表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/57

戦いを終えて

 幸いなことに、対峙していた『地脈の怨』は、嵐の後の静寂のように、完全にその重く淀んだ気配を消してしまいました。ソフィアが全身全霊を傾けて清めたその場所には、澄んだ、懐かしい土の匂いが立ち込めているだけでした。


「やれやれ、これで一息つけそうだ」


 モラッティ氏は、なぜか旅の荷から取り出した小さな行軍用の小鍋に、手のひらに載るほどの水瓶から水を移し、静かに火を起こしました。やがて湯が沸き、彼は丁寧に茶葉を漉し、ソフィアに差し出しました。


「先生は、遠征の度に、こんな立派なお茶の道具一式を持ち歩いているのですか?」


 ソフィアが尋ねると、モラッティ氏はひげを撫でながら優しく笑いました。


「もちろんだとも。外で飲むお茶は格別だからね。特に、魂を削るような仕事の後には、この一杯がなければやっていられない」


 二人は静かに笑い合いました。その茶の香りは、穢れの澱が消えた後の、清らかな山の風のようでした。


 モラッティ氏は茶を一口含むと、厳かな面持ちで言葉を続けました。


「君が浄めている間、私も『神聖視』を用いて、あの穢れの正体を見極めようとしていたのだ。あれは、遠い昔、愚かな王が己の保身のために虐殺した、無辜の人々の怨念が、悠久の時をかけて地脈に凝り固まったものだったようだ」


 彼の声は、失われた歴史の重みを宿していました。


「あの塊の中に、王家の魂が混じっていなくて良かったよ」


 モラッティ氏は、ふと、独りごちるように呟きました。


「それはどういう意味ですか?」


 ソフィアが聞き返すと、彼はカップを置き、声を潜めました。


「僕も文献でしか知らないんだが、王家の血筋の魂が魔に転じた場合は魔王になる。そしてその体内には『魔核』というものが生じて、同じ王家の血で贖わなければ滅することができないらしいんだ」


 モラッティ氏は、ソフィアに教えるように、しかし祈るように続けた。


「王家の血が魔に転じるなんてことは、そうそう起こることではないと信じたいけどね」


 一瞬の沈黙の後、彼は務めて明るく話題を戻しました。


「そうした穢れの塊が、この一つだけなのか、それとも他にも深く根付いているのかは定かではない。しかし、少なくともこの地に有った『怨み』の塊は、ソフィア、君がその清らかな魂で祓ってくれた。もう、ここには無いよ」


 疲弊しきったソフィアの心に、その言葉は温かな湯のように染み渡った。体力が戻り次第、二人は王都へと帰ることにしました。


 王都へ戻ると、水源地の穢れが完全に祓われたという知らせは、人々の間に一足先に届いていました。凱旋を果たした二人を、街の人々は歓呼の声と、まるで太陽の光のような笑顔で出迎えました。それはまるで、長い冬が終わり、春の訪れを祝う祭りのようでした。


 しかし、ソフィアの身体は、祝福の歓声に応えるだけの力を残してはいませんでした。彼女は、王都の英雄という重すぎる外套を脱ぎ捨てたい一心で、フレイザー伯爵家のタウンハウスへ逃れるようにたどり着きました。


 屋敷のメイドたちが、その疲労を知っているかのように静かに彼女を迎えてくれました。手早く煤けた遠征服を着替えさせ、温かい布で丁寧に体を拭きあげてくれます。ソフィアは、柔らかなベッドにもぐり込むと同時、深い眠りの底へと引き込まれていきました。


 専属メイドのアリスは、静かにベッドサイドの椅子に座り、まるで幼い妹を見つめるかのように、慈しむ眼差しでソフィアの寝顔を見つめていました。


「ソフィア様は救国の英雄になんかならなくていいのですよ。王都の守り神でもありません」


 アリスは、ただ心の奥底でそう呟きました。


「ソフィア様は、ソフィア様のままでいてくださいませ」


 彼女の静かな願いは、深く眠るソフィアの魂に、そっと触れているようでした。


 窓外に広がるタウンハウスの庭の木々が、微かに、しかし確かに、風の匂いを運んでいました。ソフィアは、その風にさえ、自分の今の姿を見透かされるような心地がしていました。静養中の身であり、髪は適当に結い上げ、衣服も簡素なもの。この疲れ切った魂のあり様を、誰にも見せたくはありませんでした。特に、この家の戸口に立った、王族の威厳と、しかしどこか飄々とした気配を纏う人物には。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ