2◆町娘と青年貴族
それはまさに青天の霹靂だった。
共同井戸から持てるだけの水を桶いっぱいに汲み上げ、それを両手にふたつぶら下げてブランシュが家の前まで戻った時。
十七歳になったブランシュが一人で暮らす、粗末な長屋の前に見知らぬ二人がいたのだ。
身なりの良い紳士が二人。
どちらも三十歳前後で、一人は鳶色の髪を撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけていた。
そして、もう一人は整った顔立ちに均整の取れた体つきをしている。上品な金髪と緑色の瞳。スクエアカットのサックスーツがよく似合っている。労働とは無縁の恵まれた人に見えた。
「君がブランディーヌ・ラファランだね?」
名を呼ばれ、ブランシュは驚いて桶の水を零しそうになった。零す前に桶を地面に置く。
擦り切れた小花模様のコットンドレスにエプロン。背中まで届くプラチナブロンドの髪を三つ編みにして垂らしている。
隙のない着こなしの二人の紳士に比べると、みすぼらしいことこの上なかった。
「は、はい。そうですが……」
母のコリーヌが亡くなったのは二年前。それからブランシュは長屋の片隅で一人暮らしをしている。
けれど、所詮は十七歳の小娘だ。世間のことには疎い。近頃は、このミッサの町の外でのことをほとんど知らない。
十四歳の頃の一年間だけ母と四回も引っ越しをしたが、どこも短期間だったのでろくに覚えていなかった。
それまで、十四年間生まれ育ったのは、エヴラール領のグリマレという町なのだが、母が言うには、住んでいた家の契約が終了したので、もう出ていかなくては行けないとのことだった。
グリマレの中で借家を探すのかと思えば、母はそこから離れて田舎に住みたいと言い出し、ブランシュも一緒に引っ越した。
もともと母は物静かで社交的ではなかったから、人付き合いは希薄で、それに伴いブランシュも友達はいなかった。別れの挨拶をする相手もほとんどなく、気楽に旅立った。母がいればブランシュはどこでもいいと思っていた。
この紳士たちはミッサの町の外から来ているが、引っ越す前のどこかで出会った覚えもない。少なくともブランシュの知り合いであるはずがなかった。
まさか、母が借金を作っていたとか、そんな話だったらどうしようか。ブランシュ一人が生きていくのがやっとで、余分な金はほとんどないのだ。
ブランシュが怯えているのがわかったのか、紳士たちはブランシュを気遣うような目をしてそっと告げた。
「急に見ず知らずの人間が訪ねてきて驚くのも無理はありませんね。私はレイモン・ダルコスと申します。帝都で弁護士をしております」
鳶色の髪の紳士がそう言って手を差し出してきた。ブランシュは荒れた手が恥ずかしくてとっさに手を出せなかったけれど、向こうは手袋をしているからそんなことはどうでもよかったかもしれない。
長屋のどこかから漂ってくる豆を煮込んでいる匂いでさえ、ブランシュには恥ずかしく思えた。
ブランシュの無作法に苦笑し、それでもダルコスは優しい声音で続けた。
「こちらはセヴラン・シャルデニー様と申されまして、男爵家の御当主でございます」
セヴランは、フッと甘く微笑んだ。年若い魅力的な男爵様だ。
若い娘ならば憧れてしまうような、洗練された人。それが何故、こんな小さな町に、それもブランシュの前に現れたのだろう。
戸惑っているブランシュに、彼は言った。
「この先はとても大事な話になる。できれば人に聞かれないところで話したい。これは君の一生を左右する重要な事柄だ」
「わ、わたしは何も……」
「君は何も知らないはずだ。だから、その話を今からする。君の出自のことだ」
「っ……」
二年前、ブランシュが母を亡くした際。
その死の間際に、母はブランシュに謝った。ごめんなさい、と。
あなたのことを一番に考えてあげられなくてごめんなさい、と涙ながらに告げてから逝った。
ブランシュにはその意味がまるでわからなかった。母一人、子一人、なかなか住む土地に馴染めずに転居を繰り返したことを言うのだろうか。そんな程度しか思いつかなかった。
けれど、母の今際の際の言葉はブランシュの胸に重たいしこりとなって残っていた。
「そ、粗末な家ですが……」
お貴族様を招き入れるには汚い家だ。もてなすための良質な茶葉もない。
それでも、ブランシュは話が聞きたかった。一体何を語られるのだろうかと。
セヴランとダルコスは、目を合わせてうなずき合った。
「ありがとう、お邪魔するよ」
セヴランは、汚い家だとは言わなかった。
もちろん、そう思わなかったわけではないだろうが、気を遣ってくれたと思いたい。