自己否定タイプをよく理解できない人の為の映画『聲の形』評
ネタバレ有…… と言うか、既に観ている前提で書いています。
臨床心理分野の知識です。
時折、「自分は駄目なんだ」と訴える人達がいます。そんな人達を慰めようと思ったなら、つい「そんな事はないよ」と言ってしまいたくなりますが、実はその人が本当に心から“自分は駄目”と思っている場合、その言葉は逆効果になってしまう事があるそうです。
自分の認識と、他者の言葉が違うと混乱してしまうというのですね。むしろ、それに同調した上で、どう克服すれば良いのか相談にのってあげる方が良いのかもしれません。
いえ、まぁ、様々なタイプの人がいますから、必ずしもそうとは言い切れないと思いますがね。
そこは柔軟に対応をするべきでしょう。
さて。
ここから先はあなたの想像の世界の話です。
あなたの想像力が豊かならば、リアリティを感じられるはずです。
もし仮に、そんな“自分は駄目”と思っている自己否定タイプの人が、いじめを受けていたならその人はどう感じると思いますか?
“いじめを受けているのは、自分に問題があるからだ”
と、そう思ってしまうのではないでしょうか?
更に想像をしてみてください。
もし仮に、そんな人の所に、かつて自分をいじめていた人が謝りに来て“くれた”なら、どう感じるでしょう?
繰り返しますが、その人はいじめられていたのは“自分が悪いからだ”と思っているんです。しかも、その人は聴覚に障害があるのですが、そのいじめっ子はその人と会話する為に手話まで覚えてくれていた……
その人が“喜び”を感じるのは自然だとは思えませんかね?
はい。
これは映画『聲の形』のワンシーンです。
映画の最初の方で、主人公の少年が、自分がかつていじめていた聴覚障害のある女の子に謝りに行くんです。
いえ、正確には、その時主人公は、謝ってはいないのですがね。
僕はこの映画をレンタルDVDで借りたのですが、正直、この手の話は苦手という事もあって、それほど期待していなかったのです。
いかにも同情を誘うような可哀想なエピソードをたくさん付けた「お涙頂戴」系の映画だろうと思っていたのですね。
ところが、観てみて、その偏見がぶっ飛びました。まぁ、普通に10回くらいは泣いたので予想通りでもあったのですが、ディスコミュニケーションをテーマとしている映画…… 物語という意味で、非常に価値があるとも判断しました。
僕は“たくさんの人が観た・売れた”という事実は、その作品の価値とは関係がないと考えています(いえ、ビジネス的な価値はありますけどね)。
仮に1億人が観たとしても、世の中に全く良い影響を与えていなかったのなら、その作品の価値は0でしょう。
逆に観たのがたった100人でも、世の中に良い影響を与えられたのなら、その作品には確実に価値があります。
この映画『聲の形』は、それが分かる典型的な作品だと思ったんです。多くの人が観る価値がある、と。
社会人になってから、僕は時間があまりなくなってしまって、同じ映画を二回観る事はほとんどなくなっていたのですが、この映画は、NHKでやっていたのを偶然見つけ、録画してもう一度観ました。その時もやっぱり泣いてしまって、いつもは録画した映画は観るとさっさと消しているのですが、この映画は消せませんでした。
その後、つい最近、金曜ロードショーでこの映画が放送されると知りました。それは流石に観なかったのですが(だって、録画してあるし)、世の中の反応が気になって検索をかけてみたのです。
それで、賛否両論あると知りました。
どうも、この映画が公開された当初から、様々に議論されていたみたいですね。
しかも、人によっては激しく攻撃しているのだとか。僕は意外に思うのと同時に興味を覚えました。
「へぇ 自分では見つけられなかった問題点が、何かこの作品にはあるのかもしれないな」
それでその否定派の主張をいくつか読んでみたのです。そして「あ、なるほど。この人達は自己否定タイプの人間をうまく理解できていないんだな」と判断しました。
精神分析をする際には、精神分析をする者の心理をまず分析しなくてはならないと言ったのは心理学者のユングですが、これは作品を評する人達にも当てはまるのではないでしょうか? その人がどんなタイプかで、評価や評論はまったく変わってしまいます。
批判している人達は、この映画を“障害を持った聖母のようなヒロインが、問題のある主人公を救う物語”と評価していたみたいです。つまり“マイノリティを不自然に美化し、意図的に感動を誘っている偽善的な映画だ”、という訳です。
その僕が読んだ代表的な批判の内の一つに、“ヒロインが優し過ぎて非現実的”というものがありました。なんで、いじめを行っていた主人公の少年をあんなにあっさりと許せるんだよ?と。
ですが、その感想はその時点で既にヒロインの人物像を勘違いしています。
許すも何も、そもそもこの映画のヒロインは、自己否定タイプの人間で“いじめられいたのは自分が悪かったから”と思い込んでいるんです。
だから、主人公の少年が謝りに来てくれた事に、喜びを覚える……
――はい。
それがこの映画評の冒頭の説明になります。
ヒロインが、いじめられているのは自分が悪いと考えている事は、何をされても「ごめんなさい」と謝る行動から明らかです。また、この映画の主人公は、ヒロインへのいじめが発覚した時、クラスメートを巻き込もうとした事でいじめの対象になってしまうのですが、それもヒロインは自分が悪いと考え、なんとか償おうとします。
自己否定タイプの人間が、その当時はまだ理解できなかっただろう主人公は、その行動の意味を理解できずに、拒絶してしまうのですがね(彼女の聴覚障害は、その原因の本質ではないでしょう。仮に彼女に聴覚障害がなくても、問題は起こっていたはずです)。
一応断っておきますが、ここまでの過度な自己否定は、決して好ましい特性ではありません。社会生活を送る上で、支障になります。つまり、問題点です。
“自己否定”という特性を、自分の心にあると自覚できる人は、言語化はできなくても、この映画がそれを描いているのだと捉えられるでしょうが、自覚できない人は、何を意味しているのか理解できず、不快感を覚えるかもしれません。
僕は小説を書く人間ですが、僕が小説でこんな話を書くのなら、その説明をそのまま書いてしまいます(いえ、ある人気作家のファンチャットに出入りしていた頃、「伝わらないもんだなぁ」って実感した事がありまして)。しかし、映像という手段の場合は難しいでしょう。
ただ、ヒロインがこのような問題点を抱えている事は、映画の中で何回も登場人物の言動で示されてもいます。
その中で最も重要なのが、ヒロインをいじめていた植野という女の子の言動でしょう。
もしかしたら、この映画をシンプルに捉えている人達は、この女の子を単なる敵役だと勘違いしているかもしれませんが、彼女はヒロインの問題点を的確に指摘するという役割をこの映画内で担っています。
いえ、それどころか、ヒロインが“自己否定を克服する”ことを手伝ってすらいます。
映画のラストの方で、ヒロインは主人公の人間関係が壊れてしまった事を、やはり“自分が悪い”と思い込み、究極の自己否定である“自殺”で解決しようとします。それを主人公によって助けられ、その代わりに主人公が重傷を負ってしまうのですが、その時に植野という女の子は、その“勘違い”を糾弾するんです。
そこでヒロインは“自己否定を否定”されるのですね。
「自己陶酔しているんじゃない。お前の問題を克服しろ」と。
自分の所為で、主人公に重傷を負わせてしまったヒロインは、深く傷つき思い悩みますが、もう自殺をしようとはしません。そして、そんな状態のところに、意識が戻った主人公がかけつけ来て「君に生きるのを手伝ってほしい」と告げるんです。それで恐らくは、(完全と言えるかどうかは分かりませんが)彼女はその自己否定を克服するんです。
つまり、この映画は“障害を持った聖母のようなヒロインが、問題のある主人公を救う物語”ではないという事です。
ヒロイン“も”、自己否定してしまう自分を克服しようとしているんですね。そして、主人公がそれを手伝ってもいるんです。
因みにその後ヒロインは、壊れてしまった主人公の人間関係を修復しようと行動して、見事それに成功し、植野という女の子との関係も改善します。つまりは、ハッピーエンドです。
もちろん、自己否定という問題を克服したからでしょう(いえ、克服したのは、自己否定だけじゃないですがね)。
主人公とヒロインがどんな問題点を抱えていて、それを克服する過程として様々なイベントが用意されていると考えると、この映画のラストの方のストーリーの流れはとても分かり易いのですが、この映画の批判の中には「後半のストーリーが意味不明」というものがありました。
低く評価するのは別に構わないと思います。でも、意味はとても分かり易いと思うのですが。
これは予想に過ぎませんが、その批判をした人は、自己否定の心理が理解できなかった所為で、主人公とヒロインの心の動きがまったく追えていなかったのではないでしょうか?
だから、ストーリーの意味が分からなかった。心理劇で、作中人物の心理を理解できなかったら、評価が低くなって当然ですよね。
ここからはまたあなたの想像の世界のお話です。
もし仮に、この批判をした人の目の前に、この映画のヒロインのような自己否定タイプの人間が現実に現れたなら、この人はその人をどう捉えるのでしょう?
もしかしたら、理解できずに、エイリアンのように思ってしまうのではないでしょうか?
……実は、そのような心理もこの映画の中では扱われています。
先に一度挙げましたが、小学生時代の主人公がいじめられるようになった後、ヒロインが罪悪感を覚えていることを理解できず、つまり、自己否定タイプである事を理解できず、彼女の償いを拒絶してしまうのですね。
この映画のメインテーマは、ディスコミュニケーションです。
聴覚障害でも、いじめでもなく。
そのディスコミュニケーションは、主に、自己否定タイプの人と、それを理解できない人との間に生じているのではないでしょうか?
ヒロインの小学生時代、唯一人だけ、手話を覚えて彼女に歩み寄ろうとした佐原という女の子がいるのですが、彼女にはコンプレックスを抱えているという描写があります。
つまり、ヒロインの自己否定の心理を理解できる立場にいるのですね。
この映画評を書くにあたって、僕は原作の漫画の方も読んでみました(レンタルブックサービスのお店が近くにあるんですが、置いてあってラッキーでした)。
原作では、様々なテーマを扱っているように思えますが、映画ではテーマを絞っているように感じました。
(違いの理由を色々と考察してみると、映画版では何を狙ったのか予想ができて面白いかもしれません)
恐らくは、映画版では自己否定タイプの人と、それを理解できない人との間にある問題を特に強調して扱おうとしているのではないでしょうか?
いえ、これは、まぁ、想像ですけどね。
この映画を、自己否定の心理を自覚できる人は、例え登場人物の心理を言語化できなくても、何かしら役立たせる事ができるのじゃないかと思います(いえ、色々な人がいるので分かりませんが)。この映画だけでは無理かもしれませんが、少なくとも自分の問題を克服する切っ掛けや助けにはなってくれるでしょう。
ですが、批判の内容を読む限り、自己否定の心理を自覚できない人には、それは難しいのかもしれません。
これは、単なる願望ですが、もし、自己否定タイプを理解できない人が、この映画の主人公とヒロインの心理を、――例え理屈中心であったとしても、追いながら観る事ができたなら、自己否定タイプの人とコミュニケーションを執る上で何かしら役に立ってくれる、と僕はそう思いたいのです。
いえ、少しでも自己否定の心理を知る事は、コミュニケーションは関係なく、その人にとって役に立ってくれるとも思いたい。
先にも述べましたが、僕は作品の価値は“世の中に良い影響を与える事”にこそあると考えています。
ならば、評論の類の役割は、世の中に広めれば良い影響を与えるだろう作品を高く評価して、より広める事がまずは一つ。そしてもう一つは、その作品の“使い方”を分かり易く示して、その作品の“良い影響を与える効果”を高める事だと思うのです。
評論なんて、僕は書かないだろうと思っていたのですが、この作品の存在と世間の反応を知ってしまったなら、書かない訳にはいきませんでした。
僕が小説やエッセイを書くのは、世の中に少しでも良い影響を与えたいからですしね。
もし、あなたが自己否定の心理を理解できない人で、そしてもしこの映画を観ていて、その価値を低く評価していたなら、もう一度くらいは、自己否定タイプの心理を想像しながら、この映画を観てみませんか?
いえ、もちろん、暇だったら、ですがね。