戦いを終えて
幸いなことに、対峙していた『地脈の怨』は、嵐の後の静寂のように、完全にその重く淀んだ気配を消してしまいました。ソフィアが全身全霊を傾けて清めたその場所には、澄んだ、懐かしい土の匂いが立ち込めているだけでした。
「やれやれ、これで一息つけそうだ」
モラッティ氏は、なぜか旅の荷から取り出した小さな行軍用の小鍋に、手のひらに載るほどの水瓶から水を移し、静かに火を起こしました。やがて湯が沸き、彼は丁寧に茶葉を漉し、ソフィアに差し出しました。
「先生は、遠征の度に、こんな立派なお茶の道具一式を持ち歩いているのですか?」
ソフィアが尋ねると、モラッティ氏はひげを撫でながら優しく笑いました。
「もちろんだとも。外で飲むお茶は格別だからね。特に、魂を削るような仕事の後には、この一杯がなければやっていられない」
二人は静かに笑い合いました。その茶の香りは、穢れの澱が消えた後の、清らかな山の風のようでした。
モラッティ氏は茶を一口含むと、厳かな面持ちで言葉を続けました。
「君が浄めている間、私も『神聖視』を用いて、あの穢れの正体を見極めようとしていたのだ。あれは、遠い昔、愚かな王が己の保身のために虐殺した、無辜の人々の怨念が、悠久の時をかけて地脈に凝り固まったものだったようだ」
彼の声は、失われた歴史の重みを宿していました。
「あの塊の中に、王家の魂が混じっていなくて良かったよ」
モラッティ氏は、ふと、独りごちるように呟きました。
「それはどういう意味ですか?」
ソフィアが聞き返すと、彼はカップを置き、声を潜めました。
「僕も文献でしか知らないんだが、王家の血筋の魂が魔に転じた場合は魔王になる。そしてその体内には『魔核』というものが生じて、同じ王家の血で贖わなければ滅することができないらしいんだ」
モラッティ氏は、ソフィアに教えるように、しかし祈るように続けた。
「王家の血が魔に転じるなんてことは、そうそう起こることではないと信じたいけどね」
一瞬の沈黙の後、彼は務めて明るく話題を戻しました。
「そうした穢れの塊が、この一つだけなのか、それとも他にも深く根付いているのかは定かではない。しかし、少なくともこの地に有った『怨み』の塊は、ソフィア、君がその清らかな魂で祓ってくれた。もう、ここには無いよ」
疲弊しきったソフィアの心に、その言葉は温かな湯のように染み渡った。体力が戻り次第、二人は王都へと帰ることにしました。
王都へ戻ると、水源地の穢れが完全に祓われたという知らせは、人々の間に一足先に届いていました。凱旋を果たした二人を、街の人々は歓呼の声と、まるで太陽の光のような笑顔で出迎えました。それはまるで、長い冬が終わり、春の訪れを祝う祭りのようでした。
しかし、ソフィアの身体は、祝福の歓声に応えるだけの力を残してはいませんでした。彼女は、王都の英雄という重すぎる外套を脱ぎ捨てたい一心で、フレイザー伯爵家のタウンハウスへ逃れるようにたどり着きました。
屋敷のメイドたちが、その疲労を知っているかのように静かに彼女を迎えてくれました。手早く煤けた遠征服を着替えさせ、温かい布で丁寧に体を拭きあげてくれます。ソフィアは、柔らかなベッドにもぐり込むと同時、深い眠りの底へと引き込まれていきました。
専属メイドのアリスは、静かにベッドサイドの椅子に座り、まるで幼い妹を見つめるかのように、慈しむ眼差しでソフィアの寝顔を見つめていました。
「ソフィア様は救国の英雄になんかならなくていいのですよ。王都の守り神でもありません」
アリスは、ただ心の奥底でそう呟きました。
「ソフィア様は、ソフィア様のままでいてくださいませ」
彼女の静かな願いは、深く眠るソフィアの魂に、そっと触れているようでした。
窓外に広がるタウンハウスの庭の木々が、微かに、しかし確かに、風の匂いを運んでいました。ソフィアは、その風にさえ、自分の今の姿を見透かされるような心地がしていました。静養中の身であり、髪は適当に結い上げ、衣服も簡素なもの。この疲れ切った魂のあり様を、誰にも見せたくはありませんでした。特に、この家の戸口に立った、王族の威厳と、しかしどこか飄々とした気配を纏う人物には。




