風使いの村への旅立ち
東屋から少し離れた木立の影――王宮の「影」と呼ばれる、密やかな務めを負った者たちは、ゼフィーリアとソフィアの一挙手一投足を、神経を尖らせて追っていました。その視線は、風の精霊の話題に熱心に耳を傾けるソフィアと、静かに話すゼフィーリアの二人から、一瞬たりとも逸らされてはいませんでした。
そして、それは一瞬の出来事でした。 まるで、春の靄が立ち消えるように、あるいは、水面に描かれた絵が掻き消されるように、二人の姿が「ふっ」と、その場から消え失せてしまったのです。
「影」の一人――周囲の気配を読み取ることに長けた男が、ごく短い、しかし明確な驚愕の息を漏らしました。 「……風使いめ、ソフィア嬢を連れて行ってしまったな」
彼らは、ただ事ではないと瞬時に悟りました。王子の命により、ソフィアを監視下に置くことは許されても、彼女を拘束することは許されていない。ましてや、彼女が自ら望んだとはいえ、王宮の敷地内から、これほど鮮やかに姿を消されては、彼らの職務は果たされません。
影たちは、無言のまま、しかし素早く動き出しました。リーダー格の男が、微かな声で命じました。 「殿下に報告を。おそらく、風使いの村へ、風魔法によって連れ去られた、と」
知らせは、風のようにチャールズ王子の元へ届きました。 王子は、その報告を聞いても、眉一つ動かしませんでした。まるで、全てが彼の計算の内にあるかのように。彼は、手に持っていたティーカップを静かにソーサーに戻しました。
「分かった」 王子は、落ち着いた声で、影の一人に命じました。 「フレイザー伯爵家へも、ソフィアの帰還には時間がかかるだろうと伝えてきてくれ」 そして、一呼吸置いて、彼の言葉は続きました。 「おそらく、風の精霊との面会のために、風使いの村へ、風魔法で向かった、とな」
その言葉には、一切の焦りがありませんでした。 まるで、ソフィアの「連れ去り」ではなく、定められた旅立ちを見送るかのような、静かな確信が滲んでいたのです。王子は、ソフィアが、精霊の導きによって、彼女の持つ力の根源へと向かったことを、既に知っていたかのように振る舞いました。 王子の冷静さは、彼がこの出来事を、ソフィアの未来にとって必要な「通過儀礼」と捉えていることを示していました。そして、ソフィアを連れ去った風使いの村とは、王家の手の届かない、精霊の理が支配する場所なのでしょう。
ソフィアが次に意識を取り戻したとき、その身は宙にありました。 強い、けれど優しい風の渦に抱かれて、地上から遥かに高い空を、信じられない速さで滑空していたのです。肌に当たる風は冷たく、頬を打ちますが、その風自体が自分を支えているのだと理解した途端、ソフィアは全身の感覚が麻痺しそうになるほどの驚愕に襲われました。
隣には、涼しげな顔をしたゼフィーリアがいます。 ソフィアは、驚きのあまり口をパクパクと開閉させるだけで、声にならない悲鳴を上げています。風に逆らって縋り付こうと腕を伸ばしたが、ゼフィーリアはそれを軽く振り払いました。 「ちょっとの辛抱よ。すぐに村に着くから」 ゼフィーリアの声は、風に乗って、驚くほど近くに、はっきりと聞こえました。
そして、その「すぐに」は、本当にすぐでした。 体は唐突に勢いを失い、地面へと導かれます。ソフィアは、地面に足を着いた衝撃で、思わずよろめきました。ゼフィーリアの外套をしっかりと掴んでいなければ、風に吹き飛ばされそうでした。 見慣れない山間の土地。古い木造りの家々が、風の通り道に合わせて寄り添うように建ち並んでいます。
「着いたわ。ここが、風使いの村」 ゼフィーリアは、何事もなかったかのように、周囲を見渡しました。
ソフィアは、胸の鼓動をどうにか落ち着かせ、抗議の声を上げました。 「いきなり、こんな……こんな乱暴なやり方で連れてくるなんて、ひどいです!」
ゼフィーリアは、ソフィアの抗議を意にも介しません。 「ソフィア嬢は、風魔法を身につけたいのではなかったかしら。そのためには、風の精霊に、その魂を認められなければならないの。いつかは、この村に来なければいけない、その時が『今』になっただけのことよ」 まるで、熟した果実が落ちるのを手伝ったかのような、当然の理を述べる調子でした。
ソフィアは、まだ残る浮遊感に耐えながら、最も気になる点を口にしました。 「それにしても、殿下にも、父や母にも、何の話もしていないのではありませんか。王宮では、今頃、大騒ぎになっているのではありませんか」
ゼフィーリアは、振り返りもせずに答えます。「チャールズ殿下には話してあるわよ。伯爵様には、殿下から話が行くでしょう。王族の言葉は、伯爵家にとっては王命と同じだもの」
取り付く島もない、とはこのことでしょう。ソフィアは、思わず天を仰ぎました。王子がゼフィーリアのことを「気難しい魔女」と評したのは、おそらく、この、人の世のしがらみを微塵も気にかけない、精霊のようなふるまいに対してなのだろうと、ソフィアは今、腑に落ちました。
ゼフィーリアは、さっさと歩き出しました。「さあ、立ち止まっている暇はないわ。風の精霊に、挨拶をするわよ」
その言葉には、有無を言わせぬ強い意志が宿っていました。ソフィアは、足元に吹き抜ける冷たい風を、精霊の歓迎の息吹だと受け止めようと努めながら、ゼフィーリアの後に続いて歩きました。この村から始まる、精霊との対話が、一体何をソフィアにもたらすのか、今はまだ知る由もありませんでした。




