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魔王の救済

 深い、深い闇の底から、二人はようやく光の届く場所へと戻ってきました。


 ソフィアとチャールズは、聖堂の地下から礼拝堂へと続く冷たい石段を昇りきると、まるで重い水の底から引き上げられたように、その場で全身の力を失いかけました。地下の戦闘で受けた傷と、魔力を限界まで使い果たした代償が、全身の骨の軋みとなって二人を打ちのめします。


 そこには、フィリッポ・モラッティ師が、わずかに残った灯りの傍らで、壁にもたれかかるように座していました。彼の顔は土気色に汚れ、疲れ果てたというよりは、命そのものが削り取られたかのような痛々しい有様でした。


 彼は、二人の姿を視界に捉えると、まるで最後の気力を振り絞るように、か細い声で問いかけました。


「……魔王を、倒されたのですね」


 ソフィアは、その問いに短く、しかし、決して揺るがぬ言葉を返しました。


「はい。聖なる裁きの魔法をもって、魔王は完全に滅しました」


 その返答を聞いた瞬間、モラッティ師の目から、張っていた糸が切れるように力が抜けます。安堵と疲労が渾然一体となった息を一度吐き出すと、彼は小さくつぶやきました。


「助かった……」


 それきり、モラッティ師は意識を手放し、重力に従うように静かに崩れ落ちました。チャールズが慌てて体を支えます。


「ひとまず、王宮へ向かうべきだろう」


 チャールズはそう言って立ち上がろうとしましたが、その時、開け放たれた聖堂の扉から、一筋の風が二人の間を通り抜けました。それは、ただの風ではありませんでした。清らかな水の流れのように二人の頬を撫で、そしてソフィアの耳元へと、そっと、囁きかけました。


「今は、まだ行かないほうがいい」


 風は言葉を持たぬ。だが、その気配と音の響きは、たしかに明確な意志を伝えていました。 ソフィアは訊ねました。


「なぜ?」


「町の隅々に、まだ瘴気の澱みが残っています。あれほど強大な魔の気配が消え去ったとしても、人々の心に巣食った影が晴れるには、今しばらくの時が必要だから」


 その風の囁きは、ソフィア自身、肌で感じていた真実でした。聖魔法の力で地下の魔王は滅ぼし得ましたが、町を覆い尽くした穢れをすべて祓い清めるほどの、余力は、もう彼女の身体には残されていませんでした。


 二人はモラッティ師を丁重に横たえ、聖堂でしばらくの時を過ごすことに決めました。


 時間が薬となるのを待つように、静かに息を潜めて休む二人を、ぽつり、またぽつりと、信者たちが訪ねてきます。彼らはただただ、聖堂の、今まで淀んでいた空気が嘘のように澄み切っていること、そして、どこにも禍々しさのかけらもない、光に満たされた状況を目にしました。


 言葉もなく、ただ膝をつき、両の掌を重ねて神への祈りを捧げる者たちの姿は、清められた町の、新しい夜明けのようでもありました。


 ソフィアとチャールズは、聖堂の一室で、質素な食事を口にしていました。


 黒パンを薄く切ったものと、野菜を煮込んだだけのスープ。それでも、飢えを満たし、疲れた体に温もりをくれるには充分でした。二人は、ただ静かに、ソフィアの魔力の回復と、街を覆う瘴気が薄れていくのを待ちました。


 チャールズは、時折、落ち着かない様子で窓の外を見ていました。王宮の状況はどうなっているだろう。あるいは、フレイザー伯爵家のタウンハウスは無事だろうか。


 風に様子を尋ねても、風は沈黙したままでした。昨日のように囁き返してはきません。街の空気がまだ重いこと、あるいは、風の精霊たちもまた、深い闇の後に静かに息を潜めているのかもしれませんでした。


 その晩、二人は聖堂の客室に泊めてもらいました。 久しぶりの柔らかなマットレスは、戦いの後の体には深い安堵をもたらしました。二人は、意識を失うように熟睡しました。


 翌朝。聖堂の食堂で、温かいパン粥の朝食を摂っていると、フィリッポ・モラッティ師が二人の傍らに静かにやってきました。昨日の疲労困憊の様子からは幾分回復しているようでしたが、その顔には、深い思索の影が残っています。


 モラッティ師は、静かに問いました。


「あの……その、魔王とは、いったいどういう存在だったのでしょうか」


 モラッティ師は、自らが対峙したわけではありません。しかし、この聖堂の地下で、長きにわたり封じられていた闇の正体を知りたいと、強く願っているのがソフィアには分かりました。


 ソフィアは、スプーンを置いて、静かに答えました。


「魔王は、たしかに魔女狩りをした王の末路でした。しかし、彼は、その自らの行いが生み出した『魔』という存在に落とされ、ひどく苦しんでいたようです」


 彼女の言葉に、モラッティ師は目を見開きました。


「苦しんでいた……?」


「はい。そして、私に『早く滅してほしい』と頼んできました」


 モラッティ師は、喉の奥で息を飲みました。彼が想像していた、純粋な悪の権化という姿とはあまりにもかけ離れた話だったのでしょう。


「魔王が、そんなことを……」


 ソフィアは、地脈の底で交わした、あの奇妙なやり取りを思い出しながら続けました。


「あの魔王は、私とモラッティさんが王都の水源の泉で『地脈の怨』を浄化したことで自分を滅する力を持つ『聖女の出現』を知ったそうです」


 彼女の瞳は、遠い地下の闇を見つめているかのようでした。


「だからこそ、彼は自らの意思で封印を壊し、私を地下深くに招き入れて『どうか、私をこの罰から解き放ってくれ』と……そう言っていました」


 モラッティ師は、腕を組み、深く考え込みました。それは、単なる悪霊の物語ではなく、人の業と、それに囚われた魂の、救済の物語だったからです。


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