10◆誰もいないはずの庭
「ノア様、どうかお願い致します」
目に涙を浮かべて懇願する家令のバルテスに向かって、ノアはかぶりを振った。
「駄目だ。お前まで付き合わせたくない。わかってくれ」
父の代からずっと仕えてくれているバルテスは、暇を出そうとするノアに思い直してくれと言うのだ。
けれど、これから責を負う自分にはもう何もしてやれない。最後まで仕えてもらいたいとは思えなかった。
他家へ紹介状も書いた。バルテスならどこへ行っても頼りにされるはずだ。
「ですが、身の回りのお世話をする者が誰もいないというのはさすがに――」
「軍で仕込まれたからな、ひと通りのことはできる。心配するな」
心配するななどとどの口が言うのだろう。
今の自分がどんなふうに見えるのか、自分でもよくわかっている。情けない、抜け殻だ。
「ノア様……」
他の使用人たちは従った。最古参のバルテスだけがどうしてもうんと言ってくれない。
「頼む。一人にしてくれ」
それが本音だ。
一人になりたい。
誰とも顔を合わせたくない。
こんな惨めな姿をさらしているのがつらい。
何も考えたくなかった。
バルテスは深々と頭を下げ、随分長く上げなかった。最後の別れとなるからだろう。
すまない、と心のうちで謝った。たくさん世話になったのに、大したことをしてやれない。
静かに去っていくバルテスを見送りながら、ノアは書類を書き始めた。
解雇した彼らに財産を分配したいという旨を認める。どれくらいの財産が残るのかは定かではないが、当座困らないようにはしたかった。
三年前に戦で負った古傷がもとで父が死去し、家督を継いだ。母はすでに亡く、兄妹もいない。身内に残す必要はないのだ。
どの程度の罰が与えられるのか今のところは定まっていないけれど、もしかすると死罪という可能性も皆無ではないような気がした。他の誰かにこれを言えば、まさかと言われるだろう。けれど、ノアは思うのだ。
アミルカーレがいない今、彼に染まりすぎているノアに使い道はなく、いてもらっては邪魔なくらいなのだと。
けれど、それでもいい。
アミルカーレを護れなかった自分にはなんの値打ちもなく、罪人として首を刎ねられるのが似つかわしいような気分になる。
――それでも生きろなんて、ひどい話だ。
そう思う。
太陽が消えた暗闇を這って、それでどう生きろと。
気づけば、書いていた書類にインクの染みができており、ノアはその書類をぐしゃぐしゃに丸めて頭を抱えた。
何もしたくなくて、ノアは庭へ出た。これまでは庭師が手入れをしてくれていたから、まだ綺麗なものだ。
とはいっても、父もノア自身も作り物めいた庭は好きではなかった。そんな主たちの意向を酌み取った、野趣に富んだ庭。
ゆっくりと歩いて亭の下で休む。
誰もいない。静かな庭園だ。
この静けさを望んだはずが、少しも心は癒えなかった。
それくらいぼうっと過ごしていたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、こんなにも何もしないで無為に時間を過ごしたことなどこれまでになかった気がする。いつも忙しく気を張り詰めていた。アミルカーレのそばで充実した日々を過ごしていたのだ。
――気づけばもう日が沈みかけている。
いい加減に部屋に戻ろう、とノアは立ち上がって歩き出した。
この屋敷に人はいないけれど、犬がいる。愛馬は逃亡の意思がないことを示すために軍の宿舎に置いてきた。
犬――カロンは闘犬の血統だ。黒と茶色の引き締まった筋肉を持つ犬種で、賢く強靭なのだが、それ故に主人を挿げ替えることができない。ノアにしか従わないのだ。そんなところが飼い主に似ていると、以前アミルカーレにも言われた。
カロンはノアの大切な人を見分け、そうした人間には敬意を払い、決して襲わない。
ただし、侵入者は別だ。無断で屋敷に入り込もう者なら、腕の一本も食いちぎられても不思議ではない。頼もしい番犬だ。
ノアは自分の食事など用意したくもなかったが、カロンには何か食べさせてやらなくてはと思った。
カロンには引き取り手がないだろうから、可哀想なことをしてしまう。バルテスに託したところで多分、環境が変わった途端に何かを感じて餌を食べなくなるだろう。賢すぎるのがかえって悲しい。
薄闇の中をのっそりと歩く。カンテラの灯りが必要なほどの暗さではなかった。
と、この時、カロンの唸り声が聞こえた。カロンは今、放してあったかもしれない。
誰かがこの敷地へ侵入したらしい。
ノアが蟄居しているという情報は公にされている。アミルカーレを崇める国民が処罰を待てず、ノアに鉄槌を下しに来たのだろうか。だとしても、正式な処罰を受ける前に死ぬわけには行かず、私刑にまでは付き合えない。
返り討ちにするのはそう難しいことではないが、アミルカーレを慕う民を傷つけたくはなかった。
カロンをけしかけ、脅して帰らせよう。
そう考えたノアだったが、カロンが威嚇していた不審者は――年若い娘だった。
怯えすぎて声も上げられないようで、腰が砕けたのか座り込み、今にも卒倒しそうに見えた。肌の色は紙のように白く、不揃いな短い髪もまた淡くほとんど色づいていない。年頃の娘があんな髪型でいるのには何かわけがありそうだった。
そういう目で見てみると、その娘はどこかおかしかった。カロンのせいばかりではなく、疲れ果てている。
「カロン、もういい!」
ノアが命じると、カロンは唸るのをやめてノアの足元へ駆けてきた。
この時、その娘は目を見開き、ノアの方を見たかと思うと、フッと意識を失った。
ノアは困惑しつつも近づいて娘の肩を軽く揺らした。
「おい、大丈夫か?」
しかし、娘は返事をしなかった。
「……困ったな」
このままここに放っておくと風邪をひくだろう。
何故こんなところにいるのかは知らないが、服装からして普通の町娘のようだった。
ただ、気を失ったその娘は、意識がないのに涙を流していた。カロンのことが余程怖かったのだろうと考えたが、髪は乱暴に切られたように見えた。それに、頬にも殴られたらしき鬱血した跡があった。
誰かから逃げてきたかのような印象を受ける。
もしそうだとしたら、どんなにか恐ろしかったことだろう。
ノアはその娘を抱え上げ、屋敷へと入れた。カロンの半分くらいの目方しかない娘だ。なんの脅威でもない。冷えきった体だった。
皮肉なことに部屋は有り余っている。客間のひとつに娘を寝かせた。
ベッドで靴を脱がせようとしたら、ひどい靴擦れで血が出て靴の内側に皮膚が張りついていた。こんなになるまで歩いたのは、やはり事情があるのだろう。
若い娘にあまり触れるのもよくないが、他に人がいないのだからどうしようもない。ノアは盥に水を汲んできて足の傷を拭き、薬を塗って包帯を巻いてあげた。仕事柄、傷の手当は慣れている。
そして、次から次へと流れて乾く間のない涙を拭いた。けれど、それには終わりがなかった。
ひとまずカロンに餌をやり、そしてこの娘が起きた時に食べられるものをとオートミールで粥を作るのだった。
これから処遇が決まるまで独りで過ごす。
――こんなはずではなかったのに。
カロンはマスティフのイメージです。
マッチョな犬です。




