7◆悪党
まだこの屋敷に来てひと晩明かしただけだが、使用人の数が足りていないのではないかとブランシュには思えた。
朝食を持ってきてくれた後、誰も来ない。忙しそうに人が動き回っている音がするだけだった。
皿を下げてもらうのに呼びつけるのも悪いような気がして、ブランシュは自分で厨房まで行くことにした。部屋でじっとしていても、どうせすることがない。
廊下へ出ると、セヴランがこちらへ向かってきた。
「ああ、おはよう。今から明日の式のリハーサルをしよう」
「は、はい。えっと、今お皿を返しに行こうかと思って」
「そんなものは置いておけばいい」
セヴランはブランシュの手からトレイをもぎ取ると、扉の前の廊下に置き去りにした。ブランシュの手首をつかみ、足早に進んでいく。
この人は気が急くほどブランシュと結婚したいと思っていてくれるのだろうか。セヴランの頬が上気して嬉しそうに見えたのだ。だとしたらブランシュも嬉しいけれど。
リハーサルであって本番ではないとしても、ブランシュは朝食の後に誰も来てくれなかったので、自分の手持ちの服に着替えたのだ。だから、今の姿ではとてもセヴランと釣り合っているようには見えない。
本番ではちゃんとするからいいのだろうか。しかし、あのドレスのサイズがブランシュに合うのかまだ試着もしていなかった。
庭先には簡素な祭壇が設けられていた。その先にダルコスがいて、手帳を開いて持っている。
「今の私は弁護士のレイモンではなく、牧師だと思ってください。もちろん当日は本物の牧師が来ます」
などと言ってウィンクしてみせた。あの手帳は牧師の祈禱書のつもりらしい。
なるほど、リハーサルだとブランシュは少し笑った。
セヴランとダルコスが式の段取りをブランシュに身振り手振りで教えてくれる。
「――それで、このタイミングで結婚証明書にサインします。まずは新郎から」
祭壇の上には上質な紙の書類が置かれており、セヴランはそこに鵞ペンでサラサラと名前を書いた。
「ああ、これは本物じゃない。教会の捺印がないだろう?」
「練習用にもらいました。書いて構いませんよ」
本番で失敗するよりは一度でも練習しておいた方がいい。ブランシュも名前を書いたが、滑らかな紙なのでペン先が引っかかることもなくちゃんと書けた。
後は本当にざっくりとした説明を受けた。それから、セヴランは言う。
「部屋にあるドレスを試着して、体に合わないようなら仮留めしてもらうといい。早速着ておいで。きっとよく似合うから、明日が楽しみだよ」
本当に嬉しそうに言われた。ブランシュの方が戸惑うくらいに。
「あ、ありがとうございます」
なんとなく気後れしつつ、ブランシュは二人と別れて部屋に戻ろうとした。
その間、一人で歩いているとふと、ずっとつきまとっていた違和感がぶり返してくる。
あんなに嬉しそうにブランシュとの結婚を待ち望んでくれているセヴラン。
けれど――。
ブランシュは、道の途中で踵を返した。
ドキドキと胸が鳴るのは、恋ではない。ブランシュはまだ、セヴランに恋をしていないのだ。
素敵な人だとは思うけれど、まだわからないことが多すぎるから。
彼と理解を深め合うために戻った。
その先にあったのは、ひどい現実だった。
セヴランが笑っている。
それはブランシュに見せたような微笑みではなく、可笑しくて仕方がないという笑い声だ。
「本当にちょろい娘で助かるよ。何ひとつ疑わないで僕たちの言うがままなんだからな!」
「可愛いじゃないですか。あなたの奥様は」
ダルコスの声にも揶揄するような響きがある。それらは、ブランシュに見せていた顔とは違うものだった。
とても、薄暗く歪んでいる。
「メファノ伯の娘を手に入れたんだ。しっかり搾り取らないとな」
「まったく、あなたのがめつさには恐れ入りますよ」
「自分のことを棚に上げてよく言う。メファノのじじいの遺言書を偽装して、今回の計画を立てたのはお前じゃないか」
「まあ、そうですけど。本来ならば彼女はメファノ家に戻され、嫡男として育てられている青年の妻になるはずでした。あの母親が彼女を連れて逃げてしまうなんて、メファノ家は思ってもみなかったんですよね。彼女なりの復讐のつもりでしょう。メファノ家は今度こそブランディーヌ嬢が産む子供を後継ぎにして帳尻を合わせたいのですから、大枚を叩いてでもあなたに離縁してもらわなくてはなりません。さて、いくら頂けますかねぇ」
上手い話には裏があるとは言うけれど、それが自分の身に降りかかってくると構えてはいなかった。
甘すぎたのだ。もっと自分の頭で考え、自分の足で踏ん張って立たなくてはならなかったのに。
一人の寂しさを抱え、そんな日々はいつか報われるのではないかと夢想しているばかりだった。だからこんなにも容易く騙されてしまうのだ。
「いくらでも。こっちの言い値を払うさ。大体、この取り換え子の醜聞だけでも口止め料が必要なんだからな」
「金はいくらあっても邪魔にはなりませんからね」
「それが手に入るまで、精々あの馬鹿な小娘の機嫌を取ってやるさ」
「思っていた以上に可愛らしい娘ですし、役得じゃないですか」
「ハッ。女なんてどいつもこいつも皆同じだ」
「私は気に入りましたよ。代わってあげたいくらいです」
「手を出すなよ。商品価値が下がるからな」
――セヴランに覚えた違和感。
それは、一度もブランシュの名を呼んでくれていないこと。
〈君〉、とただそれだけで済まされてしまう。用が足りる。
ブランシュ自身にはなんの興味もない。
目の前が眩んだ。絶望したところで救いは何もない。
そう、結局、自分を護るのは自分自身でしかないのだ。
ブランシュはグッと拳を握り締め、楽しげに談笑している二人の前に出た。
そうして、精一杯二人を睨みつける。
「わたし、結婚なんてしません! 帰らせて頂きます!」
負けるな。こんな人たちに屈したくない。
伯爵家云々が本当か嘘かなんてもうどうでもいい。そんなものには関わらず、自分のために生きていこう。この時、ブランシュはそれを思った。
しかし、二人は狼狽えることもなく、冷たい目でブランシュを見据えた。
「立ち聞きとは、血筋のわりに行儀が悪い。育ちのせいかな?」
ダルコスは祭壇の上の書類を持ち上げてみせた。
「ここにあなたの名前を書いて頂きました。私の特技は人の筆跡を真似ることでして、これをもとに結婚許可証も仕上げて提出しておきますから、どうぞご心配なく」
「何を言っているんですかっ? 犯罪ですよ!」
「そうですねぇ」
ブランシュが怒りをみせたところでダルコスはニコニコと笑うばかりだった。そして、セヴランが急にブランシュの頬を手の甲で叩いた。
目にチカチカと火花が散る。頬の痛みよりも驚いてよろけてしまい、その場に倒れた。その時に肩を打って、そちらも痛み出す。
「ぎゃあぎゃあうるさい小娘だ。もう段取りはどうでもいい。さっさと式を挙げる。牧師を呼んで来い」
「今からですか? まあ、そうですね。この調子だと早い方がよさそうです」
そう言って、ダルコスは庭から出ていった。セヴランは倒れているブランシュの髪をつかんで引っ張った。痛みで呻き声が漏れるけれど、セヴランはブランシュを憐れには思わないらしい。
「お前は僕の道具だ。黙って僕に従え」
少しのあたたかみもない目で見下され、ブランシュは言葉が出なかった。騒ぎを聞きつけて顔を出した庭師に、セヴランは言う。
「おい、縄を持ってこい。今すぐにだ」
「は、はい!」
庭師はセヴランに一切逆らわない。いつもこうなのだろう。この屋敷の使用人たちが死んだ目をしている理由が今になってわかった。皆、この主人が怖いのだ。
庭師が持ってきた縄は、ブランシュを縛るためのものだった。後ろ手に縛られ、ブランシュはやっと震える声を上げた。
「や、やめてくださいっ」
けれど、それを言った途端に今度はセヴランが絞めていたネクタイで猿轡を嚙まされた。悔しくても泣くしかできない。そんなブランシュをセヴランは嘲笑う。
「大人しくしていれば、これ以上痛い目に遭わずに済むんだ。どちらがいいか、その足りない頭で考えろ」
世の中の悪人が、見るからにあくどい顔をしているとは限らない。
紳士然とした悪魔がいるのだと知ったけれど、遅すぎる。これから自分はどうなってしまうのか、もう何も考えたくなかった。