12◆穏やかな諦観
ブランシュがオートミールの粥をペロリと平らげた頃、ノアがまたやってきた。
椅子から立ち上がり、ブランシュは丁寧に頭を下げる。
「本当にありがとうございました。とても美味しかったです」
「それはよかった」
抑揚のない声が返る。
ブランシュは顔を上げると、ノアを見た。簡素な白いシャツを着ているだけなのに、その引き締まった体のせいかやはり一般人には見えなかった。
「わたしはブランシュと言います」
「そうか」
部屋の中がシンと静まり返る。会話が続かない。
ノアはブランシュの事情になど関心がないのかもしれない。思えばそれも当然だ。不法侵入の他人なのだから。
そう思ったら、ポツリと低い声が降った。
「その髪はどうした?」
言われてやっと、ブランシュは自分の髪が悲惨な状態になっていることを思い出した。慌てて短くなった髪に触れる。
「あっ、これは自分で切ったのですが」
「自分で? 誰かに切られたのかと思ったが」
「そうですよね。自分でこんなみっともない頭にすると思いませんよね」
「少し整えたらいい」
「腰に届くほど伸ばしていたので、前髪しか切ったことがなくて。そのうちに伸びて結べるようになれば大丈夫です」
正直なところ、髪型なんて些末事だ。これからどうするべきなのかが問題なのだから。
しかし、ノアはそう思わなかったらしい。
「……庭へ出よう。少しなら歩けるか?」
急にそんなことを言い出す。もちろん、ブランシュは断る立場にないので従った。
「は、はい」
立ち上がって並ぶと、本当に背が高い。ノアに続いて庭に出るたら庭園のベンチに座らされた。
そこでしばらく待たされた後、ノアは屋敷からテーブルクロスを持ってきた。なんだろうと思っていたら、それをブランシュに巻きつけるようにして被せる。
「えっ」
振り返ろうとしたら、ノアに頭を正面に戻された。
「危ないから動かないように」
「は、はい」
ノアは鋏をチャキチャキと動かし、ブランシュの髪を整え始めた。ブランシュの方が恐縮してしまうが、ノアは何も言わなかった。
そんなに長時間ではなかったので、本当に軽く整えただけのようだが、あの大きな手で器用なものだ。
「それほど上手いとは言わないが、何もしないよりはいいだろう」
「何から何まですみません」
サッと、髪を払いながらクロスを畳むノアに礼を言うと、ノアは表情らしきものを浮かべていなかった。
「別に構わない。今の俺にはすることがないから」
することがない。
そうだ、この人は屋敷で処罰が下るのを待っている。
ブランシュに構っている場合ではないはずなのだ。
それとも、まったく関係のないことをしていた方が気が紛れるのだろうか。
何も返せずにいると、ノアはつぶやいた。
「皇帝陛下がお隠れになったことは知っているか?」
「はい。お聞きしました」
「それで、陛下をお護りできなかった俺の処遇が連日話し合われていることは?」
「な、なんとなく」
正直に答えると、ノアがうなずいた気配がした。
「そういう事情だから、俺がこの屋敷にいるのはあと僅かだ。その間は好きにすればいいが、あまり長居すると厄介事に巻き込まれるだろう。そうならないように気をつけてくれ」
「あ、あの……」
「出ていく時も挨拶は要らない。犬は繋いでおくから」
「いえ、そうではなくて」
ノアは不思議そうにブランシュを見下ろした。けれど、不思議なのはブランシュの方だ。
「助けて頂いたのに、お礼のひとつもしないままなんて」
「そういうことは気にしなくていい。何も求めていない」
答えたノアの目に、果たしてブランシュは映っていただろうか。
――この人は深い悲しみの中にいる。
ブランシュはようやくそれに気づいた。
何も求めていない。何も。
無気力で、諦観が漂う。生きているのが苦痛だとばかりに。
「それでも、ノア様はわたしを助けてくださいました」
ブランシュが立ち上がっても、頭の天辺がノアの胸の辺りにしか満たない。首が痛くなるほど見上げたけれど、目は合わなかった。
「助けたなんて言うほどのことじゃない。むしろうちの犬が驚かせたくらいだ」
恩を着せたいから助けてくれたわけではないと。
けれど、セヴランやダルコスのような男たちと接した後のブランシュには、ノアの行いがとても尊いものに思われた。
あの二人よりも身分が高く、武力も備えている。そんな人なのに、自分の値打ちを誇示しない。
貴族の中にこんな人もいるのだと意外なほどだった。
「……お言葉に甘えてもう少しだけここにいさせて頂いても構いませんか?」
口にしてみたら、やはりノアは表情を変えずに答えた。
「ああ。いたいのなら構わない」
「ありがとうございます」
ここにいる短い間に、何か恩返しがしたいと思った。
今の自分にできることはなんだろうか。




