王の招待
タウンハウスで静養中のソフィアをチャールズ王子が来訪しました。
「突然の訪問、申し訳ない。だが、これだけはどうしても渡す必要があってね」王子は、そう言って、ソフィアの前に一通の封筒を差し出しました。ソフィアは、急いで身支度を整え、応接間まで降りてきたばかりです。追い返すなど、王子の地位と、何より彼女自身の立場では許されません。
ソフィアが戸惑いながら封筒を見つめると、王子は申し訳なさそうな表情で、中身を説明しました。
「内容は、君を顕彰するパーティーの招待状だ。王が開くという。主賓として出席して欲しい、と。まだ静養が必要だと私からも再三話したのだが、どうにも王には、どうしても開きたい事情があるようでね」その言葉の端々には、王室という巨大な機構に抗いきれない、王子の苦悩が滲んでいました。
「それで、どうだろうか。ゼフィーリアに頼んで、風使いの村で君を匿ってもらってはどうかと思ってね」王子は、声を潜めて続けました。
「王室行事から君を匿うなんて、王子の僕が言うのもおかしな話なんだけど、君の魂が疲れ切っていると、風から聞いていてね」
ソフィアの胸に、彼の言葉が、冷たい水のように染み渡りました。風は、本当に彼女の魂の声を聞き届けているのか。あるいは、王子がそう信じているのか。いずれにせよ、その優しさは、彼女の疲弊した心を揺さぶりました。
「君が了承するようなら、ゼフィーリアが必ず連れて行ってくれると思うんだ」
ソフィアは、喉の奥から絞り出すように言いました。「私が風使いの村へ行ったら、皆さんに迷惑が掛かるのではありませんか」
王子は、迷いなく答えました。その眼差しは、王族としての毅然としたものではなく、友を案じる真摯なものでした。
「ソフィア、今は、自分の事を一番に考えて欲しいんだ」
その一言が、ソフィアの心に張り詰めていた最後の糸を断ち切りました。
「それなら、私は風使いの村へ行きたいです」
そう言い終えたとたん、ソフィアの体はふわりと宙に浮き上がりました。まるで、目に見えぬ巨大な手が、そっと抱え上げたかのように。応接間の壁紙の模様が、シャンデリアのきらめきが、急速に遠ざかっていきます。体は、窓ガラスを通り抜け、外へと放たれました。彼女を包んだのは、風。温かく、優しく、しかし確固たる力を持った風のうねり。それは、ソフィアの肉体と、そして魂の疲れを拭い去るかのように、彼女を遥かなる風使いの村へと連れ去っていきました。
応接間に残されたチャールズ王子は、静かに一つ息を吐いた。
「さあ、ソフィア不在の言い訳と後始末をしなければ」王子は独りごちると、控えの間の執事に静かに声を掛けました。
「伯爵を呼んでもらえるかな」風が去った後の応接間には、わずかに、遠い異界の土の香りが残っていました。
窓外の風の匂いが、今も応接間に残っているように感じられました。チャールズ王子は、その匂いを静かに吸い込みながら、伯爵――フレイザー伯爵の入室を待っていました。
伯爵は、年若い娘の身を案じる父親として、疲労の色を隠せない様子で応接室に入ってきました。その顔は、ソフィアがこの家を去る際のただならぬ気配を、すでに察していたのでしょう。
「伯爵。座ってくれ」
王子は、穏やかな声で促した。そして、躊躇うことなく本題に入りました。「ソフィアは今、風使いの村へと旅立った。静養のためだ」
伯爵は、息を飲みました。王子の手から、王からの華美な封筒を受け取りながら、その言葉の意味を咀嚼しようとします。「風使いの村……あの、伝承の中の?」
「そうだ。今回の『地脈の怨』との戦いで、ソフィアは肉体よりも、心を大きく傷つけた。それが癒えるまでには、相当の時間を要するだろう」
王子は、自らの言葉に力を込めました。「彼女を守護する風の精霊から、そう告げられたのだ。王子の私に、直接」
伯爵は、深く項垂れた。彼の肩が、かすかに震えています。「風の精霊様は……父親である私には、教えてくれないのでしょうか」
その問いかけに、王子は苦笑にも似た表情を浮かべました。「風は気まぐれだからね。選ぶ相手も、伝える時期も、風次第というわけだ」
その軽やかな口調は、伯爵の嘆きを和らげる薬のようでもありました。王子は立ち上がり、伯爵の肩にそっと手を置きました。
「さて、伯爵。これから二人で、王に謝罪に行かねばなるまい」「そうでしょうね。大変だ」
伯爵は、深くため息をつきながらも、すぐに王宮へ向かうための外出の支度を始めました。王族の理不尽と、目に見えぬ精霊の理を同時に受け入れる、それが彼らの生きる世界なのです。
王の御前で、二人は揃って深く首を垂れました。「ソフィアは急遽、静養の旅に出ました。先の戦いで深く心を病んでおり、王の主催される盛大な宴への出席は、いささか心身に過度な負担となります。何卒、ご容赦いただきたく…」
王は、二人の謝罪を怒りではなく、深い不満の眼差しで受け止めました。「何故だ。王自らが恩人のために開く宴だぞ。静養であれば、私が自ら風使いの村まで迎えに行こう」
「それは叶いません」王子は、冷静に答えた。「風使いの村の正確な場所は、風に選ばれた者以外、誰も知らないのです」
その言葉に、王は唇を噛み、長い沈黙の後、ようやく諦めの色を滲ませました。
「……そうか。ならば仕方あるまい」
王は、その大きな身体を深く椅子に沈めた。そして、絞り出すように本音を漏らしました。「私は、大災厄を防いだ恩人に対し、王家が何もしない恩知らずだと思われたくないのだ」
ソフィアへの心からの感謝よりも、王家の外聞。それが、この華やかなパーティーの真の目的であったことが、二人の前で、くっきりと露わになりました。王国の威信と、個人の魂の安寧。いつの世も、目に見える理は、目に見えぬ理に、これほどまでに鈍感なものなのかと、王子と伯爵は、静かに顔を見合わせるのでした。




