかに王都を立ち去った方がいい。 母より」
手紙の最後には、焦燥と、かすかな希望が滲んでいました。しかし、その内容は、ソフィアの胸に重くのしかかりました。
「疫病……」
チャールズがそばに寄ってきて、手紙を読み上げました。
「ご家族は無事のようですね。王宮に避難したか……」
ソフィアは、安堵の息を漏らしながらも、街の異変が、ただの瘴気による狂気だけでは済まなくなっていることを悟りました。魔王が滅びた今もなお、新たな災いが王都を覆い始めているのです。
フレイザー伯爵家のタウンハウスを後にした二人は、重い足取りで王宮へと向かいました。遠目から見た王宮は、すでに跳ね橋を上げて籠城の態勢に入っているようです。城壁は高く、門は閉ざされ、まるで巨大な岩が口を閉ざしたかのように、鉄壁の守りを見せています。
ソフィアは立ち止まり、深く息を吸い込みました。
「仕方ありませんね」
彼女は、体に残された僅かな魔力をかき集め、風の精霊たちに呼びかけました。
「風よ、我らを運べ」
風は、彼女の呼びかけに応えました。優しく、しかし確かな力で、二人の体を持ち上げます。彼らの体は、城壁をひらりと飛び越え、静かに王宮の敷地内へと降り立ちました。
場内に入っても、人の気配は全くありませんでした。廊下はしんと静まり返り、聞こえるのは自分たちの足音だけです。不気味なほどの静寂が、王宮を支配していました。
やがて、二人は舞踏会などに使われる大広間の入口にたどり着きました。 その扉は、厳重に目張りされています。隙間という隙間が、布や板で塞がれています。
「恐らく、全員この中だ」
チャールズが低い声で言いました。彼は扉を開けようとしますが、どこも鍵がかかっています。 二人は、大広間を取り囲むいくつもの入口を、一つずつ確認していきました。何度目かの試みの後、ようやく一か所、鍵がかかっていない小さな扉を見つけました。
チャールズが、そっと扉を開けます。 扉を開けた瞬間、まず、耐え難いほどの臭気が鼻を突きました。 閉じ込められた何百という人々の体臭、病気の臭い、そして、微かに残る瘴気の澱み。空気が重く、湿っています。




