4
「……はぁ」
ブラッドは再び自分の家にたどり着く。しかしどうも入る気になれない。自分の家でありながら知らない人の家をたずねるような、心の底がゾワゾワする不快さを感じていた。
しかしいつまでも立ち尽くすわけにもいかないので、ブラッドは音が鳴らないようにハシゴを上り、静かにドアを開ける。
「!」
すると白い塊が跳ね起きるようにブラッドに飛びついた。反射的に殴りかけた拳を止め、ブラッドは抱きつくそれを見下ろす。
「おかえり!」
乖が満面の笑みでブラッドを出迎える。もしあのまま拳を振り抜いていれば、乖の細い骨は一発で折れただろう。普段から誰に襲われるかわからない環境では、殺意を帯びて迫ってくる男や刃物をこちらに向けて一直線に突進してくる女など、咄嗟に対応しなければならない危険が多い。
殺気ならドア越しでもわかるが、今のように悪意のない接近は察知が遅れる。すぐに乖だと気づいて止めることができて良かったと、ブラッドは表情に出ないように安堵した。
「離れろ」
「やだ」
「離れろ」
乖の頭を押して無理やり引き剥がすと、ブラッドはちらりと部屋の奥を見る。特に物は動かされていないようだ。スツールの上にはブランケットが乗ったままで、様子を見るに乖は玄関でずっと座っていたのだろう。雪がいつ降ってもおかしくない時期は空気が冷たく、電気ストーブを動かしているとはいえまだ肌寒い。
乖の素足は赤いのに、やはり気にしていないらしい。痛覚が鈍いのか無いのか。どちらにせよ一人では生きられないだろう。
気持ち悪い。
生物の本能的な部分を根本から引き抜かれたようだ。
突然告白してきた時は確かにその目には強い欲求があった。ならこの子どもを人間に戻すか人形のままにするのか、それはブラッドに委ねられているのかもしれない。
ふざけんな、たまったもんじゃない。
「にゃーあ!」
乖の足をすり抜けて黒猫が現れ、ブラッドに訴える細い声をあげる。その声でブラッドの鬱々とした思考が止まり現実に引き戻された。
そういえば今日はまだご飯をあげていなかった。何度目かわからないため息をつくと、扉を閉め鍵をかけた。
上着をベッドの上に放ったブラッドは、部屋の脇にある小さなタンスから適当に靴下を取り出す。そして玄関で立ち尽くす乖に突き出すも相手は「?」を浮かべたままだった。
まさか靴下を知らないってことは無いよな。ブラッドは悪態をつきながらスツールに座らせ、雑な手つきで小さな足に履かせた。
少々ぶかぶかだったが考えるのが億劫だ。ついでのようにもう一度ブランケットを乖の頭の上から被せておいた。元より自分は人の面倒を見るのが好きじゃない。こうやって世話をしている自分を客観的に見ると滑稽で仕方がなかった。
ブラッドが立ち上がったところで、黒猫が自分の番だと言わんばかりに主張してきた。
「んなーお!」
「わかってるよ」
キッチンの戸棚から猫餌が入った袋を取り出し猫用の皿に適当に盛った。袋に『キャットフード』と書かれたこの猫餌は、国外から裏ルートで仕入れた物だ。
壁の下に穴を掘って人1人が通れそうな通路を作り、外の人間にコソコソと物資を運んでもらう。お陰でブラッドが住む町はギリギリ生活を送れている。
しかし国外には国外の事情があるらしく、この国の人間を外に出すわけには行かないらしい。安易に情報を流す訳にもいかず、結局物資を送るので精一杯だそうだ。レジスタンスはそんな違法者の支援のおかげでどうにか活動できている。
そして何の気まぐれか食料に混ざって届けられた猫餌をアランが勝手に持ってくる。いつもは残飯をあげているが、たまにこうして乾いた硬いスナックのような餌を与えているのだ。
袋の裏にある文字に視線を走らせる。材料、製造日、消費期限、産地。それ以外の情報は特にない。
「んなぁ」
「もう少し待てって」
ブラッドは電気ストーブの上に貯水槽の水を入れた小鍋を乗せた。キッチンにある電気コンロは夏にしか使わない。最近壊れかけてきて使えるかも怪しくなってきた。
猫は年々噛む力が弱くなっているので、餌は湯でふやかしてから食べさせている。歳のせいか体は衰え食べる量は減り、正直この冬を越せるのかわからない。それも自然の摂理だと思っている。
「それ、ブラッドの朝ごはん?」
スツールから立ち上がった乖が、肩までずり落ちたブランケットを握りブラッドの手元を覗き込む。
「人間が食えるもんじゃない。そこの猫の」
「そうなの? 人間が食べれないのに猫が食べれるの?」
面倒くさくなったブラッドはキャットフードを一粒だけ指で摘み、乖の口に放り込む。乖はそのまま咀嚼するとごくりと飲み込んだ。
「美味しいよ?」
「……」
乖の食料も猫の餌と同じで良いかもしれない。ブラッドも興味本位でキャットフードを口にしたことがあるが、美味しいとはとても思えなかった。今まで乖がどんな食事をしてきたのかあまり考えたくない。どうせロクでもないのだろう。
湯が冷めて餌がふやけたのを確認してから、ブラッドは猫の前に餌皿を置く。猫は皿に顔を突っ込み、ちゃむちゃむと控えめな音を響かせた。
乖は猫の前でしゃがむと興味深そうに眺めている。
それを横目で見ながらブラッドは冷蔵庫を開けた。といっても電源をつけていないので、中は常温と変わりない。電気を極力使いたくないのと、単に冷やさないといけないものが無いため戸棚と同じような使い方をしている。
さらにその冷蔵庫の中には硬いパンがひとかけら転がっているだけ。1人の時なら塩を入れた湯でふやかして食べるが、とても2人で分けて食べることはできない。
(やっぱりアイツは猫の餌でも良いんじゃないか)
ブラッドはその場でうずくまるように屈み、おもむろに目を閉じた。
疲れた。とにかく今日は疲れてる。
ただでさえ夜通し工場の破壊のため監視網や死線をくぐり抜けてきたのだ。そのうえ訳の分からない子どもを拾い、さらにその子どもに好意を抱かれ、面倒なのにも関わらず家に連れて来てしまった。らしく無いことばかり行い、より心労が溜まっている気がする。
瞼の裏で視線を感じ再びブラッドが目を開くと、乖の興味津々な顔が目前に映る。
「何」
「ブラッドってまつ毛が長いんだなぁって。綺麗だね」
さらっと出た女を口説くような言葉にブラッドはギョッとする。
「マジでやめて欲しい。本当に何」
「思ったことを言っただけだよ?」
「そもそもお前、他の人間を何人も見たことあるのか。見比べて言ってんのか」
投げやりな質問に乖は悩むように口を閉じる。
「んー? んー……」
「じゃ、いい。興味ないから」
自分の額に手の甲を当てガックリとうなだれる。乖はまたじっとこちらの顔を見つめていて、自分の顔に穴が空きそうだとブラッドは言葉に出さずに毒づいた。
ブラッドが何か言い出すまでこの状態が続くのだろう。猫はのん気に餌を食べ終え満足そうに白い毛混じりの体を舐めている。
どうにかしてくれ、とブラッドが心の中でぼやくと同時に、ドアを叩く音が部屋に反響した。




