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亡き皇帝のためのパヴァーヌ  作者: 五十鈴 りく
第1部✤亡き皇帝のためのパヴァーヌ✤
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1◆皇帝と将軍

 周囲を一望できる崖の上。押し寄せる波が岩壁を叩く。

 海鳥が悠々と空を飛び交い、ここが戦地で今が緊迫した状況であることを忘れてしまいそうな陽気だった。


 明け方に総攻撃を仕掛けてきた敵兵を退け、疲労を感じつつもこの時にノアは満足していた。

 それというのも、傍らに敬愛する主君がいるからである。

 このモルガド帝国皇帝、アミルカーレ・ド・スキュデリーその人だ。

 けれど――。


「――立太子の後、私には心許せる人間がほとんどいないのだと知った」


 金色の髪を風になびかせながら、アミルカーレは急にそんなことをつぶやいた。

 癖のない、短く切りそろえた髪は絹糸を縒り合わせて作ったような光沢があり、くすむ気配もない。


 在位五年、御年二十五歳の皇帝は、歴代皇帝の中で最も美しいと称されている。しかし、一見細身の優美な姿からは想像もできないような苛烈な面も持つ。

 少なくとも、将軍であり幼馴染でもあるノア・オルグはそれを知っていた。


 アミルカーレは皇帝にして、帝国最高峰の魔術師でもある。敵の軍勢を退けたのは、この皇帝の圧倒的な魔術の力によるところが大きい。陸地に波を起こし、敵兵を押し流した。


 ただしその波は幻であり、味方が呑まれることはなく、それどころか敵兵以外は草木の一本さえなぎ倒さなかった。

 そんな、直接目にしなければ信じがたいようなことをやってのける。


 例えば、優秀な魔術師であっても、精々がアミルカーレの半分にも満たないような力量なのだという。この圧倒的な力を持つ皇帝が出陣するのだから、自軍の兵たちの士気は高かった。アミルカーレは旗印に収まらない。

 ノアは帝国軍を預かる将軍として、楽な仕事をさせてもらっているような気がしてしまうくらいだ。


「なあ、ノア」


 アミルカーレは自らが治める雄大な風光からノアに視線を移した。

 青い目がまっすぐ、射貫くように向けられる。海のように青く、それでいて波のようには揺らがない。


「お前のことは信じている。お前が敵だと疑ったことは一度もない」


 そう言って、いつになく柔らかく笑った。

 男にしておくには惜しいほどの美貌を持つアミルカーレとは対照的に、ノアは長身で逞しい体格をしている。

 針金のように硬い黒髪、乏しい表情、冗談の通じない性格。それらは戦地において常に皇帝と行動を共にする将軍に相応しいものではあったかもしれない。


「ありがたいお言葉です。俺の忠誠は陛下に捧げましたから」


 侯爵家嫡男であるノアは、アミルカーレの学友として子供の頃からそばに控えていた。だから気心も知れていて、多少は砕けた関係ではあるのだ。

 アミルカーレは二人でいる時くらいはもっと気楽にすればいいと言ってくれるが、これでも気安いくらいだとノアは思っている。

 アミルカーレのそばはいつでも心地よかった。


「忠誠を誓いながら後ろで舌を出しているような連中ばかりだと言っているのだ。その点、お前は違う。お前は融通が利かないから、きっと二君に仕えることはないのだろうな」

「そうですね。俺が陛下よりも長生きすることはないでしょうから」


 当然のように、ノアはそう述べた。

 アミルカーレを護るために幼少期から武術を学び、日々精進してきた。この命はアミルカーレのために使うことになるのだから、生涯別の主など持つことはない。


 しかし、アミルカーレはこの言葉を喜ばなかった。


「それは駄目だ」

「えっ?」

「私が死んでも、お前は生きろ」


 何故、そんな不吉なことを言うのだ。

 今朝方、力を使いすぎたせいだろうか。再び正面を向いた彼の背中がどこか儚い。


 魔術師というのは無尽蔵に魔術を使えるのではなく、体力と同じように疲弊するものなのだという。疲れたとは言わない皇帝だが、相当に疲労が溜まっているのは間違いなかった。


「護るべき御方がおられないのに、生きてどうしろと仰るのでしょう?」


 ノアは微苦笑した。それでも、胸騒ぎが収まらない。

 うるさい海鳥のせいだろうか。あの声はどこか哀切で心を掻き乱す。


「嫁をもらえばいい」


 再び振り返った時、アミルカーレは笑っていた。その表情にほっとする。

 いつもの笑顔だ。何も心配は要らない。


「……さあ、もう陣営に戻りましょう。陛下がおられないと騒ぎになります」


 気晴らしに出たいとアミルカーレが言うから、ノアは渋々この崖までついてきたのだ。本来ならばこんなところにたった二人で来るべきではない。


 モルガド帝国は、大陸屈指の大国である。しかし、西と東と、南の諸島と、関係が良好とは言えない国々がある。隙あらばと国土を踏み荒らされることも多々あり、気の抜けない日々がひたすらに続いている。


 これでもアミルカーレの代になって随分抑えられるようになったのだ。先々代の頃には東のエスピナス領を奪われたこともあるが、それもアミルカーレが奪還したのだ。その時からアミルカーレは英雄だった。


「戻ったら、()()が食べたい」

「アレですか? ……畏まりました」


 クスクスとアミルカーレが声を立てて笑っている。まるで悪戯っ子のようだった。

 ――けれど、その時。


 海鳥の声が止んだ。


 青い空に太陽は輝いているのに、海鳥の姿はなかった。

 鳥たちは何を察知し、飛び去ったのだろう。


 ノアはアミルカーレを背に庇い、腰に佩いた剣の柄に手をやった。ヒリヒリと、風が緊張を伝う。

 目に飛び込んできたのは、影だった。黒い、暗い、影――。


「皇帝陛下、お命頂戴仕ります」


 不気味な黒いローブの集団が崖に迫りくる。その数、三十ほどだろうか。急に湧いて出たように感じた。足音も気配もなかった。

 しかし、目視できた頃にはもう退路は絶たれていた。


「……おぬしたち、オルトリ王国の者ではないな?」


 交戦中のオルトリ王国にも魔術師はいるが、アミルカーレは違うと感じたらしい。しかし、それならばこの集団はなんなのだ。


 ノアは心臓が緊張で張り裂けそうに痛むのを感じていた。

 この数の魔術師を相手にしたことなどない。剣一本でどこまで戦えるだろう。


 今のアミルカーレにどれほどの余力があるのかはわからないが、多分、そんなには残っていない。

 魔術師たちの手元で、パチ、パチ、と魔力の光が爆ぜている。


 ノアの額から汗が流れた。


「命に代えてもお護り致します」


 剣を引き抜こうとした時、ノアの手をアミルカーレの手が抑え込んだ。ハッとして見向くと、アミルカーレはかぶりを振った。


「だから、そういうのは要らないと言ったところだろう? お前は生きろ。()()()()()()、絶対に。それが私のためだと思え」


 そんな長話を許してくれるつもりは、魔術師たちにはなかったらしい。

 魔術を発動するための詠唱が聞こえてくる。


「ノア、下がるぞ」


 崖の上、もう後がないのにアミルカーレは後退することを選んだ。

 そして、門外漢のノアにはわからない術を唱え始めた。その様子はとても落ち着いて見える。

 彼にはまだ策があるのだ。ノアはただ主君を信じる。


 そして、本当にアミルカーレの魔力が尽きた時こそノアの出番だ。一人でも多くの敵を倒してやろう。

 アミルカーレの詠唱が終わった時、彼の整った指はノアの腕をつかみ、崖の上から共に紺碧の海へと身を投じた。


 二人は海へ身を投げたが、ノアはなんの痛みも息苦しさも感じなかった。ただ護られていると思えた。護るつもりが護られている。不甲斐ない。


 ここを切り抜けたらしっかりと礼を言って、それから二度と戦時中にこっそりと抜け出さないように注意して――そして、アレを一緒に食べよう。




 しかし、浜に打ち上げられたノアが意識を取り戻した時、傍らに主君の姿はなかった。

 服も髪もまったく濡れておらず、明らかに魔術によって運ばれたのだ。目覚めた浜辺も自軍の陣営のすぐそばだった。


 事情が呑み込めないノアは浜辺をうろついてアミルカーレを探し、それでも見つけられずに陣営へ戻った。


「ああ! オルグ将軍! どちらにおいででした? 陛下のお姿が見当たらないのですが、何かご存じありませんか?」


 それを聞いて青ざめるばかりだった。


「まさか……」


 アミルカーレの力は本当に底を突きかけていて、海への落下から二人を護ることができなかったのだとしたら。

 最後の力を振り絞り、ノアを助けた。自分ではなく、ノアのことを。


 その結果、自分はこの海へと沈んだというのか。

 どうして――と声にならなかった。


 稀代の魔術師であるアミルカーレは、この未来を予知していたのだろうか。

 だから、あんなにも執拗に生きろと言ったのか。

 自分がいなくとも、生きろと。


 けれど、アミルカーレは太陽だ。

 太陽が沈み、二度と天に昇らない。


 そんな暗闇の世界を生きていけと。


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