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亡き皇帝のためのパヴァーヌ  作者: 五十鈴 りく
第1部✤亡き皇帝のためのパヴァーヌ✤
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9◆最良の隠れ処

 しばらく泣いて、日が暮れた。

 メイドが食事を持ってくる。このままでは食べられないので、猿轡のネクタイだけ外された。


 メイドはこれを外した時にブランシュが騒ぎ立てると思ったのだろう。少し身構えたのがわかった。けれど、ブランシュは騒ぐ気にもなれなかった。

 今のブランシュは、ここの使用人と同じ死んだ目をしている。


「お食事です」

「……要らない」

「そうですか」


 淡々と返された。この屋敷には味方なんていない。


「猿轡は苦しいでしょうから、このままにしておきます。……舌を噛んでも死ねませんよ。痛いだけです」


 心を見透かされたようなことを言われた。

 彼女たちもまた、絶望に面して諦めて生きているように見える。だから感情が麻痺している。


 メイドは食事を置いて去っていった。食べたいとは思わない。下げてくれていいのに。

 そのままベッドに突っ伏して時を過ごした。




 じっとしていると、どこかから笑い声が聞こえてきた。セヴランたちの声だ。

 馬鹿な小娘を騙し、手に入れ、これから金に換える。可笑しくて楽しくて仕方がないらしい。


 あんな悪党たちにいいように使われ、ブランシュの人生は歪んでいくのだろうか。

 しばらくその笑い声を聞いていたら、ふと悲しい気持ちよりも腹立たしさが込み上げてきた。


 どう考えても彼らよりもブランシュの方が悪いわけがない。

 それなのに、ブランシュが苦しんで彼らが笑っている。こんなことがあっていいのか。

 このまま彼らに屈して生きるか、諦めて死ぬか。本当に選択肢はそれだけか。


 ブランシュは上体を起こし、メイドが置いていったトレイに目を向けた。足の方は縛られていないので、立って歩ける。


 テーブルに歩み寄ると、そのトレイの上に載っていたナイフとフォークに目を留めた。それを見た途端、力が湧いてきた気がした。


 後ろを向き、ナイフを手に取る。そして、ソファーに座って慎重にナイフを立てて縄に当てた。少しずつ切り込みを入れていく。縄が解れていくごとにブランシュの心も解放されていくようだった。園芸用の縄など細いものだ。素手で千切れずとも、刃物があればすぐに切れた。


 手の縛めが解けると、ブランシュは先ほどとはまるで違ってなんでもできるような気になった。

 そうだ、セヴランたちにこんな扱いを受けたと訴え出よう。そのメファノ伯爵に会ってみるべきだろうか。

 どこへ行けば会えるのかもわからないけれど、とりあえずここから逃げよう。


 窓からしか逃げられないのなら、少しでも身軽でいないといけない。鞄いっぱいの荷物は無理だ。ブランシュは荷物から母の形見である瑪瑙のペンダントだけ身に着け、あとは少しの所持金をベルトに挟んだ。


 窓を開けると外は暗かった。潮騒が聞こえるけれど、この部屋は海に面していない。客間の下は庭になっている。

 潮騒が多少の物音は隠してくれるし、暗いから見つかる心配も少ないと思えた。

 切った縄や、部屋にあった細長いものをかき集めて繋いでいく。それでも長さが足りない。


 ブランシュは自分の髪を解き、切れ味の悪いナイフで切って使うことにした。背中に届く長い髪は三束ほどに分けたら結構な長さになる。少しずつ髪の重みがなくなって、どういうわけか気分も軽い。


「よし!」


 ベッドの足にそれを括りつけ、思いきりよく飛び出した。怖くはなかった。ここにいるくらいなら死んでもいいと思ったせいだ。


 幼い頃のブランシュは人とは馴染まなかったが、わりと活発だった。体を動かすのが好きで、男の子のように飛び回って服を汚して母に苦い顔をされていたくらいだ。


 庭に着地した時には自分を褒めてやりたくなった。そろりそろりと闇の中を進んでいく。そのうちに目が慣れて、猫のように暗がりに馴染んでいた。


 どの入り口も、こんな時間には閉じている。けれど、使用人が使う出入口があるはずだ。そこは中から開けられるだろう。


 徐々に空が白み出し、木戸の(かんぬき)が見えた。ブランシュは音を立てないようにそれを外すと、ほんの隙間を開けてすり抜けた。


 そこからはもう、一気に走った。足がもつれて一度転んだけれど、すぐにまた立ち上がって駆け出した。


 ――わたしは何もできなくなんかない。


 あの悪党たちのところから逃げ出すことができた。

 ちゃんと自分の力で、決断して動けた。道具になんてならない。


 ブランシュはいつまでも指に合わない結婚指輪が嵌っていることを思い出し、それを思いきり遠くへ振りかぶって投げた。


 法律上どうだろうと、あんな卑劣漢の妻であるつもりなんてない。否定しながら生きていこう。

 この時に見た眩い朝日が目に染みた。




 標識を頼りに近くの町へ着いた時にはブランシュの足はズタズタだった。ひどい靴擦れで歩くごとに激痛がする。

 それでも、もっと遠くへ行かなくてはと思った。


「あの、この額だとどこまで行けますか?」


 手持ちの紙幣を乗合馬車の御者に見せた。

 とりあえず、これまで住んでいたミッサの町へ戻り、誰かに相談してから訴えたいと思った。けれど、セヴランはブランシュがいないと気づいたらまずそこを探すはずなので、戻るのが得策かどうかわからない。しばらく別の場所に身を潜めてから動いた方がいいとも考えられる。


「アルディまでかな?」


 それは、道中に立ち寄った町だ。確か、オルグ将軍の屋敷が見えた辺りで。

 そこでふとブランシュは考える。


 オルグ将軍は現在、沙汰が決まるまで屋敷で蟄居している。それならば、その沙汰とやらが決まったら役人が来るのではないのか。その時に訴え出てみたら相手にしてもらえるだろうか。


 それに、オルグ将軍は屈強な武人として有名で、そんな人の屋敷にセヴランがブランシュを探しに来るわけがない。


 オルグ将軍の屋敷は恰好の隠れ場所かもしれない。もちろん、当人や家人に見つかってはならない。庭の片隅にひっそりと隠れさせてもらえれば――。


「わかりました。じゃああそこまでお願いします!」


 後になって思えば、どうしてそんな突拍子もないことを思いついたのだろうかと自問する。

 けれどこの時はそれが最良に思えたのだった。




 乗合馬車はブランシュ以外の乗客もいる。

 見苦しくガタガタに切った髪をしたブランシュを乗客たちは気まずそうにチラリと見たが、あまりにも悲愴な顔つきをしていたせいか声をかけて来なかった。けれど、馬車が停留して乗客の親子が降りた時、乗っていた小さな男の子が紙袋をブランシュの膝に置いた。


「おねえちゃんにあげる。元気出してね」


 ハッとして顔を上げたら、その子の両親もそっとうなずいていた。


「あ、ありがとう」


 再び走り出す馬車からブランシュは男の子に手を振った。紙袋の中には砕いたナッツを練り込んだクッキーが入っていて、開いた途端に甘い匂いがした。そうしたら空腹を思い出した。


 ブランシュは涙を堪えながら道中、そのクッキーを味わって食べた。空腹が紛れたのと、他人の優しさが信じられないくらい嬉しくて力が出た。




 馬車がアルディに着いた時、ブランシュの手元には小銭しかなかった。

 それで日持ちのするパンを買い、公園で水を飲んだ。やはりこの髪ではジロジロと見られてしまうが、整髪に使う金銭のゆとりがない。これだけの食糧で数日は屋敷の庭辺りに潜伏しなくてはならないのだ。


 完全に日が暮れる前にオルグ将軍の屋敷の付近まで行こうと、ブランシュは靴擦れで血がついた靴を見て見ぬふりをしながら歩いた。

 遠くから見ていると案外近いと思っても、実際に歩いてみるとなかなか着かない。


 ブランシュは時々休んだ。そうして、また歩き出す。歩いていればいつかは着く。


 オルグ将軍の屋敷の周囲はとても静かだった。ひっそりと皇帝の喪に服しているのだろう。

 この中で将軍は悲しみに浸っていると思われた。


 ブランシュは忠誠というものがどんなものなのか、自分の身に置き換えてみることができない。家族や友人を(うしな)うのとはまた違うとしても、それが自分の責任だったらどれくらい苦しいのだろうか。


 そんなことを考えながら近づいていく。

 門は閉まっているだろう。どこかに抜け道があるといいけれど。

 使用人たちは出入りするだろうから、その隙に上手く入り込めたらいい。


 裏に回ると低い塀しかなく、しかも出入り口の格子には鍵がかかっていなかった。少し錆びついた格子を押すと隙間が開き、ブランシュは中へと入ることができた。

 嬉しくて泣きたくなったが、泣いている場合ではない。早くどこかへ隠れないと。


 屋敷へ続く道に柔らかく湾曲したシデのアーチがあった。木が人を誘うように開いている。このトンネルはまるで魔界へと続いているような薄暗さだった。


 ごくり、と唾を飲み、ブランシュは踏み出した。


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