〈次世代編〉
「わたし、大きくなったらサミールさまのおよめさんになります」
「僕の。ふぅん」
それは非常に素っ気ないリアクションだった――。
モルガド帝国の皇太子、サミール・ド・スキュデリー。
皇太子というのがなんなのかを知る前から、物心ついた時にはすでにいた私の幼馴染だ。
小さい頃から三日と空けずに顔を合わせていて、年も近いから兄妹みたいな間柄と言ってもいい。
ルネ・オルグ――私の兄様とも仲が良くて、三兄弟みたいなものだ。ある程度育ってから、身分が違うとか、そういう難しいことを知った。
側近である私の父様に向けて、サミール様の父様、つまり皇帝陛下が『アンジェはサミールの嫁にもらうからな』なんて言っていた。だから、私はそうなんだ、と思ってサミール様に言ったまでだ。私はあなたの嫁になるらしいと。
それが、『ふぅん』だった。
ああ、そうですかとガッカリしたのも無理はないはずだ。
ちょっとくらい嬉しそうにしてくれたらよかったのに。
サミール様はそもそも、結構冷たい。冷酷という意味ではないけれど、意地悪だ。本気で困るような嫌がらせはしないけれど、よく揶揄われる。
まあ、その代わりと言ってはなんだけれど、見た目はすこぶる良い。金髪碧眼のお人形のようだ。
口を開かなければ、キラキラと輝いて見える。
それから、皇帝陛下の血を引くだけあって、人一倍魔力が強いらしい。魔力なんて日常生活にはなくていいけれど、皇帝ともなるとそういうわけには行かないらしい。英雄と呼ばれる陛下の子息であるサミール様にのしかかる期待は大きいらしい。
だから常日頃偉そうにして侮られないようにしているのか、素であれなのかはわからない。
嫌いか、嫌いではないかと問われるなら、嫌いではない。
でも、返事が『ふぅん』だ。
私では不満らしい。よくわかりました。
齢五歳にして、私、アンジェリーヌ・オルグはこの記憶を封印した。
記憶の片隅に追いやって、綺麗さっぱり忘れて十一年――。
それにしても、サミール様は暇ではないはずなのに、今になってもまだ三日と空けずにうちに来る。忙しいふりをしているだけで、実は暇なんだろうか。
「――おい、アンジェ」
「なんでしょうか?」
私は庭で優雅に一人茶会の最中だったのに、招いていないサミール様が勝手に向かいの席に座った。若々しく高貴で、無駄にキラキラしているが、生憎とこっちは見慣れている。
「お前、この間の夜会でダクール伯の息子と随分長く話していたじゃないか?」
「ええ、まあ。私もお年頃ですので、婚約者になり得る殿方を選んでおかないといけませんから」
「はぁ?」
「はぁ? ってなんですか、失礼な」
「いや、お前が変なことを言うから」
「変って、私はこれでも侯爵令嬢ですよ。このまま婚約者がいない方が変でしょう? 『こいつが? ププッ』とか思うのは勝手ですが、声には出さないようにお願いします」
ちょっとイラッとしつつも、私は静かにお茶を飲む。そんな私を見るサミール様の表情がやたらと険しかったけれど。
「……それは何か? 僕への当てつけか?」
怖い顔でそんなことを言われた。
「そんなつもりはございませんでしたが、そうですね。サミール様は十九にもなって婚約者がおられませんでしたね。傷を抉りましたか? ごめんなさい」
「お前、わざとやってるんじゃないだろうな?」
「何がですか? 私は日頃から、どうしてサミール様には婚約者がおられないのかな、とは思っておりましたが、ああ、これは顔と身分では補いきれない内面が滲み出てしまって誰も寄りつかないんだなと――あわわ、今のはお忘れください」
「棒読みに真顔で『あわわ』とか白々しいな」
「すみません、表情筋は父譲りで。でも全身が父譲りでなかっただけマシでしょう」
サミール様が黙ったのは、きっと父様似の私を想像したからだろう。
厳つい武人の父様に似た令嬢。それこそ持参金がなければ相手が見つからないかもしれない。
私は母親似でよかった。母様と同じプラチナブロンドに、どちらかというと細身の体格。今後肉感的になれる予定はないけれど、最近の下着は優秀だからまあいい。
「でも、パトリス・ダクール様は無理かもしれません。ちょっと話が噛み合わなかったので。最有力はヴィクトラン・フォトゥクス様でしょうか」
「ヴィクトランだと?」
「サミール様の従弟ですものね。私が従妹になったらお嫌ですか?」
ヴィクトラン様は、サミール様の母方の従弟に当たる。ひとつ年下で、私の兄様と同い年の十八歳だ。
薄茶色の髪色が、私が飼っていたうさぎちゃんによく似ていて好きだ。顔立ちは爽やかだし、言うことも真っ当だし、夫にするには優良な人材だと思う。
しかし、サミール様はその優良な従弟を不愛想な幼馴染にくれてやる気はないらしい。
「当たり前だ」
「へぇ。当り前ですか」
じゃあサミール様がヴィクトラン様と婚約すればいいのに。ケッ。
◇
サミール様にああ言いきったものの、実はヴィクトラン様も無理かもしれない。
私が話しかけただけで妙に緊張の面持ちになる。大体皆そうだ。
これは父様のせい。
ノア・オルグ元帥。帝国随一の武人なんて謳われて、今では軍の最高責任者にまで昇り詰めた。
大柄で目つきは鋭く、素手で地面に生えた木を抜けるくらいの力持ち。
でも、だからといって、『娘さんを僕にください!』と言いに来た男性を素手で真っぷたつにすると思ってほしくない。ちゃんと話せばわかる人なんだから。
私はひそかにため息をついた。
そこに兄様が現れた。顔や体格は父親譲りだけれど、表情は柔らかい。
「ため息なんてついて、どうした?」
「いえ、私の前途について考えていました。私が父様の娘であるばかりに、求婚者が来ません。父様、全然怖くないですよねっ」
「なんで父上のせいなんだ?」
「私に魅力がないのを父様のせいにしていると言いたいんですか? 兄様あんまりです!」
「い、いや、そうじゃなくて」
「あっ! もしかして、兄様のせいですか? 可愛い妹に悪い虫がつかないようにしてます?」
「……してないけど。アンジェ、本気でなんでだかわかってないのか?」
「なんですか、兄様は、理由なんて火を見るよりも明らかだとでも言うんですか?」
「うん。多分当事者以外は」
「教えてください。善処しますから」
「いや、無理だと思う」
「そんなぁ!」
落ち込む。
原因不明のまま年だけ重ねてしまうかもしれない。
鏡の前でくるんと回ってみる。花も恥じらうお年頃なのに、何がいけないんだろう。
仕方がない。とりあえず庭でも歩いて考えよう。
タウンハウスの庭は狭いけれど、春の花がたくさん咲いている。日傘を差して花に囲まれていたら、いかにも淑やかな令嬢っぽい。よし、行こう。
――花は綺麗だけど、花には虫が寄ってくる。
ブンブン。ブンブン。
うるさいだけなら我慢する。でも、蜂は刺すから!
「ハチ――っ!」
日傘でガードするのは日光だけのはずだったのに、気づけば大声を出した私に向かって飛んできた蜂に向け、盾のように突き出していた。
でも、蜂は素早く飛ぶから、傘くらいで避けるのは無理だ。私は仕方なく日傘を放り投げて敵前逃亡することにした。
「お、お嬢様っ」
庭師たちが狼狽えていたけど、私はもっと狼狽えていた。ドレスではそう素早く走れない。
案の定、足がもつれた。
ギャッ、と令嬢にはあるまじき悲鳴を上げたけれど、聞かなかったことにしてほしい。
なんてことを思っていると、転びかけた私を受け止めてくれた腕があった。兄様か父様だと思ったら、全然違った。もっと細い。
細いけど、思っていたよりは力強かった。
「サ、サミール様」
「危なかったな」
「まだ脅威は終わってません! 蜂に追われています!」
「蜂?」
サミール様は私を支えたまま、ブンブン飛んでくる蜂を見据え、いつもよりも少し低い声で唱えた。
その途端に、蜂の羽音が消えた。そして、蜂も消えていた。
――時々忘れそうになるけれど、サミール様は皇帝陛下のお子だから、強い魔力を持っているのだった。時々、こうして何かあった時にだけそれを思い出さされる。
「蜂は騒ぐと寄ってくるんだ」
「騒ぎましたか、私?」
「多分な」
いつもみたいに呆れた声を出すのかと思ったら、どこか優しかった。私が本気で困っていたのをわかってくれたのかもしれない。
とりあえず礼を言おう。
「ありがとうございました。おかげさまで刺されずに済みました」
いつもよりは少しくらい心を込めて言ったし、笑ったつもりだ。
サミール様は私を自分の足で立たせてくれたと思ったら、急に無言のまま、ぎゅうっと抱きついてきた。
身内以外の人がやったら痴漢だ。でも、サミール様だから、急に殴りつけるのは理性が止めた。
「な、何か?」
「今日は約束を取りつけに来た」
「ほう」
つい素の声が出てしまった。
この体勢で言うことか。なんの約束だか。
それでも、サミール様は聞き流して話を先へ進めた。
「お前が僕の伴侶になるという約束だ」
「は?」
「僕はずっとそのつもりでいた」
「え? ちょ、ちょっと待ってください」
「待てって、十一年待った」
「なんですか、それ!」
私が騒いだせいか、庭師の視線に気づいたせいか、サミール様は私との間にやっと隙間を入れた。
ちょっと締めつけが苦しかったのでほっとひと息。でも、多分顔は赤い。――酸欠のせいだきっと。
それでも、サミール様は楽しそうだった。
「ちゃんとヴィクトランにも言っておいた。アンジェは僕のだからって」
「何が僕のですかっ」
精々が、〈僕の幼馴染〉程度だ。この人は何を言い出すのやら。
「ヴィクトランはちゃんとわかっていた。まあ、僕を差し置いて、この国でお前に求婚できるような男はいないからな」
「ああっ! ここに元凶が……っ」
要するに、他の貴族男性に対してサミール様が私の背後から睨みを利かせていたから、誰も寄りつかなかったとそういうことか――。
「返事は?」
「ち、父がなんと言うかっ。ほら、可愛い娘ですから、悪い虫は真っぷたつにされるかもっ」
「されるわけないだろう? ノアが僕にかすり傷ひとつ負わせたことがあるものか。第一、ノアは温厚だ。どんな相手にもいきなりそんな暴力的なことはしない」
「ぐっ……」
そう、父様はあの筋肉質な体にごまかされているけれど、実は戦でもなければ虫一匹殺さない。サミール様はそれをよく知っている。父様を理由に逃げるのは難しかった。
サミール様は普段、ほとんど私に触れなかったから、ダンスを踊る時くらいしかこんなに近づいたことはなかった。今は近すぎるくらいに近い。
「あれですね、サミール様はうちの家族がお気に入りなんですよね。だから私と結婚したいんですね?」
「僕はお前のことだけを見てきたのに、なんで伝わらないかな」
「えっと、何を仰っておいででしょう?」
「お前が好きだと言っているんだ」
「……っ」
サミール様が一旦離した顔をまた近づけてくる。それも、見たことがないくらい甘い微笑で。
「ん? 父親譲りの表情筋はどうした?」
「ちょっ、やめてくださいっ」
私は思わず、自分とサミール様の間に手を広げて衝立を作った。
けれど、私が前に出した手をサミール様は握り、耳元でささやく。
「隠すな。まあ、耳が赤いのは隠せてないけどな」
逃げたい衝動に駆られたけれど、逃げられない。サミール様は困っている私をとても満足そうに見ていた。
「五歳の時にな、お前は僕の嫁になると言ったんだ。責任を取れ」
「ご、五歳児の言うことを真に受けるのはどうかと思いますが」
私が狼狽えてしまうのは、口説かれ慣れていないからだ。しかも、私が口説かれないのは半分以上がサミール様のせいだ。
そう思ったら、スッと落ち着いた。
「私にとってサミール様は二人目の兄様みたいなものです」
幼馴染だから親しみはあるけれど、サミール様に恋をしていた期間は生涯でこれっぽっちもない。
――まあ、誰に対しても憧れ以上には進まなかったので、それは誰に対しても言えるけれど。
それが正直な気持ちだとしても、正直に言い過ぎたのかもしれない。サミール様は動きを止め、何度か瞬いた後、私の手を放した。そして。
「っ!」
私の顔をすくい上げ、キスをする――ような仕草だけして寸止めにした。唇が触れ合う寸前でやめて、けれどかなりの至近距離で笑いかける。揶揄っているのかと思ったけれど、そうではなかった。
「それなら意識するように仕向けてやろうと思ったが、やっぱり急に距離を詰めるのはやめておこう。こういうことはお前の気持ちも大事だ」
強引かと思えば、そんなことを言った。
とくん、と胸が高鳴ったのは秘密だ。生憎と、そんなことをまだ認めるわけには行かない。
「わ、わたしは……」
サミール様のことなんて好きにならない、とバシッと言ってやりたかったのに。
それを言ったら、私は嘘つきになるのかもしれない。残念ながら、そんな予感があった。
「お前の気持ちはなるべく尊重する。ただし――」
言葉を切ったサミール様は、何故かこの時に冷え冷えとした微笑を浮かべる。
「他の男と結婚するつもりだというのはナシだ。その意見だけは尊重しない。絶対にな」
「サミール様と結婚するか、生涯未婚かの二択ですかっ」
「一択だ。二択にするな」
「一択……」
目が本気だ。気持ちを整理するくらいの時間は与えてやるけど、逃がす気はないと。
私はサミール様をずっと知っていて、身近にいて、恋愛感情は持たなかった。
サミール様は私をそんな目で見ていないと思い込んでいたからだ。それがとんだ勘違いだった。
その前提がなくなった今、私も真剣に考えなくてはいけないのかもしれない。
というか、逃げ道があるようには思えない。
「心配するな。大事にする」
――その言葉に嘘はないのかもしれない。
サミール様なら、他の令嬢も選り取り見取りだったくせに私にこだわったのだから。
「わかりました、検討します」
「僕にここまで言わせておいて、検討か? 手強いにもほどがある」
「仕方ないじゃないですか。急なことなんですから」
「どこが急だ! お前が鈍かっただけだろう」
「私のせいじゃないですよ。サミール様がわかりにくいだけです」
「お前な……」
多分きっと、サミール様とはこんな具合なんだろうなという気がする。
それは婚約者になろうと夫婦になろうと同じで。
でも、サミール様の花嫁になるというのは、王の后になるということ。私でいいのかなと思うけれど、何も自由にならない立場のサミール様だから、これくらい言いたいことが言える相手が近くにいてほしいのかもしれない。
もし、サミール様と婚約しますと言ったら、父様や母様はびっくりするだろうか。
もしかすると、やっとかと言われたりして。
【おしまい】




