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魔王

 聖堂前の広場に降り立ったソフィアとチャールズは、まるで世界の色が変わってしまったかのような光景に、思わず足を止めました。


 王都の真ん中にある大聖堂だというのに、人影がありません。それどころか、いつも広場の周りに群れている鳥たちの影さえ見えないのです。空気そのものが重く、ねっとりと肌にまとわりついてきます。


「……いつもなら、信者の方の出入りが多少なりともある聖堂の前に、誰もいないのは異常だ」


 チャールズは、その言葉を喉の奥から絞り出すように呟きました。彼の声は、しんとした広場の静寂に吸い込まれ、あっという間に消えてゆきます。王族としての血の記憶か、それともこの世の(ことわり)を知る者の本能か、彼の背筋には、冷たい戦慄が走っていました。


 ソフィアは、その場に立ち尽くしたまま、瞼を閉じて深く息を吸い込みました。


「ええ、瘴気のようなものが王都全体に広がっているように感じます。けれど、聖堂の中の方が、その淀んだものが、まるで溜まり水のように濃く感じられます」


 それは、風使いの村で感じた清浄な風とは真逆の、魂を蝕むような、重苦しい「負」の気配でした。


 チャールズは、ソフィアの手を握り直し、ゆっくりと話し始めました。語られるのは、歴史書には載らない、秘められた王家の罪の記憶でした。


「ソフィア、前に魔法使い、特に女性の魔法使いを『魔女』として殺した王が居たという話をしたのを覚えているかい」


「はい。魔力鑑定の際に聖堂の魔道具を使う時、フィリッポ・モラッティさんと話をされていたのを覚えています」


 あの時、チャールズは、未来の王となるはずの自分自身にかけられた重い鎖について語っていました。しかし、今、彼が話すのは、その鎖の元になった、さらに古い因縁についてでした。


「その魔法使いを殺した王の遺骸が、聖堂の地下に封印、埋葬されているんだ」


 チャールズの瞳は、過去を見つめているかのように翳りました。


「言い伝えでは、その王は死んでも遺体が腐らず、むしろ憎悪の念を凝縮させ、瘴気を発し出したので……当時の教皇猊下(げいか)が、これは『魔に転ずる恐れがある』と喝破し、『封魔印ふうまいん』を施して聖堂の地下深くに封印したと伝えられているんだ」


 それは、王国の創世の歴史に深く刻まれた、恐るべき呪い。権力に溺れ、世界の理に抗った者の残した、巨大なごうの話でした。


「その封印が、今、破れかかっている」


 チャールズはそう言って、硬く閉ざされた大聖堂の扉を見据えました。彼の顔は、もう、逃げ惑う王子ではない。使命の重さを知る、一人の男の顔でした。


「さあ、中に入って状況を確認しよう」


 重厚なオーク材の扉を押して中へ入ると、聖堂の空気はさらにひどく凝固しているようでした。 祭壇の前では、数名の僧侶が額に汗を滲ませながら、声にならないようなかすれ声で、切羽詰まった「封魔の祈り」を捧げています。彼らの背後、聖壇の奥まった場所から、冷たい土と澱んだ水の臭いに混ざって、禍々しい圧力が波のように押し寄せてきます。


 二人に気づいたのは、聖堂の最高責任者であるフィリッポ・モラッティ氏でした。彼は祈りをやめ、袈裟の裾も気にせず、駆け寄ってきました。


 その疲れた聖者の顔には、かつてソフィアの魔力鑑定を司った時の威厳も、王族に媚びるような計算高さも、何もかもが消え失せていました。そこにあったのは、ただの、救いを求める人間の絶望だけでした。


「お待ちしておりました、ソフィア様」


 モラッティは、その場で膝をつき、両手でソフィアの手を掴みました。その震える手は、助けを求める者すべての切実さを伝えていました。


「どうか、どうか、王都をお救い下さい。我々の聖なる力では、もはや、この忌むべきものを抑えることは……手には負えませぬ!」


「聖なる障壁を、どうか」


 フィリッポ・モラッティはそう言って、深く頭を垂れました。彼の顔には、聖者としての威厳はとうに失われ、神聖視ディバイン・サイトを酷使した後の疲労と、それ以上の恐怖が刻みつけられていました。


「神聖視で地下を探っておりますが……あれは、ただの魔物ではありません。言い伝えにある、魔王という存在に、限りなく近い」


 モラッティの言葉は震えていました。長年、信仰と理の世界に生きてきた人間が、初めて絶対的な「負」の力を目の当たりにした、戦慄の声です。


「今は、聖域サンクチュアリの中に、かろうじてとどめているに過ぎません。ですが、それは我々が閉じ込めているのではない。奴が、まだ出ようとしていないだけです」


 この一言が、大聖堂の現状を雄弁に物語っていました。巨大な悪意が、ただ気まぐれにその場に留まっている。聖職者たちの祈りは、その機嫌を損ねないための、はかないささやきに過ぎないのでした。


 ソフィアは、モラッティの言葉に静かに頷き、チャールズに向き直りました。彼の表情には、迷いも恐れもありません。あるのは、ソフィアと共に、この忌まわしい因縁を断ち切るという、強い決意だけでした。


「行きましょう、チャールズ」 「ああ、君と一緒なら、どこへでも」


 二人は、モラッティが指し示した祭壇横の、飾り気のない地下への扉に向かいました。扉の向こうからは、すでに地獄の息吹のような、冷たくねばつく瘴気が噴き出していました。


 ソフィアは、手のひらを合わせ、胸の奥で息を整えました。体内に宿る「精霊の力」が、彼女の祈りに応えてざわめきます。


「聖なる障壁ホーリー・バリア


 ソフィアが放った魔法は、チャールズと彼女の全身を、薄い膜のように、清らかな光で包み込みました。それは、穢れを寄せ付けない、純粋な魔力の盾でした。 一歩、地下への階段を踏み込むと、瘴気の濃度は一気に跳ね上がり、障壁の外側が、まるで硫酸を浴びたかのようにチリチリと音を立てました。


「こんな濃さでは……障壁がなければ、即座に肺が腐り落ちるだろう」


 チャールズは呻くように言いました。風使いの村で鍛えられた彼の身体でさえ、この瘴気の重圧には耐えられません。二人は、光の膜の中で互いを支え合いながら、深いカタコンブ(地下墓所)の中を進んでいきました。


 湿り気を帯びた石の階段は、数百年の歴史を物語るように摩耗し、その奥深くに、忌まわしい力の源が待っていました。


 カタコンブの最も深い、最も古い一室。そこが、かつて王国の光であった者が、今や闇の核となった場所でした。 部屋の中央には、黒く変色した石の玉座が据えられ、その玉座は、まるでかつての栄華を嘲笑うかのように、無数の骸骨で飾り立てられていました。


 そして、その玉座の上で、信じがたい光景が繰り広げられていました。


「ウゥゥ……グアァァァァッ……!」


 地底を揺るがすような、耳障りな咆哮。 玉座に座しているのは、かつての王の成れの果てである骸骨の化け物でした。しかし、彼は悠然と待ち構えていたわけではありません。自らのあばら骨を掻きむしり、頭蓋を玉座の肘掛けに打ち付け、全身から噴き出すどす黒い瘴気の奔流に、自らが焼かれているかのように苦悶していたのです。


「瘴気が……暴走している!?」


 ソフィアが息を呑んだその瞬間、魔王の体から溢れ出た瘴気が、制御を失った黒い鞭となって、無差別に周囲を薙ぎ払いました。


「ソフィア、下がれ!」


 チャールズが叫び、とっさにソフィアの前に身体を滑り込ませます。 ソフィアが展開していた『聖なる障壁ホーリー・バリア』が、瘴気の直撃を受けて激しい火花を散らしました。しかし、魔王の苦痛が生み出す破壊のエネルギーは凄まじく、障壁の一部を突き破り、鋭い切っ先となってチャールズの左肩を掠めました。


「ぐっ……!」 「チャールズ!?」


 チャールズが短くうめき声を上げ、その二の腕から鮮血が飛び散りました。赤い血が、冷たい石床に点々と滴り落ちます。


「大丈夫だ、かすり傷だ……! それより、あれを見ろ」


 チャールズは痛みに顔を歪めながらも剣を構え直し、玉座の魔王を睨み据えました。 暴れまわっていた魔王は、一撃を放った反動か、ガクリと玉座に崩れ落ち、虚ろな眼窩を二人の方へと向けました。その姿は、圧倒的な脅威というよりも、病に伏せる老人のように痛々しいものでした。


 ひび割れた顎が動き、苦渋に満ちた、乾いた音が漏れ出しました。


「……殺、して……くれ……」


 それは、攻撃の意思ではなく、魂からの悲鳴でした。


「この……終わらぬ、業火のような苦しみから……私を、解放してくれ……」


 魔王と化した古の王は、憎悪ではなく、縋るような視線をソフィアに向けていました。


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