美女幽霊をナンパしたい
ああ、クソ。なんだってんだよ。いや待て、もう少し、もう少しでつく。らしい。
それにしても、どうして僕はこの真夜中の山奥を、ボクサーパンツ一枚しか身に着けない友人に付き従って、希望とは真逆となるゴールをわざわざ目指して歩いているのだろうか。
頼みの綱であった彼女からの通話も、突然発生した不自然なノイズに遮られたと同時にスマホ本体も電源から落ちた。それを伝えたや、僕の前を意気揚々と歩く島田は半裸であるというのに、土くれを無茶苦茶に踏み散らして馬鹿みたいに喜んだ。
「近づいてるって証拠だろそれ! やっぱりこっちであってるんだな!」
キャッキャと小躍りで歓喜を示す島田七雄は、鍛え上げた肉体で対象にアピールしたい、という理由でこの秋空に負けず服を脱いでの酔狂な登山に挑んでいる。しかし、僕の目から見て言わせてもらうと、言うほど鍛錬した範疇とはいえない。
「しかし、ウザいやつが余計な口出ししなくなって良かったぜ。おっとそんなに睨むなよ。てかよ、よくあんなのといられるよ、信じらんねえよ、ゆうゆう」
「うるさい。しまちゃんの無茶にこうやって、付き合ってやれてんのも、あの子のおかげなんだからつべこべ言うな」
「つまり?」
「似たりよったりなんだよ」
「あーんなヒステリック女が? そもそもよ、二十歳ごときの分際で、年上に対する言葉遣いがなっちゃいねえ。どこが俺と似てんだか」
「どこがって、お前」
霊視能力から対抗能力から耐久性から、何から何まで──ただし、島田七雄こいつに関してはあまりに無自覚でかつ無謀で奔放が過ぎる。同じ会社に同期入社してからというもの、部署は違えど、共に励まし合って切磋琢磨してきた仲だったが、退屈な日々に辟易としてか、ある日を境に突如としてわけのわからない目標を口走りだした。
「やってやるぜ、今度こそ」
それに巻き込まれてしまったのだ。僕だけが、島田七雄の唯一の理解者だと信じているから所以、島田七雄が生死の境を彷徨った一ヶ月前の交通事故、そして意識が目覚めてからの狂言に付き添ってやりたいと思うまでそう時間はかからなかった。ぬちゃぬちゃ、と長靴で前へ前へと進む足先が異様に冷たくなっていく。肩に乗せた蝙蝠型のボブルヘッドが、歩調とは関係なくカタカタと揺れている。
「そうだ。今度こそ、俺はやってみせるのだ」
島田が突然走り出した。坂道をくだり降りる勢いに任せて、月明かりも乏しい闇へと猪突猛進。泥を撒き散らす。
「待ってくれよ、しまちゃん!」
懐中電灯の光だけが頼りで必死に追いかける僕はというと、二十五の年齢にして情けなくも泣きそうだった。肌を焼くような強風が突然にして吹き荒れ、竹林を一斉に揺るがす。血のにおいにも似た猛威が過ぎ去ったかと思えば、まるで獲物を得たような意思をもって舞い戻ってきた。震えが止まらない。まただ。前回と同じで、島田のあられもない叫喚とは真逆にして、抗うこともできぬ恐怖が僕の腹奥から背筋まで浸透し、全身まで凍りつかせていく。
島田が仁王立ちしている。
「今度こそ、美女幽霊をナンパして連れ帰るのだ! そして、薔薇のような甘い生活をこの退屈な世界に!」
「そもそも薔薇は甘くない」
僕、東條悠也は、本日で三度目となるこの心霊スポットを場にまたもや体験しなくてはならない。血も凍りつく怪現象を。始まった。眼前に広がる見た目ただの地面は腐った笹の葉だらけだが、事前情報では底なしの沼地となっている。四方を囲う竹林の真上は急角度の旧道が山の斜面を這っていて、その崖下の谷底に僕ら二人はようやく遠回りまでしてたどり着いたのだ。気づけば秋虫の声が止んでいる。
ボゴ、と大勢がいっせいに嘔吐するような音が鳴った。前方からだ。沼に飲み込まれて回収されないままとされる真っ赤なスポーツカーのボディが、徐々に浮き上がり、とうとう全貌を披露しようとしていた。
島田の視線が上へとのぼる。つられて見上げる僕の視界には、暗い竹が無数に揺れるだけ。
「ちょっと待ったあ、そこなポルシェにつられてナンパされたあとに、拉致られて、果てに事故死した嫁入り前のお馬鹿なお嬢さん!」
「ちょっと不謹慎発言に迷いがないですよ、島田さん!」
「幸せを目前にして、馬鹿な死に方した馬鹿に馬鹿といって何が悪い! それでだ、待ってもらいたい理由は、今になって尿意が限界に」
と、島田がボクサーパンツに手をかける。
「いやだから、そもそもが、お前のナンパのほうが下手なんだって!」
僕は迷いなく島田にタックル。頭一つ違えば、その宙をつんざいていったレッドのバンパーが僕らの胴を真っ二つにしていただろう。巨大ブーメランと化した高速飛来物が、竹の幹をいくつもなぎ倒しながら再び襲い来るのだった。
間一髪だった。バンパーは近接する土くれを深くえぐって大破した。
時間制限は、三分から最大五分。これ以上は、島田の死を意味する。僕の突進を受けて泥地に倒れ伏せた島田からはすでに力が完全に抜け落ちて意識不明状態、どころか前例と同様にあっさり心肺停止状態に陥っている。この間に、決着をつけねばならないという寸法である、というのにさっきから上空では姿の見えない島田の天井抜けするような明るい声が、うんざりするほどに反響している。
「ちょっとそこの可愛いお嬢さん、待っておくんなまし! 話を聞いてよ! 今から俺の部屋にきて一緒に暮らそう! なんとこの独身でぴちぴち若い男性が、3LDKの余裕ある一戸建て賃貸物件に独りで住んでんだよ。絶対に幸せにしてあげる」
「うっせえ! お前さっきあたしのこと小馬鹿にしてただろ! ざけんなくそがっ」
誘拐被害に遭った末に不幸の死を遂げたらしい『美女』の恨みがましい絶叫までが、竹藪の音に紛れて降り注いでくる。
僕は手荷物から急いでAEDとその他もろもろを取り出して、島田蘇生の準備に移る。一度目の試みのときは、もう少しでこの変人に人口呼吸を施さなければならない危急に陥りかけたが、なんとか通りすがりの老婆が交代してくれて事なきを得た。これについては、ナンパに失敗した心傷もあってか蘇生直後の島田から三日間も口を聞いてもらえないくらい、恨みをもたれていたようだけれど、こちらとしてもトラウマを積み上げるような軽率な行動だけは避けたい。
「さっきのは軽いジョークだってば。ブラッドジョークつーの? いやあ、眼球飛び出して右顔面が血みどろで、チャーミングだよ。身体半分も火傷でケロイド状になってて最高にセクシー!」
姿は視えない彼女が怒鳴る。「お前も同じようになるよ」
「まあ、まちなよ。俺ってば、超尽くす派なんだよ。ご飯とか自己評価だけど、めちゃめちゃ美味いんだって。そうそう、君の腹部みて思い出した。ハンバーグどう! 俺のハンバーグ食ったらもう血の涙ながして喜んじゃうよ、ってかもう流してんだっけかごめーん」
さらに強風が吹き荒れる。頭上の竹林が、島田の声を中心にして渦を描くような形で傾いていく。僕の肩では、蝙蝠のボブルヘッドが嘘のように静まり返っていた。悪い予感だ。ここからが、おそらく本当の脅威が襲い来る。
悪寒がして目を傾ける。事故現場となった傍らの沼から、不自然なあぶくがまたもや発生していた。それが徐々に激しくなって、ついには泥の柱となって、そしてスポーツカーを解体させていく。それが続々と宙に浮き上がって、さきほど襲いかかってきた赤色バンパーと合流しては破片の集合体となって、血でつくられた竜巻のように変化する。島田の肉体を庇って身動きとれない僕へと狙い定め、等間隔にいつまでも飛翔しているようにも思えた。こんな派手な心霊現象があるだろうか、もっとおどろおどろしく、おっかなびっくり的なものでいいはずなのに。
「出た。あれか」
外装が剥がれ落ちたスポーツカーだった物体に残されたるは、運転手席に座する泥だらけの腐乱死体と後部座席で簀巻きにされた遺体だけである。そのうちの運転手席側の腐乱死体が、今にも千切れそうな首を僕に傾けた。
「やばい今度こそやばい」
何がおかしいのか腐乱死体が、げたげたとけたたましく笑い出す。続いて、上空の『美女幽霊』とやらが、この心臓を萎縮させるような悲鳴をつんざかせた。反応したのだ。自分を殺した悪意に怯えて泣いているのだ。自分をここに縛りつける悪霊に、いまだ弄ばれているのだ。
赤色の暴風が、絶叫のもとへと物凄い勢いで舞い上がっていく。まるで、逃さないぞと嘲笑っているかのようにも映った、おぞましい光景だった。
「こっちに逃げろ」と、島田の声が遠くに向かう。「ゆうゆう、あいつはたのんだぞ!」
なんて無責任な。だから、僕の恋人に嫌悪されるんだろう。どうしてこんな重大な役割を任せられなければならないのか、たかだか付き添いの名目で同行していただけに過ぎないのに、いつの間にか、島田はナンパに耽り、僕はその保護と後片付けという負担を押し付けらる羽目になっている。
もっとも、三度目となる今日、前々回より冷静さは保っている。深呼吸で震える心臓を落ち着かせてから僕がリュックから取り出したるは、懐中電灯型の発光装置である。
この目が睨みつけたそこには、腐乱死体が直立不動でしかも足も動かしてもいないのに急接近しようとしていた。言葉が通じずともありありと伝わる悪意。仲間にしてやる、支配してやる、苦しめてやる、永遠に縛り付けてやる、そのためにこの沼地に引き摺り込んで窒息死させてやる。その際の悲鳴と絶望感を糧に力をより増幅させて、崖上の車道からもっと多くの通行車両をこの場に滑落させてやる。
それを証拠に、沼地からは続々と他の被害者らしき人体の一部が浮き上がっては、苦しみ悶えているように揺れていた。
「おい見ろよ、ゆうゆう。チンアナゴみたいで超わらえる!」
「だから、不謹慎なんだってよ」
この山の地主の家族だって被害者だ。立入許可の条件として心霊現象解決任務を与えられ、また成功すれば報酬もくれてやるという、今回に限ってはちょっとした見返りがあるからこそ、彼女も厚遇で協力してくれたのだ。
回想するこんな僅かな余裕もすぐに途切れる。やがて、おびただしい湯気を発するほどに煮沸した泥が、巨波となってこの身を飲み込もうとしていた。僕の腕の中で徐々に冷たくなっていこうとする島田は、この状況下でやっぱりうんともすんと言わない無責任ぶりである。
もう目と鼻の先。
そのとき、蝙蝠型ボブルヘッドが揺れた。彼女の声が聴こえる。──いま。
つい一ヶ月前、三度目のナンパが無事に失敗して落ち込んでいた島田が、また次の案件に食いついてきた。前回は、なんとか元凶の撃退に成功したのだが、そのあと、誘拐被害に遭った美女幽霊とやらは自らを縛る悪意から解放されたゆえに、島田に罵詈雑言を浴びせながら成仏していった。
「ありがとう、なんて言ってたな、あの子」
「どうして、ゆうゆうにはお礼を言って俺にはないんだよ。俺が引きつけてたから、成敗できたんだぜ?」
納得いかない様子の島田と共に山を降りてからは、多くはないながらも約束通りの報酬を得て自宅へと帰ったわけだけれど、そこで待ち受けたるは今こうして珍しくも同行する我が交際相手だったのである。
二度と島田なんぞの我儘に付き合うな、と不機嫌をあらわにしつつも、どこか諦めた様子で僕に手当てを施してくれる清香というこの女性も、また生まれながらとてつもない霊能力をもっている。出逢いは単純なもので、一年ちょっと前に会社の宴会帰りにふざけて立ち寄った占いの館で、彼女が担当してくれたうえに「あなたは、わたしと添い遂げることで一生幸せになるでしょう。さもなくば死にます」と言われて、そのまま交際へと発展、いつの間に同居といたる。清香は今でも占いの館で働いてはいるのだが、貯めた金でゆくゆくは喫茶店を営みたいらしい。元は代々続く、祓魔師の家系だとか現代社会において耳を疑う自己紹介がなされた押掛け女房の過去が懐かしい。ちなみに、堅苦しい実家を飛び出してこの煩雑な地へときたはいいものの、学もないので結局のところは鍛え上げた能力を駆使して生活していたという経緯だった。
だというのに、全身真っ黒衣装で脚を組み、腕を組み、とする清香は今こうして、ハイエースのハンドルを握ってどんどん山奥へと向かう島田七雄に対し、憎悪の目を後部座席から注いでいるのだ。得意分野でいくら共通しようとも、許せないらしい。
「あー、やだやだ、なんでこんなの連れてきたんだか、ゆうゆうよう、もう別れちまえよ。あ、そうだ。お望みならこれから行くダムに突き落としてやるよ。この可愛げのない目付きグルカナイフ女」
「黙れチンカス野郎。たかだか、幽体離脱できるようになった程度で、調子に乗んな馬鹿が。あんたのせいで、ゆうちゃんが擦り傷と火傷をこうむったんでしょうが。あー、やだやだ、なんでこんな節操ない生ゴミかまだ生きてんだか。あ、そうだ。今度幽体離脱したら、あたしがトドメ刺してあげるね。これでゆうちゃんも安泰だわー」
「ざけんなてめえ。今回ついてきたのも所詮は報酬金目当てだろう。この守銭奴が。前ので味をしめただけだろう」
「あんたこそざけんな。誰のネットワークで毎回、わけあり事件現場紹介してもらえてると思ってんのよ。ねー、ゆうちゃん」
「ですよねー」
「おいこら、ゆうゆう。成人したてごときのこのガキ、さっさと沈めて自由になろうぜ。生身の女なんかよりよ、冷蔵庫いらずの部屋温度にしてくれる幽霊美女のほうが絶対にいいって。食費かからねえ、勝手に金を使われねえ、浮気しねえ。そして、死んでるから法律的に多重婚ができるとか、ハーレムもできて最高じゃねえか。うぜえガキもつくらなくていいしよ」
そうこうしているうちに、現場に到着。荒れ果てた駐車場で降車した僕ら三人は、相変わらず険悪な雰囲気を保ったまま、問題のダム公園へと急いだ。山の天候は荒れやすい。分厚い雲が夜空を覆い尽くし、懐中電灯無しでは一步前に出るための視界も皆無。目的地には比較的小型のダムから放流される水路があり、隣接する場所に寂れて瓦解寸前のスポーツ運動公園があった。
依頼主の道路交通局によると、新月の夜に限って南方から走りくる車が暴走して、突如としてダムに降り落ちて来るのだという。もちろん、運転手は即死、今や原因不明の事故による被害者は十人にものぼる。前回と酷似した事案であるため、完全無欠に解決したという僕らの噂が広がり、その界隈からも信頼を得たらしいとのことで清香が新たな依頼を用意してくれたわけだ。
いわく、一年前にこのダムで嘆かわしい事件が発生した。当時幼稚園児であった二人の実娘を、この公園からダムの水路に突き落として自分までも身を投げた女性がいた。専業主婦であった彼女は、精神疾患をわずらっていたらしく、普段から虐待を重ねていたと事件簿にも記録されている。
「いやあ、どんな美人母ちゃんなのかなあ、楽しみだなあ」
なのに島田は相も変わらず、不謹慎である。へらへらうきうききゃっきゃと、小躍りしながら、匍匐雑草で繁茂する地面であるのに微塵も躊躇わず前へ前へと突き進む。僕も、彼女からもらった怪現象感知ボブルヘッドと、リュックといういつもの装備で後ろに従う。錆だらけのジャングルジム、チェーンが片方外れたブランコ、ロープが苔だらけの足場をもつ大型滑り台に、腐乱して板が抜け落ちたベンチも撤去されずにそのままだ。不気味でしかない。
「なんだか」
「うん」清香が神妙にうなずく。
「気味が悪いとかそういうのだけじゃなくて、その」
「わかる」
「僕の妄想なのか、先入観なのかな……悪意が滑り込んでくるような」
親しい者、愛すべき者、守るべき者を、ダムの水路に突き落としたくなる黒い衝動が、流れ込んでこようとしているような──逃げる清香を捕まえて乱暴に水路へと投げ込み、溺れるその様を見下ろしながら達成感に浸る自分。遊具の足元に置かれる花瓶と花束、きれい、誰が、さいている、おかあさんこれ四葉のクローバー、かわいいね、あげるね、どうしたの、おとお。
パン、と強く肩を叩かれた。清香だった。僕の右肩、左肩、と二回ずつ叩いて喝を入れる。
「どう?」彼女がにこりと微笑む。
「ああ、ありがとう。随分と楽になった」
邪心が霧散した。ただし、この場にして長くはもたないだろう、とも畏怖した。雑草を分けて歩いただけなのに、どうしてこんなに身体が重く息苦しいのか。嘔吐感がこみ上げる。その都度、清香が口の中で教を唱えて、僕の背を優しくさすった。
姿の視えない邪悪な何かから睨まれている。今回はかなり強烈だ。早くも限界が近い。視界が霞む。頭がくらくらしていた。
清香が「あそこにいるわね」と、威嚇気味に唸った。「ひい、ふう、みい……じゅう、十二人?」どうして、と次には不安げに漏らす。不測の事態というわけか、ボブルヘッドも微動だにしない。
島田に撤退を要求しようと、膝を着いた姿勢で見上げると、
「よっしゃ、見つけたあ!」
島田はまたパンツ一枚になっていた。もはや、唖然とするしかない。なんと血気盛んに、壊れた遊具を登っていく。
「待っておけよ、そこの美人主婦ちゃん。俺が来たからにはもう大丈夫! 鬱陶しいガキも死んだし、死後は俺とおかしく楽しく生きようぜ」
「日本語むちゃくちゃ、羞恥心ゼロ、配慮無しの最低のクズ」
清香の冷淡な罵倒も無視する爆速の島田は、天真爛漫な子供同然、勢いを衰えさせることなく巨大遊具の頂まで到達していた。
「やめないか!」
そのとき、どこからか喝破が響き渡った。雑草を踏む確かな足音と懐中電灯の光、そして特殊警棒を握りしめる壮年男性が藪を分けて近寄ってくる。憤怒の形相だった。
「なにをやってる。早く降りてきなさい」
しかし、叱責の的である島田は一顧だにしない。
「奥さん、濡れて青白く艶めく素肌が素敵です! 折れたぐちゃぐちゃの腕でいつまでも突き落とした子供たちを探さず、もう諦めよう。ほらこっちに手を伸ばして。俺ならあなたのような絶世の美女を泣かせたりしません」
その台詞を皮切りに、とつぜん女性の咽び泣き声が、この胸をも透過する勢いであたり一面に駆け抜けた。脳の歯車をことごとく破壊せしめるような、磁励音にも似た効力だった。僕は言葉にならない悲鳴をあげていた。島田が落下してくる。遊具の支柱が歪に折れ曲がり、地熱は氷みたいに冷え込み、腐敗した木造物が破裂する。
「ゆうちゃん、ライトを」
はっ、と我に返る。蹲る僕の背後から両肩を掴み、淡々と呪文を唱える清香のおかげか、激しく渦巻こうとしていた凶悪な破片の数々は、ここを円の中心にして侵入してこようとしない。ひとまずの安全は保たれたが、この状態では脱出も不可能だ。見ると嵐の壁の向こうでは、遊具から落下した島田が倒れ伏せたままで、先ほどの壮年男性が必死の形相で起こそうとしていた。
「うひょひょお、へんしーん」
どうやら、島田は無事のようだ。
しかし、僕らを守る円がみるみる小さくなっていく。清香は肩で息をしていた。汗が綺麗な形の顎から伝い落ちて、大きな目はつらそうに歪んでいる。
限界が近い。余裕はない。リュックからいつもの懐中電灯型装置を取り出した。大人の前腕部ほど丈がある棒状の金属外装で、懐中電灯そのままランプが先頭についているが、実はこれ、殺菌用LDライトの開発失敗作らしい。いわく、これを試験発光させたとき、開発室で過労死した職員の悲鳴が聞こえたのち、場はまるで清らかになったという。どこでこのような便利グッズを入手したのか知らないが、清香から僕に授けられた世界でただ一つの対怪現象兵器でもある。
ただし、電池式で急激に電力を消費するため、最長三分しか連続稼働できない。しかも、放熱時間が十分以上要するという万能から程遠いボロだ。一見、無駄と思われる防水機能もこれを理由に頷ける。
スイッチを入れて発射させた光線は雲を破って、月まで届きそうな高出力だ。迫る嵐の渦向こうから、こちらに襲いかかろうとしていた顔面土砂崩れの男性亡霊に照明を当てると、露を払うように呆気なく霧散した。まず、一体。同じく、事故死から悪霊と化し、次々と車をダムに引きずりこんでいった亡者たちを撃退していく。二体、三体……七体、八体……十体──
「ちょっと待って、ゆうゆう! 俺もいるんだって!」
そういえばそうだった。肉体から離脱している島田は幽体の露出状態、つまりこの光線の餌食になってしまう。怪しい影に反応してがむしゃらに照射していると、島田は帰らぬ人になる。しかし、怪現象は止まらない。壮年男性は島田の肉体をダム側へと引きずっていく。なにをするつもりだ。
「ゆうゆう、この美女にも光を当てるな! 前回と同じで根源がいるんだ」
「どこだよ、それどこだ。早く教えろ」
四方を照らすも、それらしき存在は認められない。そうこうしているうちに、女性の悲痛な声は更に大きくなり、地鳴りまでも齎す。「ゆうちゃん」清香は体力が尽きて地に這いつくばり、息も絶え絶えだった。空気に圧し潰される。肺がうまく動かない。そして、手の中で光が消えた。電池切れの懐中電灯は、持っていられないくらい発熱している。
「こいつだ。こいつにとり憑いてるぞ」
島田が吠える。島田の肉体を引きずって、今にもダムの水路に到達せんとする壮年男性を指している、とようやくここで理解した。
僕は服をぬいだ。亡霊撃退懐中電灯にシャツの袖を結びつけて水路へと走る。水嵩が増して奔流となる中に懐中電灯を投げ込むと、じゅ、と音がして沈んでいった。一方の袖を掴んでカウントしながら、新たな単一乾電池を八個、リュックから抜き出した。壮年男性が、島田の肉体に蹴りを入れてこう笑していた。いたぶることを愉快とする表情は、口元をとろかせている。
シャツの袖を引っ張り、懐中電灯を水路から上げた僕は底カバーを開ける。空乾電地が、次々と滑り落ちては地を弾いた。四度目だ。もう慣れた。自宅でも清香に隠れてリロード練習している。新しい乾電池で充填された亡霊撃退懐中電灯は、放熱冷却も完璧。
「ゆうゆう、こいつだ! 引き摺り出してやる。このおっさんの後頭部から一メートル後ろを撃て!」
この手から放たれた真っ直ぐの光線は何もない闇を貫いたやしかし、暴力に愉悦を見い出す亡霊を一瞬だけ照らして、そして断末魔を許すことなく散り散りにしてしまった。
「俺が殺したんだ」
意識を取り戻した壮年男性は雑草面に深く座り込んだまま、僕、島田、清香に囲まれて刻々と語る。
彼が殺害してこの公園の地中深くに埋めた人物は、娘二人とこのダムに落ちて死んだ女性、の夫だという。雨の日、近所に家がある彼が公園での騒ぎに駆けつけたときには手遅れだった。男が意識のない女を殴って蹴ってと繰り返し、次には小さな女の子二人をまるで壊れた人形を扱うように鷲掴みにし、ダムの水路に投げ捨てた。次には、女の首に手をかける。
「やめろ!」
その男は特殊警棒を抜き放って、制止しようとする彼を一方的に殴打した。
「家事も子育てもろくにできねえ女が、金だけ食い潰しやがってよ、そのくせこっちに女ができたらごちゃごちゃと」
呪詛のような暗い言葉が、未だに耳朶にこびりつくという。気がついたら彼は手に触れていた冷たい石の塊で、男の頭部を殴りつけていた。何度も何度も、重ねて。男の死を悟って始めて彼はそこで、女性の姿を探した。水路際に残されていた片方のシューズは、今も彼が持っている。
「あいつを殺してしまったから、母子心中を目撃したとそう供述するより他になくて」
彼にもまた守るべき妻子がいる。隠蔽を試みるしかなかったのだ。
「僕たちは、何も聞いていません」
殺害された粗暴な夫が悪霊となり、他の事故まで誘引して被害を生んでいたのだ。なら、今さらそんな悪辣者のために罪を償う必要もないだろう。僕ふくめ、三人が一致した意見を出したのだった。
「怪現象は解決した。これでいいんだ」
「なあにが怪現象を解決したまでだよ、ゆうゆうちゃんよう。まあた、ナンパに失敗したってんだよクソ」
「母親はやっぱり成仏した?」
「ああ、ダムの底に沈んでた娘二人と昇っていっちまったよ、幸せそうによ」
帰路を運転する島田の顔にはしかし、不満の欠片もなく、むしろ一目でわかる安寧が広がっていた。
「けどよ、やっぱよ。今まで会った美女幽霊の中でも一番だったわ。惜しいなあ。どうにかしたかったなあ」
「はあん、あんたまじで最低ね」ここで、清香が強勢に唾を飛ばす。「冗談でも、口に出して許されないことがあんのよ。変態的趣向もいい加減にしてくれる」
「まあまあ、とはいっても、結果的に人のためにはなったことだしさ。そりゃあ、美女幽霊をナンパなんて馬鹿も休み休み言え案件だけど、報酬金ももらえたわけだしさ」
「ゆうちゃんは優し過ぎるのよ。さっき死にかけたのよ、わかってる?」
「でも、次はもっとうまくやれるかもだし、なんだったら、ああいう不本意ながら縛られて苦しんでる可哀想な霊を助けることもできるんだから」
「霊、っていうか、概念的には悪い残留思念やらに囚われてる魂みたいなものだろうけど、その差は曖昧だしこの際いいか」
「よしわかった」そこで、島田が声を張り上げた。「俺、勉強してカウンセラーの資格を取得するよ」
「なんで」僕と清香は口を揃えてきいた。
「だってよ、諸悪の根源的な残留思念を倒しちまったら美女幽霊は安心して昇天すんだろ。だから、ナンパ失敗してんだろ? なら、諸悪の根源をやっつけずに、カウセリングで美女幽霊を安心させるんだ。よし、これでもう、ゆうゆうにナンパ下手なんか言わせねえ」
がははは、といつものように馬鹿笑いする島田を見て、清香は少し安堵していた。
「じゃあ、しばらく勉強に頑張ってねえ。カウセリング資格とるまで、行動しないように」
「おう、わかった」
なんて言うけど、ルームミラーから合わせてくる島田の目には、まざまざとその意図が見え透いて伝わってくるわけである。不本意にも。