11◆屋敷の主
暗い。
ここは、どこだろう。
暗闇に浮かび上がる金髪。
今、一番見たくない顔――。
『お前は僕の妻だ。どこへ逃げてもその事実に変わりはない』
セヴランの手が伸び、ブランシュはハッとして後ろに逃げた。
そうしたら、何かにぶつかった。それはダルコスだった。
粘着質な声が耳朶を震わす。
『そうですよ。逃げても無駄です。婚姻は成立したのですからね』
「い、いや……っ」
あんなのはブランシュの意思ではない。
セヴランの妻になんてならない。
二人が追ってくる。
ブランシュは懸命に叫んだ。
「来ないで――!」
そうして、そこで目覚めた。
カーテンの隙間から漏れた朝陽が部屋に差し込んでくる。
夢だったのかとほっとしたのも束の間だった。
この部屋は、ブランシュの家ではない。こんな豪華な、貴族が暮らすような部屋に何故自分は寝かされているのか。
――いつの間にかセヴランに捕まって連れ戻されたというのだろうか。
だとしたら、もう終わりだ。もう抗う術がない。
ブランシュは絶望の中、ベッドから出て絨毯の上に足を下ろした。その時、自分の両足に包帯が巻かれていることに気づく。
メイドが手当てしてくれたのだろうか。セヴランがそんな指示をするとは思えないけれど。
昨日の夜のことを思い起こしてみる。
広い庭だったから、どこかの茂みに潜ませてもらおうと思ったのだが、戸締りが甘くても不安がなかった理由はすぐにわかった。
軽やかな足音がしたかと思うと、すぐそこに黒っぽい大きな犬がいたのだ。ここには番犬が放し飼いにされていた。不穏な相手をわざと誘い込むように鍵をかけていなかったのかもしれない。
こんなに大きくて獰猛な犬なら、ブランシュの喉笛など簡単に噛み切ってしまえる。
もう疲れ果てて、恐ろしくて、ブランシュは極限状態だった。身の安全を確保するつもりが、かえって危険の中に飛び込んだだけなのだ。
オルグ将軍は犬が仕留めた不審者をどうするだろう。そのまま犬の餌にしないだけの温情があると願いたかった。
「カロン、もういい!」
誰かの声がした。誰だろう。
そこでプツリと糸が切れたようにブランシュの意識が飛び、確かめることもできなかった。
そして、今に至る。
意味がわからなかった。
そうだ、オルグ将軍の屋敷の庭で気を失ったのだ。それならば、ここはオルグ将軍の屋敷なのだろうか。
よく見ると、セヴランの屋敷の部屋よりも立派かもしれない。
かといって、安心してもいいとは思えなかった。見つかる予定ではなかったのだ。
将軍は厳しい武人だと聞く。いきなり乱暴はされないとしても、事情を知られたらブランシュをセヴランのところへ送り返すかもしれない。将軍も貴族だから、貴族のセヴランの味方かも、と。
この時、部屋の扉が開いた。
ブランシュは驚いてベッドの縁から落ちて絨毯の上に転がってしまった。
「起きたのか? 起こすかと思ってノックをしなかったんだが、かえって驚かせたようで悪かった」
若い男性の声。番犬を制したあの声だ。
低く、落ち着いた響きがある。
ブランシュは絨毯の上で身を起こし、相手を見た。
立派な体格をした短い黒髪の男性だ。ブランシュが知るどんな人よりも大きい。
まさかとは思うけれど、この人がオルグ将軍その人なのだろうか。それにしては鋭さが足りない気がする。
目は切れ長だが、表情は穏やかだ。そして、その目にはブランシュを労わる優しさが見える。
「あ、あの、わたし……」
「無理に喋らなくてもいい。腹が減っているなら何か持ってくるが、食べられるか?」
「えっ、いえ、あの、あなたはオルグ将軍、ですか?」
戸惑いながら訊ねると、彼は苦笑した。
「まだ将軍と名乗っていいのかはわからないが、ノア・オルグだ」
本人だった。
どうしよう、とブランシュが固まっていると、彼は淡々と続けた。
「何か食べられないものはあるか?」
「いえ、特には……」
「わかった」
そうしてまた部屋から出ていった。
この状況を一体どうしたらいいのだろう。ブランシュはまさか本人に見つかってしまうとは思わず、こうなった時のことをまるで考えていなかった。とりあえずは謝るしかない。
そのまま絨毯の上で正座をして待つ。どれくらいか経つと、オルグ将軍が戻ってきた。
ブランシュが絨毯の上で縮こまっているのを意外そうに見遣った。
「そんなところでどうした? 足が痛くて動けないのか?」
違いますと答える前にブランシュは両手を突いて頭を下げた。
「勝手に敷地へ入り込んで申し訳ありませんでした!」
潰れた蛙さながらに姿勢を低くしていると、食器が擦れる音がした。
「何か事情があったんだろう。そんなことはいい。食事を持ってきた」
コトン、と机の上に置いた皿から湯気が上っている。ブランシュは目を瞬いた。
「将軍御自ら食事を運んでくださるなんて……」
それを言うと、オルグ将軍が顔をしかめた。機嫌を損ねてしまったのかとブランシュの心臓が縮んだ。
「使用人はすべて暇を出してしまったから、ここには俺しかいない。その将軍というのはやめてくれないか? ノアでいい」
「誰も、いないのですか?」
「ああ」
こんな別世界の人と普通に会話をしている。ブランシュにはとても信じがたいことだった。
そして、そんな相手から名前で呼べと言われたのだ。本当にいいのだろうかと思うが、今の複雑な事情を思えば〈将軍〉と呼ばれたくない気持ちもわからなくはない。
ふと、ここに誰もいないのなら、ブランシュの足の手当をしてくれたのはこの人なのかと考えた。もしかすると、ベッドまで運んでくれたのも。
なんてことをさせてしまったのだろうとブランシュが青ざめていると、ノアが軽く首を揺らした。
「あたたかいうちに食べるといい。後で皿を下げにくる」
「い、いえ、それくらい自分でします」
「いい。気にするな」
それだけ言うと、ノアはまた部屋を出ていった。
ブランシュは部屋でポツリ。呆然とするしかなかった。
こんな怪しい不法侵入者なのに、傷の手当てをして食事まで振舞われた。もしかして、この食事に何か入っているのだろうか。
恐る恐るテーブルに近づいてみると、見た目はなんの変哲もないオートミールの粥だった。
席に着き、ひと匙すくって口に運ぶ。思ったよりも甘い味つけがされていて、疲れた体に優しかった。これをあの大きな人が作ったのだろうか。
将軍という肩書も手伝って、想像していたよりも随分と若く感じた。それに、気さくというのではないが、威圧するようなこともなく自然だった。
――それにしても本当に、何も訊ねなかった。
ブランシュの名前さえも。




