異変
王都の水源地で異変が起こったという報せが、王宮を駆け巡りました。
それは、もはや獣の狂暴化といった間接的な予兆ではありませんでした。王都に住まう者、すべての一人ひとりの生命を、根源から脅かす危機でした。
報告は、水源の泉を管理する役人の、震える声と共にもたらされました。清らかな水を湛え、王都の暮らしを何百年も支えてきたはずの泉は、今や「瘴気の沼」と化しているのです。
国王の命を受け、聖堂へと使者が飛んだ。事態は緊急を要し、王家は、聖魔法の力を頼るしかありませんでした。
モラッティ氏が、神妙な面持ちでソフィアを伴い、水源地へと急ぎます。辺りにはすでに、禍々しい空気が満ち始めていました。
「見なさい、ソフィア」
モラッティ氏が示した泉の水面は、清らかとはかけ離れた底の見えない、紫色の毒々しい水が、重く淀んでいます。水面からは、鼻を突くような悪臭というより、それはもはや腐食性の毒気でした。吸い込むだけで肺が灼け、曝された皮膚からボロボロと崩れ落ちていくような悪臭が立ち上り、ソフィアたちを乗せてきた風の精霊たちも、その場を避けるように、遠ざかっていました。
「このような水を口にすれば、肉体が病むのはもちろん、魂までが、穢れに侵されてしまうだろう」
モラッティ氏の声は、厳しく、重い。彼は、ソフィアを前に押し出しました。
「お前に課された使命は、ここにある。この水の穢れを、祓い清めてみせよ。聖魔法の根源である『清浄化』の力をもって」
ソフィアは、その禍々しさに息を呑みながらも、教えられた通りに聖魔法を収束させました。
瞳の奥に、モラッティ氏の教えが蘇る。聖なる光は、穢れを嫌う。光は闇を駆逐する。
「清めよ(プーリフィカーティオー)!」
ソフィアは、自身の全魔力を、泉の水へと解き放った。彼女の全身を巡っていた魔力の流れが、一瞬にしてすべて吸い出されるような感覚に襲われます。
その直後、驚くべき現象が起こった。紫色の水が、まるで魔法をかけられたように、一瞬にして透き通り、本来の清冽な輝きを取り戻したのだ。水底の小石や、藻が透けて見え、安堵の息が漏れました。
だが、それも束の間。
水は、透明な状態を、たった一呼吸しか保てませんでした。
透明になったばかりの水底から、ゆらりと紫の煙のようなものが湧き上がり、それはたちまち泉全体を覆い尽くしました。水の色は、再び元の毒々しい紫へと戻ってしまったのです。
ソフィアは呆然と立ち尽くした。あれだけの強力な聖魔法を放ち、体中の魔力を使い果たしたにも関わらず、結果はたった一時の現象にすぎなかったのです。
モラッティ氏は、その様子をじっと観察していました。表情は厳しく、しかし微かに頷きました。
「やはり、表層をいくら清浄化しても無駄だ。これは、水そのものが穢れているのではない。この大地を蝕む、穢れの根源が、泉の底から湧き出しているのだ」
彼は目を閉じ、深く聖魔法の力を集中させました。そして、ソフィアに教え込んだ「神聖視」の力を、泉の底へ向けて放ちました。
視界が、人間には見えない真実を捉えます。モラッティ氏の息が、わずかに漏れます。
泉の底、清らかな砂利と泥の下。そこには、ただの邪悪な魔力とは異なる、太古の深い怨念が凝り固まった、巨大な悪意の塊が、脈動していました。それは、この世界に存在する「生」とは対極にある、冷たく、全てを否定するような存在でした。
モラッティ氏は、それがかつて王家の古い文献に記されていた、「大地の病」の本体であることを悟りました。そして、己の力の及ばぬ、あまりにも巨大な敵を前にして、静かに、ソフィアへと視線を向けたのです。
「ソフィア。訓練通りに、この穢れの根源を、断ち切るのだ」
紫色の瘴気が再び泉を覆い、ソフィアは己の力の無力さに全身の血の気が引くのを感じていました。
「たった一呼吸……」
ソフィアがあれだけの魔力を放出し、肉体が燃え尽きるような渇きを覚えたにもかかわらず、邪悪な塊は嘲笑うかのように、再び力を漲らせました。
ソフィアの体内の魔力は、まるで乾いた井戸のように、今は底をついていました。




