最期の一杯をあなたと
ーーカランカラン。とドアベルの鳴る音が室内に響いて店主の男は振り返った。
ーーいらっしゃい。
ハスキーボイスで短くそう言うと視線を移し作業に戻った。
私は中の席に座り、メニュー表を手に取った。しかし、舐めるように見ても私の求めていたものはそこには書かれていなかった。
「……あの、すみません」
私は控えめな声で店主の男を呼ぶ。私と彼しかいない空間に声が響いた。
彼はすぐに来てご注文は何でしょうかと言ってきた。私は少しの間を置いて口を開いて聞いてみた。
「ーーここに、『最期の一杯』を出してくれる、と聞いたんですが……」
店主はそれを聞いて少し考える素振りを見せて
ーー分かりました。少々お待ちください。
とだけ言って、カウンターに戻っていった。
しばらくして出されたのは湯気がほのかに立ち昇る緑茶二つと茶受けであろうクッキーだった。
そして私の元に一枚のカードのようなものを置いてきた。
ーーキミの最も会いたい人は誰だい?
そう告げて再びカウンターの方へ帰っていく。机に置かれたカードには『最期の一杯をあなたと さんに提供します。』とだけ書かれていた。
「ーーーーアカリちゃん?」
ご高齢の声で私の名を呼ばれた時、総毛立った。顔をあげるとそこにはご年配の女性が座ってこちらを見ていた。
「お、ばぁちゃん……」
あまりの突然のことに頭が真っ白になった。何故おばあちゃんがここにいるのか?
私が困惑しているとおばあちゃんがもごもごと言いづらそうに口を開く。
「ーー大丈夫かい? あまり元気が無いように見えるけど……ちゃんとご飯は食べてるかい?」
心配そうにこちらを見ながら、気遣うように聞いてくる……あぁ、昔と変わらない声、いつだって私のことを心配してくれてたあの声色。
気付けば私は声もなく大粒の涙を流していた。それでさらにおばあちゃんを心配させていまうがとめどなく涙は流れ続けた。
「ご、め゛んね゛ぇおばぁち゛ゃん……わだしがあ゛の時、ひどいごど、いわ゛なげれ゛ばぁ……っく、話もぎがず、出てい゛っち゛ゃった゛がらぁっ」
私の自責の独白をおばあちゃんは黙って聞いていた。しばらくしておばあちゃんは私の手を自分の両手で包み込むように握った。
「私はアカリちゃんのことを責めるつもりは無いよ。アカリちゃんの人生さ、それは自分自身で決めるもんさ。私が口を出すことはないからね」
「ーーだから、私が亡くなったことを覚えていてもいい、でもねアカリちゃん、そのことに囚われていてもダメなんだよ?」
おばあちゃんは私が家を飛び出したその一週間後に亡くなった。心筋梗塞だった。
私の両親は共働きで丁度両親がいない時間帯に発作がきて、なんとか救急に電話したけど助からなかったらしい。
私が飛び出した理由は簡単でしょうもない理由だ。当時付き合っていた彼とのデキ婚。両親は当然反対した。当たり前だ、19歳でのデキ婚なんて。
あの時の私は正気ではなかったんだろう、両親にも相当ひどいことを言った記憶がある、おばあちゃんにも話したけど私が求めていた理解を得られなくて最低な言葉を浴びせて家を飛び出したんだ。
「人生山あり谷ありっていうだろう? 嫌なこともあれば良いこともある。嫌なことは必ず経験はするもんさ。大事だのはそれじゃなく、後悔のない人生をおくれるかってことさ」
そう言っておばあちゃんは私の手を強く握った。シワやシミの浮かんだ手のひら、ガサガサだが、温かく心地よく感じた。
「アカリちゃんは今のままで良いのかい? 親から逃げて。その彼からも現実から目を背けているんじゃないかい? 孫からも」
おばあちゃんは私の髪を軽くあげた。そこにはうっすらと青あざがあり、それを見たおばあちゃんは顔を顰めた。
「…………もう、わかんないよおばあちゃん」
「いいかいアカリ」
おばあちゃんはいつになく真剣な声色で言った。
「あくまで決めるのはお前さん自身さ、いいかいアカリ」
まっすぐに私を見ておばあちゃんは告げる。
「親に甘えられる期間は過ぎたんだ。これからはあんた自身が親なんだよ、分かるかい? これからは自分で道を切り開いていかなきゃならない。私たち親にできることはその幸せを願うこととその道をちょっとだけ支えてあげることしかできないのさいつまでも甘えるのはやめなさい」
「でも、私……」
「大丈夫さーーなんたってあんたは私たちの子なんだだから」
おばあちゃんは優しくあやすように告げる。
「アカリちゃんのことは私が見てるさぁ。しゃきっとしなあ、アカリちゃんはもう親なんだろう? なら、その子も自分もを幸せになりな、それが私も親たちも思っていることさ」
ーー最期の一杯、話せましたか?
それから私は泣きながらもとめどない話をした。不思議と心のわだかまりはなくなり、どこかスッキリとした気持ちになっていた。
ーーはい。
私は迷いなく答えた。
ーーーーそれは良かった。
店主はにっこりと笑みを浮かべて答えた。
お代はすでにいただきました。またのご来店を。
机には伝票と丁度のお金が置かれていた。私はそれを見てまた込み上げるものを感じながらもそれを呑み下し、店を出た。
「ーーまたきます。絶対」
今度はちゃんと来よう。あの子とも。その前に両親のもとに行こう。しばらくは行けなくなるだろうが、絶対に。
店を後にした私。しかし気持ちはとても晴れやかだった。
こじんまりとした喫茶店。そこには知る人だけ知るあることがある。
ーー本当に話したい相手との最期の一杯を過ごすことができるのだ。