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さて……どうしたものか。
電動バイクを走らせて数時間。敵対する者や物取りに遭遇することもなくブラッドは自分が住む地区へたどり着いた。停めたバイクから一旦降りて付属モニターを確認すると、ずっと走らせていたのにも関わらずエネルギーの残量を示すメーターは満杯を示していた。
ブラッドはプラグを引き抜くと、その先端を白いのに押しつける。
「ん」
「……?」
白いのは首を傾げるとすぐに口に笑みを作り、コクコクうなずいた。別に礼を言ったわけでもないのに何故笑うのか理解できず、ブラッドは少し眉間にシワを寄せる。
「お前、本当に何?」
「僕……。僕は乖。多分13歳」
「カイ?」
「うん、僕の名前。あなたの名前、知りたい」
乖は目を輝かせながら真っ直ぐこちらを見ている。それがブラッドにとっては居心地悪くモヤモヤとさせた。
「俺はブラッド。俺が言ってるのは、お前は何者だってことだ」
問いに乖はまた首を傾げる。自分でもよくわかっていないのだろう。ブラッドは改めて相手の姿を眺めた。
ブラッドの肩ほどの身長しかない乖は不健康に見えるほど細く、前髪は眉下で一直線に切り揃えられている。後ろ髪は短く、一見性別がどちらかわからない。骨格からかろうじて男だろうと推測できるくらいだ。
そして改めて自分が同性である男に告白されたのだという事実を実感し、ブラッドは苦虫を噛み潰したように表情を曇らせた。
女なら一夜限りで体を重ねたことが何度かあるが、同性に対して当然そんな気は起きない。さらに相手はまだ体の小さい子どもだ。
ブラッドにとって乖は何もかも恋愛対象外である。
「ブラッド……」
一方の乖は先ほどからブラッドの名を何度も口にしてウットリとする。寒気を感じたが、真冬のせいだろうと思い込んだ。
よくよく見れば乖も寒さで小刻みに体を震わせている。検診着は布が薄く防寒機能は無いに等しい。しかし本人はちっとも気にしていないのか恍惚の表情を崩す様子がない。
不気味な奴。
見ていられずブラッドは着ていた上着を脱いで乖に着せる。ブカブカだが無いよりはマシだろう。
「これ」
乖は不思議そうに目を瞬かせると、通した袖をすんすんと嗅いだ。その動きは猫を彷彿させる。
「で、さっきの質問に答えてくれる」
「え? うん……。僕は……あの工場で電気を供給するのがお仕事だって言われた。その前は……白い部屋で過ごしてたよ。勉強をしたり、いっぱい検査したり」
その口ぶりから、この乖とやらは道具として育てられた実験体なのだとブラッドは確信する。意思表示が少なく、ほとんど筋肉が無い。
あとは先ほどまで見せていた虚ろな目。施設で飼いならされた動物と同じだ。
そんな環境で育った人間が急に自由だと言われ、しかも外に連れ出してもらえたらどう思うか。当然その相手に依存しようと考えつくのは容易い。
現に乖は、出会ったばかりにも関わらずブラッドを信頼しきって口元を緩めている。
「僕、ブラッドと一緒にいたい。連れてって」
「断る」
「やだ」
やだとは何だ、と思わず声を荒らげそうになるが辛うじてこらえる。ささいなことで怒鳴ったり動揺したりするのはブラッドのプライドが許せなかった。
人に弱みを見せるのは嫌いだ。感情を揺らすところを晒すくらいなら相手を蹴飛ばして黙らせるが、自分より小さく弱々しい乖にそんな真似はできない。
(元はと言えば俺がアイツを連れてきたんだし、保護したようなものだしな)
さらにタダで電気が手に入るのだから側に置けば何かと重宝するだろう。深く考えるのをやめたブラッドは、そうやって自分を納得させる。その間も乖はニコニコしながら相手の顔色がわずかに変化していく様を眺めていた。
再びバイクに乗って走らせ町の中に入る。町といっても整備されておらず、壊れたビルが並ぶ寂れた地域に人々が集まって折り重なるように住処を作っただけの空間だ。いわゆるスラム街のようなもので、無法地帯かつ治安は良いとは言えない。
裏道に入ればアルコール臭い男が道端で転がっていたり、どこから仕入れたのかわからないドラッグをキメた女が同じくラリった男と情事に及んでいたりするのが視界に入る。
灰色の砂埃と澱んだ空気、濁った目をする人々。どれもこの町を象徴している。
「……」
「あんまじろじろ見るなよ。ああいう奴らほど因縁づけて絡んでくる」
男女が唇を合わせているところを乖が見つめていると、ブラッドはすかさずたしなめる。
乖はこういった世界とは無縁だったのだ。余計なトラブルを起こしかねないし、そうなれば巻き込まれるのはブラッド自身だ。
乖は特に気にせず、ブラッドの背中の温もりを求めて自分の腕にギュッと力を入れた。そのまま肩のあたりにそっと頬をくっつけてきたが、面倒で特に指摘しなかった。切なげなため息も聞こえたが無視した。
「……好きだな」
そんな乖の言葉が聞こえた気がしたが、バイクのエンジン音でかき消された。
日の出の時刻からだいぶ経ち、人々が活動し始める頃にブラッドは自身の住居にたどり着く。
周囲は閑静としていて相変わらず人気がない。古いビルの間に二階建ての建物がひっそりとあり、そこは人の手が加えられているため他と比べてまだ人が暮らせそうな雰囲気が漂っている。
「降りろ」
ブラッドの端的な指示を聞いて乖は名残惜しそうに彼の腰から手を放す。数時間ぶりの地面を踏みしめ、乖はよろよろとバイクから降りて立ち上がった。
その間にブラッドはバイクを一階のガレージにバイクをしまい鍵をかける。
「表のドアはフェイクだから……こっち」
ブラッドに顎で方向を示され、乖はガレージ横にある小さな通路を見る。人一人がやっと通れそうなくらいの幅で、奥にははしごがある。そこを上っていくと小さなドアがあり中へと続いていた。
「わあ」
家の中に一歩足を踏み入れると手前に小さなキッチンがあり、奥にはブラッドの私室が見える。こじんまりとした作りだが、ブラッドの神経質さを表すように至る所が綺麗に整理されていた。
さらに主人の帰宅に気づいたのか、一匹の黒猫が奥の部屋からノロノロとこちらへ歩いてくる。そしてブラッドの顔を見上げニャアと甘え声を出した。
「猫……これが猫ってやつ?」
少しはしゃぐように尋ねる乖にブラッドは小さく鼻を鳴らす。特に返事をすることなくしゃがむと足元にすり寄る黒猫をひと撫でした。
ゴロロ……ゴロロロ……と猫は嬉しそうに喉を鳴らす。乖は初めて猫を見るのか興味津々にその黒い塊の動きを観察した。猫は黒い毛の間にポツポツと白い毛が生えており、貫禄を感じさせる。
何歳かは知らないが、ブラッドが出会った時にはだいぶ歳を重ねていたと記憶している。
ブラッドは玄関わきに置いていたスツールを持ってくると乖を座らせ足を確認した。裸足のままだったため凍傷になる恐れがあるのだが、幸いそのような特徴はない。
上着を脱がせて代わりに猫のために置いていたブランケットを被せ、ついでのように膝に猫を乗せておいた。
ブランケットをかけられるまで大人しかった乖は、猫が膝に乗った途端驚いたように肩を弾ませるが、大人しい獣に安心したのかぎこちない手つきで抱える。猫も特に気にしない様子で丸くなっていた。
さらにブラッドが蓄電池を起動して電気ストーブをつけると、室内にぬるい空気が流れ始める。贅沢なもてなしだが貧弱な体であっという間に死なれるよりはマシだ。
上着を着なおすとわずかに薬品臭さが移っていた。乖の体は工場と同じで無機質な化学製品の臭いで包まれている。ここにいればいずれは消えるだろう。
「お前は今日からここに住めばいい。最低限の物は揃える」
ブラッドの発言があまりに突然だったせいか、乖は一瞬自分に言われていることに気づかなかったらしい。首を小さく横に曲げて言葉の続きを待った。
「ただし、この家から一歩も出るな。お前は人に見つかると面倒くさい」
「え……?」
乖が返事をする間もなくブラッドは立ち上がり、再び出入り口のドアを開ける。
「俺は用事で出かける。寝るなりそこの毛玉と遊ぶなり好きにしろ」
そのまま鈍い音を立ててドアを閉めた。
◇◇◇
梯子を下りる音はすぐ聞こえなくなり、あとは静寂だけが続く。乖が手元を見下ろすと猫が「何だ」と言わんばかりにこちらを見上げていた。膝に柔らかい毛の感触と温度を感じる。
猫を知識では知っていたが、実際に見るのは初めてだ。ぽわぽわの毛に囲まれている小さな生き物はまるで布団の妖精のようだと、乖は頬が緩むのを感じた。
ここから出てはいけない。施設でも、工場でもずっとそのように言われ続けていた。今度はこの小さな部屋から出てはいけない。理由は面倒くさいから。
状況を見るにブラッドはここに住んでいる。そして猫がいるし管で繋がれることもない。
「今度は一人じゃないんだ」
そうか、自分は今幸せな気持ちになっているのだ。誰かがいて、温かくて、痛いことをしない。
あの閉じられた空間から連れ出してくれたブラッドは、乖が夢の中で何度も思い浮かべた救世主そのものだった。鋭い目つきも癖がありうねる髪も、警報ランプの光が色褪せて見えるくらい印象的な赤い瞳も全てが美しい。
「なんて素敵な人なんだろう」
言葉を口にした乖の顔は酷く穏やかで、満ち足りた表情だった。




