表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/57

再び王都へ

 チャールズは、風使いの村の隅に、村人から譲り受けた小さな小屋を得ていました。


 王宮での華やかな生活とはかけ離れた、土と木でできた粗末な住まいでしたが、彼はそこで、ただの「チャールズ」としての日々を送っていました。この自給自足の村では、「働かざるもの食うべからず」という厳しくも清々しい掟があります。彼はその掟に従い、日々、村の仕事に精を出していました。


 最初のうちは、慣れない鍬の重さに戸惑い、山の急斜面を歩く足元もおぼつかなかったのですが、王族の血筋には、見えない粘り強さが宿っていたのでしょう。 やがて彼は、太陽の下で汗を流す喜びを知り、畑の畝をまっすぐに耕し、山で必要な薪を的確に見極めて切り出す、一通りの仕事をこなせるようになっていました。その腕と顔は、日焼けで精悍さを増し、王子の頃よりも、遥かに生き生きとして見えました。


 ソフィアもまた、村長の家で多忙な日々を送っていました。貴族の令嬢には似つかわしくない、炊事、洗濯、子守りといった生活の雑事を、彼女は文句一つ言わずに引き受けていました。


 特に、幼い子らを相手にする時は、その優しさが溢れ、彼女の周りにはいつも、柔らかな笑みが満ちていました。そして、疲れた時や急ぐ時には、ちょこっと火魔法でかまどの火を強めたり、水魔法で洗濯水を汲んだり、彼女の使命とは異なる、生活に根ざした魔法を、楽しむ余裕さえ生まれていました。 二人の暮らしは、静かで、貧しくとも満たされていたのです。


 そんな折、二人のささやかな平穏を打ち破る「風の噂」が、村にもたらされました。 王都で、正体不明の恐ろしい疫病が流行りだしたといいます。


 ただの噂と見過ごすには、事態はあまりに深刻であるようでした。若き風使いゼフィーリアは、すぐにその真相を確かめるため、王都へ飛びました。


 数日後、村へ戻ってきたゼフィーリアが、チャールズとソフィアの前にもたらしたのは、暗く重い知らせでした。


「どうやら、王都の聖堂の地下に、遥か昔から封印されていた、『忌むべきもの』の封印が解けかかっているらしい。王都に広がっている疫病はこの忌むべきものから流れ出ている瘴気によるものということだ」


 ゼフィーリアは、苦渋の表情で語りました。


「聖堂の聖魔法使いが総出で封印を強化しているが、忌むべきものの力が、あまりにも強大で……封印が破られるのも、時間の問題と聞く」


 そして、彼女はソフィアに向き直りました。


「聖堂のフィリッポ・モラッティ殿が、ソフィアの帰還を、切望していた」


 ソフィアの顔に、迷いはありませんでした。静かな決意が、その瞳に宿っていました。


「私の使命ですから。封印の修復に、行かねばなりません」


 しかし、チャールズは、その言葉に、苦しげに顔を曇らせました。


「ソフィア……。もし王都に戻れば、君は再び、王家の詮索の手が伸びる場所へ戻ることになるのではないか」


 彼は、もう、王子の座にも王家の権力にも興味はありませんでした。ただ、ようやく得た、この清らかな生活と、彼女を守りたいという思いだけが、彼の心にはありました。 風の噂は、清らかな村の空気に、不安の影を落としていました。


 しかし、ソフィアの決意は、固かったのです。 彼女は、チャールズの心配を理解しつつも、揺らぐことはありませんでした。その声は、冷たい風の中にあっても折れない、若木の枝のように、凛としていました。


「私の力は、こういった危機に対するために、神が授けたものと教えられて育ってきました」


 ソフィアは、遠い王都の方角を見つめました。そこにあるのは、人々の営みと、その下に潜む、深き闇の胎動です。


「王都に災いが訪れるのであれば、それは、私が必要とされているということです。私は、行きます」


 それは、己の定めに逆らうことのない、精霊に愛されし娘の、静かな覚悟でありました。


 チャールズは、その言葉を聞いて、ソフィアから視線を逸らしませんでした。彼の顔から、不安の色が消え、代わりに、一つの決断が浮かび上がりました。王族の矜持ではない、一人の男としての、確かな決断でした。


「ソフィアの意思を尊重するのが、僕の望みだ」


 彼は、そう言って、ソフィアの手をそっと取りました。力強く、それでいて、相手を縛りつけない、優しい握り方でした。


「だから、僕も一緒に行こう。王家の勘当を受けた身で、僕にできることがあるかどうかは分からない。だが、僕は、いつでも君のそばにいたい」


 その言葉は、王子の地位を捨てて得た、ただの「チャールズ」の偽りのない真実の言葉でした。 ソフィアは、うなずきました。二人の間に、もう言葉はいりませんでした。


 ゼフィーリアは、そんな二人を、微笑ましいものを見守るような眼差しで、見送りました。 彼らが、互いの手のひらに力を込めた瞬間、二人の周囲の空気が、かすかに揺らぎ始めました。


 風の精霊の力が、ソフィアの周囲に集まり、それをチャールズが共有する。二人は、地を踏むことなく、風の翼に乗って、一瞬にして、王都へと向かう空の彼方に消えていきました。


 二人の姿が見えなくなると、ゼフィーリアは、くるりと踵を返し、村の外れにある、古い精霊の木へと向かいました。 その木の幹にそっと手を触れ、彼女は目を閉じました。彼女の心の中で、風が囁き、精霊への祈りが、清らかな水のように流れ出しました。


 ――あの二人が、己の使命を果たし、無事に、再びこの村の空気に包まれて、帰ってこられますように。


 小さな、真摯な祈りが、幹を伝って、見えない大地の底へと、吸い込まれていきました。村の上を吹き抜ける風は、どこか、その願いを乗せて、強く、高く、遠くへ向かって吹いていきました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ