16◆月
朝起きて、ノアは身支度を整えると厨房へ向かった。
そして、貯蔵庫から卵とベーコンを取り出す。どちらも焼くだけだ。こういうものは下手に手を加えるよりもシンプルな方が美味い。
二人分の朝食を用意してブランシュを待つ。
――しかし、彼女は食堂へは来なかった。
ほとんど昼に近いくらいになって、それでも来ない。
ノアはブランシュを待ちながら、すっかり冷めた朝食を前にテーブルに肘を突いてぼうっとしていた。
勝手に、挨拶もせずに出ていけばいいと言ったのは自分だ。
だから、こうして来ないのならば出ていったのだろう。何もおかしなことはない。
「もう、いないのか」
ポツリ、と唇から言葉が零れる。
それでいいと思う反面、本当にあの娘は大丈夫なのだろうかと考えてしまう。
あまりにも危うくて、ここから出ていっても無事にどこかで暮らしていける気がしない。
自分が心配しても仕方のないことなのかもしれないが。
偶然知り合って、ほんの少し時間を共に過ごしただけの他人だ。
何も気にする必要はないのに。
食事に手をつける気になれず、ブランシュがいた客間に向かう。
いないのだと信じていた。それが――。
ガチャ、と扉が開く音がした。廊下にいたノアとブランシュの目が合う。
「お、おは……」
ブランシュはみるみるうちに顔を真っ赤にした。
それというのも、多分服のせいだ。皺だらけの服を着ている。
こちらが驚いて無言で立ち尽くしていると、ブランシュは自分の体を抱きしめながら、とても必死に言い訳をした。
「き、昨日、服を洗ったんです。そしたら、なかなか乾かなくて。皺もひどくて。こんな服じゃ出ていけないし、でも他の服なんてないしっ」
その服は見るからに生乾きだ。思わずため息を漏らしてしまった。
「そんな服を着たら風邪をひくに決まっているだろう?」
「でも……」
部屋の扉に隠れようとするブランシュの手首を捕まえた。本当に湿っている。
「こっちに来てくれ」
細い手首を握り潰さないように気をつけて手を引く。ブランシュは黙ってついてきた。
一度消した食堂の暖炉に火を入れ直す。ここが一番あたたかい。
椅子を暖炉の前に置き、そこへ座らせた。
「あったかいです」
「君は世話が焼けるな」
正直に言ってしまったが、すみませんと返して首を竦めたブランシュはとても可愛らしく思えた。
どうしてこんな皺くちゃの服を着た娘にそう感じるのかもよくわからないけれど。
広がっていく暖炉の火を眺めていると、ブランシュがつぶやいた。
「わたし、要領が悪いってよく言われました。それから、人を頼るのも下手だって」
彼女のプラチナブロンドの髪が火に照らされてほんのりと暖色に染まる。
ノアは相槌も打たずに耳を傾けた。
「近所の人たちは私の母が亡くなってから、いつもわたしを気にかけてくれました。でも、わたしは甘えていい理由が見つけられなくて、ありがとうって答えるばかりで頼れなかったんです。何もできないくせに周囲に壁を作ってしまって、でもいつか、本当に信じられる人を見つけたら自分は変わるんだって思っていました」
自分のことを語りたがらなかったブランシュが急にそんなことを零す。
世話が焼けるなどと言ってしまったせいで傷つけたのだろうか。どうしよう、と内心では焦りつつも何も言えなかった。
そんなノアの心中をブランシュが知るわけもなく、うつむいている。
「馬鹿ですよね、わたし」
そんなことはない。
甘えられないのは、人を気遣いすぎるからだ。
昨日の彼女はノアが泣いていると勘違いして思い遣ってくれた。十分優しい娘だ。
ノアはぺたりと手の甲をブランシュの頬につけた。ブランシュは驚いて顔を上げる。
「泣いているのかと思って」
昨日の仕返しに、ブランシュは目を何度か瞬いてから笑った。
「わたしも人前で泣くような年齢じゃありませんから」
ブランシュの笑顔は綺麗だ。つられてこちらまで微笑んでしまうくらいには印象深い。
「最初に会った時、泣きながら寝ていたが」
「えっ?」
「あれは数に入れないでおこう」
「そ、そんなこと言ったら、ノア様だって寝ぼけて――」
この時、来訪者が鐘を甲高く鳴らした。
柔らかな空気が凍りつく。
ついにこの時がきたのかと。
「……君はここで待っていてくれ」
「はい」
ブランシュはうなずいたが、目には不安しかなかった。
玄関に向かいながら考える。
このまま帝都へ行かねばならないとしたら、ブランシュのことをどうしたらいいだろう。
今の自分にはそれだけが気がかりだった。
しかし、玄関の扉を開くと、眩い光の中に立っていたのは細身の影だけだった。
「ノア様、そろそろご不自由されておられるのではないかと思い、色々とご用意して参りました」
見慣れた姿。いつもよりも少し細い声。
「バルテス……っ」
老家令は、また追い返されるのを覚悟して、それでもやってきてくれたらしい。彼の顔を見た途端にほっとして縋りつきたくなった。
「戻ってきてくれて助かった。ありがとう」
頑固なノアがあっさりと折れたことに、バルテスが目を白黒させたのも無理はない。
バルテスが知らないうちに、自分には矜持よりも優先したいことができたのだ。
ブランシュを託せる人間を見つけた。
これで何も心配は要らない。心残りはなくなるのだ。
アミルカーレを喪い、ノアの世界の太陽が沈んだ。
けれど、ブランシュが来て、その闇夜に月が現れたような心持ちがした。
静かに闇を照らす月は、またそっと山裾へ消えるものだ。
心を慰めてくれる月との別れを受け入れよう。




