山火事と精霊の試練
空中散歩の一件以来、ソフィアとチャールズ王子の間には、以前よりも隔たりの少ない空気が流れるようになっていました。互いの秘密を知り合った、共犯者のような親近感がそこにはありました。
寄宿学校の、まだ人影もまばらな休み時間。ソフィアは、中庭の木陰で、チャールズ王子に声を掛けました。「殿下、一つお願いがございます。聖堂にいらっしゃる、フィリッポ・モラッティという僧侶に会う方法を、お教えいただけないでしょうか」
王子は、ソフィアの意図をすぐに理解しました。 「ああ、ソフィア。聖魔法を教わりに行くのだね」 彼は、中庭に吹く風の声に耳を澄ますように、静かに続けました。 「聖堂にいる法王猊下は、この国の国王と同列の、宗教上の権力者だからね。王宮から聖堂の人間に面会を求めるのも、お願いベースになるんだよ」
ソフィアは、眉を寄せた。「ということは、殿下でも、すぐに会うことはできないのですか?」
「そういうことじゃない」 王子は、やんわりと否定しました。 「手順を踏まなければならない、ということさ。だが、任せてほしい」 王子の口調には、王族としての、確かな手腕と自信が滲んでいました。
「殿下、ありがとうございます」 ソフィアは深く頭を下げました。
そのやりとりがあってから、一月ほどが過ぎた、ある日のこと。 チャールズ王子が、ソフィアの元へ、軽やかな足取りで近づいてきました。 「ソフィア。ようやく聖堂から返事が来たよ。来週の金曜日の礼拝の後、会ってくれるそうだ」
いよいよ金曜日。聖堂にいる聖魔法使い、フィリッポ・モラッティ氏に会える、とソフィアが胸を高鳴らせていた、その日の朝。
王都の北に広がる、広大な森から、黒い煙が立ち上っているのが見えました。すぐに、森に住む獣や鳥たちが、我先にと街の方へ逃げ出してきます。山火事です。火事に気づいたものの、消火の手段がない。街へ火が移るのを防ぐため、兵たちが総出で、火の手の前に立ちはだかる木を切り倒すしかありませんでした。山火事を消せるほどの水魔法使いがいないため、山火事は、まるで生き物のように、どんどんその勢いを増し、広がっていきました。
ソフィアは、このままでは森全体が焼けてしまうと、自分の力で何とかできないかと、必死に考えました。 彼女は、誰もいない場所で、風の精霊に強く願った。 「風よ、我が身を山火事の上に連れて行って」
すると、すぐに風の精霊の声が、彼女の心に届いた。 (危ないよ、ソフィア。火の上は風が乱れている。熱も上がって、あなたの身を焦がすかもしれない)(火から生まれた風は我儘。私たちの言う事を聞かないよ) 精霊の心配が、風の乱れとなってソフィアの周囲に渦巻きます。
「でも、誰かが消さないと、この火は燃え広がる一方よ。人も動物もたくさんの命が失われてしまう」 ソフィアの決意は固かったのです。 「火事の上から、水魔法で火を消すわ」
その強い意志に、風の精霊は折れました。(わかった。だが、決して無理はしないで) 風は、ソフィアの体をそっと持ち上げ、彼女を、燃え盛る森の上空へと運んでいきました。
火事の上は、精霊の言う通り、風が乱れて、炎からの熱気が皮膚を刺すようでした。しかしソフィアは、その乱気流の中で何とか体勢を保ち、次々と水魔法を繰り出して、火を消して回りました。水は、彼女の魔力を燃料にして、激しい雨となって炎に叩きつけられました。
さすがのソフィアも、これほど大規模な魔法を連続して使うことに、魔力切れを起こすかもしれないと不安になってきたころ、ようやく火の勢いが弱まってきました。 ソフィアは、広場の焦げた地面に、疲れ切った体でそっと降り立ちました。
周囲を見れば、燃え尽きた森の残骸と、煤けた空気。 そして、そのとき、ソフィアは気づきました。 フィリッポ・モラッティ氏との、約束の時間は、とうに過ぎていたのです。 ソフィアは、泥と煤に汚れ、約束を破ってしまったことに、疲労とは別の重い溜め息を漏らしました。
王都にいた水魔法の使い手たちは、この大規模な山火事に対し、総動員されていたといいます。しかし、彼らの力は及ばず、数時間のうちに全員が魔力切れを起こし、戦線から離脱していました。最初から最後まで、文字通り火の海の上で消火作業にあたっていたのは、ソフィアただ一人だったのでした。
聖堂へは、チャールズ王子が素早く連絡を入れてくれていました。今日の面会はキャンセルであることと、そして、ソフィアが王都を救うべく消火活動に参加していることを。聖堂からは、「気にするな」という、寛大な返事と、「次の週の金曜礼拝の後、改めて会いましょう」という連絡が届いたということでした。
ボロボロになったソフィアは、寄宿舎ではなく、伯爵邸のタウンハウスへと帰宅しました。 玄関に現れたソフィアの姿を見て、両親は驚愕に息を呑みました。顔は煤にまみれ、服は火の粉でいくつも穴が開き、泥と煙の臭いが全身から立ち上っています。しかし、ソフィアを送り届けてくれたのが、チャールズ王子の侍従だったため、両親は驚きを押し殺し、かしこまって帰宅した娘を迎えたのです。
侍従は、頭を下げ、王家からの書状をもたらしました。 「今回のソフィア嬢の活躍に対し、陛下より勲章の授与がございます」 それは、単なる魔法使いとしてではなく、国に貢献した英雄として認められた証でした。
両親は、勲章の知らせよりも、娘の無事を喜び、すぐにソフィアに風呂を勧めました。「さあ、ソフィア。すぐに体の汚れを落として、ゆっくりくつろぎなさい」 メイドが何人もつけられ、もちろん、ソフィア専属のアリスもそこにいました。
アリスは、慣れた手つきでソフィアの煤を拭いながら、囁くように言いました。 「ソフィア様、ずいぶん無茶をされたようですね」 そして、外のざわめきを伝えるように、続けました。 「街では今、『救世主が山火事の上を飛んで、水で火を消して回っていた』と、すごい噂ですよ。まるで伝説の英雄みたいです」
ソフィアの周囲に、いつも微かに吹いている風たち――あの、何でも知っているはずの風の精霊たちは、この噂については、なぜか口を固く閉ざしていました。それは、精霊なりの、ソフィアへの深い労いと、これ以上の騒ぎ立てを避けるための、沈黙なのかもしれませんでした。 ソフィアは、勲章の知らせよりも、人々の噂話よりも、その沈黙の方に、より重い意味を感じていました。彼女の身に宿る力は、確実に、この国の大きな物語の一部となり始めているようでした。




