15◇正義
「そうなんですよね。大人しそうな顔をしてなかなかに大胆な逃げっぷりでした」
なんてことをダルコスが顎を摩りながら言い、ひとつ息をついて続けた。
「ブランディーヌ嬢が見つからない以上、再びやり直すというのは難しいですから。それよりはミリッツァ様の生存が明るみに出る前に消えて頂いた方が手っ取り早くて」
人殺しまでするのか。
思っていた以上に救いようのない人間だった。いや、人間と呼んでいいのかすらわからない。悪魔だ。
様子を窺っていたブランシュの手は緊張で冷えきっていて、血が廻らない。恐ろしくて足が竦む。
ミリッツァは精一杯体を動かしているらしく、椅子がカタカタ鳴る音が聞こえた。
「崖から身を投げたというミリッツァの遺体が上がらなかった以上、生死を疑ってはいた。念のためにお前が身を隠しそうなところには手を回しておいたんだ。それでも見つからないから、もう本当に死んだんだろうと思っていたらこれだ。ブランディーヌを探していたはずが、お前の方を見つけてしまうなんてな」
セヴランは人を物のように扱う。殺すのも壊すのも同じなのだ。
いけない――と、そう思った瞬間、ブランシュは靴を脱いで窓ガラスを叩き割っていた。
怖いのに、ミリッツァを捨てて逃げられない。彼女は以前のブランシュと同じ、いや、それ以上に恐ろしい思いをしたのだ。それを知っていて、殺されるとわかっていて自分だけ逃げられない。
そんなことをしたら、ノアにも顔向けできない気がした。
あの正しい人のそばに、卑怯な自分では立てない。せめて、やるだけのことはやらないと。
大きな音を立てれば、気づいた人が駆けつけてくると思ったが、甘かった。こんなことは日常茶飯事なのか、誰も近づいてこない。
ブランシュが助けを求めて叫ぶよりも先に路地を塞ぐように扉が開き、中へ引っ張り込まれた。ブランシュを捕まえたのは、ダルコスだ。ブランシュの腰に腕を回し、口を押さえつけた。
「ん――っ!」
助けを呼ぼうにも声が出ない。
中にいた赤ら顔の男がセヴランに依頼されてミリッツァを捕まえた男だろうか。その男も驚いたようにブランシュを見ていた。
「まさかこんな近くにいたとはな」
セヴランの声に熱が籠る。この幸運に舌なめずりする獣のようだ。
ダルコスはブランシュを汚い床に放り出すかと思えば、捕まえたままだった。
「おや、妙にいい服を着ていますね。この町にずっといたのでしょうか?」
「まったく。ろくなことがないと思っていたら、最後の最後でツキが回ってきたな」
「ほん――痛っ!」
ブランシュはダルコスの指に噛みついてやった。手がゆるんだ隙にセヴランに向けて叫ぶ。
「その人を放して! わたしたちはあなたのために生きているんじゃないんだからっ!」
けれど、セヴランは女子供が自分に盾突いたのが気に入らなかったのだろう。
意識が飛びそうなほどの憎悪に満ちた目を向けられた。
「馬鹿を言うな。お前たちは僕のために存在し、役に立てばいい。そんな偉そうな口を利いて許されると思うなよ」
怖くて怯みそうになった。それをダルコスは感じ取ったのだろう。
嘲笑うような猫なで声で囁かれた。
「あなたの旦那様は従順な奥方をお望みなのですよ。逆らうと何をされることか。私も庇って差し上げられませんからね」
怖いけれど、負けたくなかった。
勝ち目のないこの状態で火に油を注ぐようなことをしてはいけないと思うのに、どうしても譲れない。
「あんなの、わたしの旦那様じゃない! わたしは――っ」
ガシャン、とワインのボトルがテーブルに叩きつけられた。空のボトルだったらしく、ワインは飛び散らなかったけれど、緑色のガラスの欠片が窓ガラスの破片と床で混ざる。
セヴランは、半分砕けたワインボトルを持ってブランシュににじり寄った。
「聞き分けがないようだから、僕がしつけてやろう。まだ僕に逆らうつもりなら、今すぐ一生消えないほどの醜い傷をつけてやる」
ワインボトルからワインの雫が血のように滴り落ちる。
脅しではなく、この男はどこまでも本気だ。ブランシュが血を流しても、この悪魔はきっと笑っている。
――こんな時、ブランシュが呼べる名前はひとつだけだ。
「ノア様――っ!」
まだ屋敷の方から戻ってきていない。ブランシュたちがこんな路地裏にいることも知らないはずだ。
ここにいない人の名を呼んでも駄目だ。
それでも、呼びたかった。
誰よりも頼りとする人の名を。




