4◆皇帝崩御
セヴランの屋敷があるフィンツィ領は、この町から二日もかかるらしい。ここからふたつの領地を跨いだ先の、湾岸沿いのところにあるのだと。
過去に引っ越しを繰り返したブランシュだが、フィンツィ領の方面には行ったことがなかったかもしれない。
そこから、このミッサの町まで何度も往復するのは手間だから、ブランシュさえよければこのまま一緒に行きたいと言われた。
「急すぎて気持ちの整理がつかないかもしれないが、僕の方はすでに君を迎え入れる支度を調えてある。君の望むものはなんでも用意するよ」
――ブランシュも母に劣らず、人付き合いが苦手だった。
母が人付き合いを避けていたのは、こんな事情を抱えていたせいだったのかもしれないが。
そんなわけで、ブランシュには恋愛の経験もない。
それなのに、急に結婚だ。本当に大丈夫だろうかという心配はある。
「あの、あなたのような立派な方の妻だなんて、本当にわたしで務まりますか? わたし、ダンスもピアノも何もできませんが」
不安を口にすると、セヴランは意外そうに笑った。
「そんなものはこれからいくらでもできるようになる。君はとても魅力的な女性だよ」
「えっ、そんなことは……」
しどろもどろになってうつむいた。
ブランシュは色が白いので赤面すると本当に真っ赤になる。ひと目でそれとわかってしまうのが恥ずかしい。
「この綺麗な髪に映えるドレスをたくさん着せてあげるよ」
そう言って、セヴランはブランシュの編み込んだ長い髪に触れた。
綺麗、なのだろうか。色がなく、面白味のない髪だと思っていた。
だから、セヴランのこのひと言がブランシュはとても嬉しかった。
「あ、ありがとうございます」
そうして、ブランシュは荷造りを始めた。
「この長屋の契約や家財道具の処分などの後処理はうちの事務所の者がさせて頂きます。それから、あなたの勤め先にも連絡を入れますので、後のことはご心配なさいませんように」
「でも、勤め先にはお世話になったので、ご挨拶には行かないと」
「それはまた改めて参りましょう。落ち着いたらいつでも行けますから」
勤め先といっても、週に三回ほど宿屋の清掃に行っている程度だ。本当はもっと仕事がしたいけれど、ブランシュはそれほど役に立たないらしく、大して仕事が回ってこなかった。仕事に対して人が余っているのだ。
ブランシュは私物だけを鞄に詰め込む。ここにあるのは安っぽいものばかりで、貴族のお屋敷に持ち込んではいけないような気がした。
服も日用品もすべて新調してくれるという。結局、母との思い出の品だけを選んで少し持っただけだ。
未だに母と呼んでいいのかわからないけれど、育ててくれたのは間違いないから、そう呼びたい。それくらいは許してほしかった。
荷造りを終え、最後に長屋の人々に挨拶に行った。そうしたら、井戸のそばに皆がそろっていた。
何か落ち着かない。騒がしい。
それも、いつもの賑やかな感じではなかった。
「ブランシュ、あんたも聞いたのかい?」
「えっ?」
二軒隣の主婦のポーラが訊ねてくるが、なんのことだかわからない。戸惑うブランシュに、ポーラはため息をついた。
「なんだ、まだ知らなかったんだね。それが、皇帝陛下がお隠れになったっていうんだよ」
予想だにしていなかった言葉だった。
このモルガド帝国の皇帝が崩御したと。
しかし、皇帝はまだ若く、健康そのものであった。これは暗殺されたということだろうか。
「それがね、戦に赴かれていたその先で、敵に襲われて海に落ちたそうなんだよ。ご遺体はまだ見つかっていないみたいで。でも、皇帝陛下の魔力が感じ取れないって、魔術師たちが口をそろえて言っているんだ。ご存命であればそれを辿って探せるはずだって」
皇帝アミルカーレ・ド・スキュデリーは優れた魔術師でもある。
もちろんブランシュはその尊顔を目にしたことはないけれど、絵姿を拝んだことはある。それは美しい、高貴を体現した姿だった。
本当にこんな人がいるのかな、と疑うほどに。絵だから、きっと美化していると思った。
容姿の真偽はともかく、皇帝はその力量をもって数々の偉業を成し遂げた。奪われた領地を取り戻し、大貴族の腐敗を弾圧し、身分に関わりなく優秀な者を引き立てた。
そんな皇帝であるから、民衆からの人気は絶大なものだ。
その皇帝が亡くなったと――。
「これから、この国はどうなるんでしょう……」
思わずそんなことをつぶやいていた。それは皆の不安を代弁したに過ぎなかった。
「よくなることはないだろうね。もうあんな御方は現れないよ」
皆が打ち沈んだ。
民のこの悲しみは、亡き皇帝に届いているだろうか。
「オルグ将軍が一緒だったって話だよ。それで、将軍だけ助かったんだって。国内随一の武人だって言われている御方がついていてそれだよ。あんまりにも不甲斐ないじゃないか。何が将軍だよ」
光り輝く皇帝のそばには、常に影のような将軍が付き従っていた。
オルグ将軍は巨躯と鋭い眼力で敵味方問わず恐れられている。剣を持たせれば彼に敵う者はいないほどの武人で、敵兵の乗る馬を片手でひっくり返したとか、投げ飛ばしたとか、皇帝の容姿と共に信憑性を疑いたくなる逸話が多い。
その忠誠心を皇帝自身が誰よりも信じている、腹心中の腹心だった。
そんな人がついていながらも助けられなかったのだ。さぞ悲しかっただろうな、とブランシュは見ず知らずのオルグ将軍の心中を思った。
そこでふと、ブランシュは視線を感じて振り向いた。セヴランとダルコスが待っている。
今この時に結婚するなんて浮かれた話はできなかった。国民すべてが喪に服すことになるだろうから、きっと結婚は少し先延ばしになる。
「あの、実はわたし、急に引っ越さなくてはいけなくなって。皆さんには大変お世話になったのに、ろくなお礼もできないままでごめんなさい。また改めてご挨拶に伺います。ありがとうございました!」
まるで言い逃げのようにして言い、勢いよく頭を下げた。皆が唖然としているのがわかったけれど、ブランシュはセヴランのもとへと駆け出した。
これから、新しい生活が始まる。
ブランシュの運命の日に、皇帝の命運が尽きたなんて皮肉だった。