可愛い上司の落とし方
【登場人物】
折原由乃:新卒の社会人。あまり仕事は出来ないが性格は明るく親しみやすい。
真砂沙江子:三十ウン歳。仕事が出来て、みんなからの信頼も厚い課長。恋愛をしたことがない。
眠りから覚める瞬間というのはいつも無情だ。
自分の意思とは無関係に目蓋が開き、どこかで鳴いている鳥の声を聞きながらぼぅっと常夜灯のついた天井を見つめる。思考の鈍った頭に浮かぶのは『あぁ今日も仕事か』という暗澹な感情か、もしくは『今日休みだっけ。溜まった家事やらなきゃ』という億劫な感情。どちらにせよ好ましくはない。
(えっと今日は何曜だったっけ)
記憶を辿ろうとしたが頭の中に靄がかかり思い出せない。
(スマホスマホ)
枕元の定位置にあるスマホに手を伸ばす。しかしいくら探っても私の手はシーツの上を滑るだけ。
(あれ? ない?)
そうして体を起こそうとしたときやっと気付いた。
(ここ、私の部屋じゃない)
本棚に並んでいる本の種類も、テレビの位置も、テーブルの形も、カーテンの模様も、部屋の広さも、何もかも違う。
次第に思考がクリアになってくるにつれて昨夜の出来事が思い出されてきた。
(あぁそうだ、私――)
頭をころんと回してすぐ隣を見た。そこには、私の上司の真砂課長が一糸纏わぬ姿で私と同じ布団に入って寝ていた。
今年入社した私の仕事ぶりは、自分で見ても褒められたものではない。
私なりに効率のいいやり方を考えて作業しているのだけど結局それが時間のロスになっていたり、並列して進めようとしてもうまくいかずに順番が滅茶苦茶になってしまったりする。
真砂課長はそんな私にとってお手本だった。
仕事が手際良いのはもちろん、指示が明瞭で声も張りがあって聞き取りやすく、誰に対しても平等に厳しく接し、かといってそれが不条理な厳しさではなく仕事に対する真摯さから来ているもので、こちらが追いつかない部分に関してはヘルプを出す前に手伝ってくれてそれで叱るようなこともない。おまけにフレームレスのメガネとパンツスーツがめちゃめちゃクールで格好良い。これで憧れるなという方が無理だ。こっそりメガネ屋で似たデザインの伊達メガメを作ろうか悩んだこともある。さすがに変に思われるので止めにしたけど。
真砂課長とプライベートでの付き合いはまったく無かった。お昼休みは一人で外に食べに行ってしまうし、終業後はそのまますぐに帰宅するのでなかなか話すタイミングがない。
そもそも真砂課長と仕事外でも仲が良い人を見たことがないので、なんとなくだけど他人とわざと距離を取っているんじゃないかと思う。公私は分けて接したいという考えなのかもしれない。
金曜日。仕事の終わった同僚たちが入り口の方へ集まっている。誰も彼もが笑顔を浮かべて楽しそうだ。うちの会社は二週に一度飲み会があり、今日がその日だった。私も入社してから毎回参加していたのだけど、元よりお酒に強くないのとタバコの匂いが苦手なので正直行きたくないのが本音だ。強制参加ではないけどまだ新人なので面と向かっては断りづらい。
「折原さんもう終わりそう?」
私のデスクに同僚の女性がやってきた。背もたれをキィと軋ませて答える。
「うーん、今日中にこれまとめときたいからもうちょっとかかるかも」
「あんまり残ってやってるとうるさく言われるよ~」
「あはは、まぁ適当に切り上げるから。途中で合流できそうだったら連絡する」
「おっけ~。そんじゃお疲れー」
「お疲れ」
会話を切り上げて同僚が去っていった。椅子に座り直してパソコンの画面を見つめる。
別に仕事が残っているわけではなく、ただ断る口実が欲しかっただけだ。行きたくない、と伝えるよりかは言い訳が立つ。
やがて飲み会組が移動し、閑散としたフロアには私を含め数人が居残っていた。その中には真砂課長の姿もあった。
(そういえば、真砂課長が飲み会に参加してるの見たことないな)
前に飲んでいるときに部長だかが『いくら誘っても来てくれないんだよ』とぼやいていた気がする。まぁ真砂課長は大衆居酒屋で升酒をあおるより、ホテルのバーでおしゃれなカクテルを飲んでいる方が絵になると思う。勝手なイメージだけど。
少しして真砂課長が荷物をまとめはじめた。そのまま立ち上がると通る声で「お疲れ様でした。お先に失礼します」と言って速やかに入り口の方へ進んでいく。
「あ、お疲れ様でしたー」
挨拶を返しながら、もしかして今が話しかけるチャンスなのでは、と頭に浮かんだ。
急いでパソコンを閉じて書類を引き出しにしまい、立ち上がって背もたれに掛けていた上着に袖を通す。「私もお先に失礼しまーす!」とカバンを持って真砂課長の後を追った。
(真砂課長、歩くの早い!)
会社を出たときにはすでに真砂課長の背中はかなり小さくなっていた。ここまできて見失ってたまるか。覚悟を決めて肩に掛けたカバンの紐をぎゅっと握り、走りだす。賑わうサラリーマンたちを避けつつ真砂課長の元へと向かう。今日履いているパンプスのヒールが低くて良かった。
「――ま、真砂課長っ!」
ようやく追いついて声を掛けると真砂課長が振り向き、私を見て目を丸くした。
「折原さん? なにかあったの?」
「あ、えっと、別に業務でトラブルがあったとかじゃなくて――」
少し乱れた呼吸を整えて真砂課長を誘ってみる。
「その、もし良かったらこの後どこかお店行きませんか!」
「…………」
なんだろう、反応がほとんどない。嫌がるのでも喜ぶのでもないのは私も困る。
「あのー、課長?」
「え、あぁごめんなさい。折原さんは飲み会には参加しないの?」
「飲み会はちょっと……お酒とかあんまり好きじゃないので」
「そうなんだ」
何故かそのとき真砂課長が少しだけ嬉しそうに見えた気がした。
「……やっぱりご予定ありますか?」
「そういうわけじゃ……うん、だったら晩ご飯食べに行く?」
「いいんですか!」
「でも奢りとか期待しないでよ? 課長って言っても薄給なんだから」
「奢ってもらおうとかそんなこと考えてないですよ! なんならマックでもいいです!」
「それはさすがに……。じゃあ私がよく行くところにする?」
「はいっ!」
真砂課長が連れていってくれたのは街なかでよく見かけるチェーンの定食屋だった。二名席に案内されて腰を降ろす。
「折原さん、荷物こっちに置く?」
「あ、すみません。……真砂課長もこういうお店来るんですね」
「来たらダメ?」
「そういう意味じゃなくて! なんとなくお洒落なレストランとか想像してたので」
「……がっかりした?」
「いえそんな! むしろ親近感湧きました! 確かにカツ丼とか牛丼をかきこむ真砂課長もなんだか様になってる気がします!」
「さすがにかきこんだりはしないけど……そうね、そういうイメージになっちゃうわよね」
「あの、私の勝手なイメージなので……気に障ったようでしたらすみません」
「折原さんが謝ることじゃないわよ。ほとんど私のせいだし」
そう言ってお冷やを飲んでから真砂課長は私を見た。
「私ね、幻滅されるのが怖いの」
「幻滅なんてしないですよ!」
「そうかしら。仕事で頼れる上司が、私生活ではだらしなかったりしたらイヤでしょう?」
「だらしないんですか?」
「ご想像にお任せします」
「えぇ~」
「とりあえず先に注文を済ませましょ」
私からすればなんてことないことでも課長という役職からすれば気にしてしまうことも多いのだろうか。
(……うーん、他の管理職の人達はそう見えないけど)
こういうのは結局本人の考え方によるのかもしれない。誰だって見栄を張りたい相手はいるものだ。
ボタンを押して店員を呼び注文を済ませる。真砂課長は本当に注文慣れしているようで、ご飯を減らして五穀米に変えていた。私も同じようにしてもらう。
店員がメニューを回収して戻って行ったのを見送ってから真砂課長に話しかける。
「やっぱり気にすることないと思いますよ。ほら、多少抜けてる方が可愛いじゃないですか」
「可愛いで許されるのは若いうちだけよ」
「そんなことないですよ」
「……ピーマン嫌いって言っても?」
「え?」
ピーマンってあのピーマン? 子供が嫌いな食べ物ベスト3に入りそうな緑の野菜? 真砂課長も青椒肉絲とか食べて顔をしかめたりするんだろうか。
「……ほら笑った」
無意識に私の頬が緩んでいたらしく真砂課長が口を尖らせた。
「ち、違いますよ! これはあの、ちょっと意外で可愛かったんです!」
「子供っぽいってことでしょ?」
「子供っぽくてもいいじゃないですか、可愛いなら。私だって結構子供っぽいって言われることありますよ」
「折原さんの子供っぽいは褒め言葉よ。私のは引かれてるの」
「私は引いてないです」
「ピーマン以外に嫌いな食べ物まだあるんだけど」
「……味覚なんて個人差大きいですから」
「ほらやっぱり引いてる」
「引いてないですって。ちなみに何が嫌いなんですか?」
真砂課長は躊躇う素振りを見せつつ答えてくれた。
「……春菊とかの苦い野菜。あとレバーは牛も鶏も苦手だし、お酒も弱いし甘いのしか飲めないし……」
確かに味覚が子供っぽいと言われてもしょうがないラインナップではあるけど。
恥ずかしそうに打ち明ける真砂課長は心をむずむずさせるような可愛さがあった。
「やっぱり真砂課長可愛いですね」
「年上をからかわないでくれる?」
「ホントですって。可愛さに年齢は関係ないです!」
「そ、そう……?」
照れて髪をかきあげる仕草も可愛らしいと思った。
「そういえば真砂課長もお酒苦手なんですね。もしかしてそれで飲み会には不参加だったんですか?」
「そう。私が参加して『お酒飲めない。タバコは嫌い』なんて言ったら場が白けるでしょ? だから仕事やってるフリして行かないようにしてるの」
「あ、私もおんなじことやりました」
「うん、だからさっき折原さんがお酒好きじゃないって言ったとき嬉しかった。私と同じ人がいたんだって」
「うちの会社みんなお酒好きですもんねー。若者のお酒離れとかどこの話だってくらい」
「飲み会でのコミュニケーションっていうのもいいとは思うんだけど、さすがに若い子がビールとか日本酒飲んでる横でオレンジジュース飲んでたら格好つかないから」
「酔い潰れるよりかは全然いいと思いますけど……」
その辺の感覚も他人がどうこう言えることではないのだろう。格好いい自分でありたいという思いは私にもよく分かる。私だって仕事をする真砂課長の姿に憧れて真似をしようとしたのだから。
少しして料理が到着した。真砂課長が頼んだのが和風ハンバーグ定食で、なんというか今のイメージにぴったりだなと思った。
「ごちそうさまでした。結局おごってもらってすみません」
定食屋を出たところで頭をぺこりと下げると真砂課長が軽く笑った。
「まぁこのくらいはね。諸々の口止め料だと思ってちょうだい」
「別に誰かに話したりしませんよー」
お互いに笑い合う。
一時間ちょっと会話しただけだけどかなり仲良くなれた気がする。というか話せば話すほど真砂課長の新たな一面が知れて楽しい。
「真砂課長、まだこのあとお時間大丈夫ですか? よかったら喫茶店とか行きたいなって。あ、次は私が払いますから!」
「お金は別にいいんだけど、折原さんも時間いいの?」
「一人暮らしだし全然大丈夫です! なんなら明日まででもいいですよー? さすがにオールする体力はもうないですけど」
真砂課長が苦笑する。
「それは私も無理。あ、もし良かったら私の家に来る?」
「いいんですか?」
「少し前に取引先の人からコーヒー豆と手動のミルをいただいたんだけど、私家でコーヒー飲まないから持て余してて。折原さんさえ良かったらもらってくれない?」
「ホントですか! 欲しいです! 私もあんまりコーヒー飲まないですけど!」
「……どういうこと?」
「もらえる物はもらう主義なので!」
私が言うと真砂課長が再び苦笑した。呆れたというよりはしょうがないなぁという感じで、私の顔も自然とほころんだ。
真砂課長の家はマンションの1LDKで、広いキッチンスペースと洋室に別れていた。食事は洋室の方で食べているらしいが、キッチンが広いと荷物の整理をしたり、室内干しをするときに便利なのだとか。私の狭い1Kとは大違いだ。うらやましい。
それにしても――。
「全然部屋汚くないじゃないですか」
予想では洗濯物が散らかっていて足の踏み場もないと思っていたのに、割と普通に整頓されていた。
「見た目はね。部屋の隅の方とかはほこり溜まってるからあんまり見ないでよ」
真砂課長がコーヒーミルに豆を入れてごりごりとハンドルを回している。後ろで見ていると香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
「慌てて部屋を片付ける真砂課長もちょっと見てみたかったなー」
「……何か言った?」
「いえいえなんでもー」
じろりと睨まれて笑ってごまかす。真砂課長のギャップを見るのが楽しくて期待してしまっている。あんまり露骨になると嫌がるかもしれないので自重しよう。
挽き終わったコーヒー豆をペーパーフィルターと共にドリッパーにセットして上からお湯を注ぐ。辺りにひときわ香りが広がり、ガラス製のコーヒーサーバーに黒色の液体が溜まっていく。
「いい香りですね~」
「注ぎ方にもやり方があるらしいけど、適当でいいわよね」
「飲めればなんでも大丈夫です!」
「それじゃあカップとかそっちのテーブルに持っていってもらっていい?」
「了解です!」
洋室のテーブルの上に諸々の準備を済ませ、カップにコーヒーを注ぐ。普段自分で淹れることなんてないのでなんだか新鮮だ。
まず一口飲んでみる。苦い。苦いけどどこかすっきりとした後味で美味しい。コーヒー通だったらもっと色々語れるのだろうけど私にはこれが精一杯だ。
「これ美味しいです――」
顔を上げて言葉が止まった。目の前では真砂課長が砂糖を入れていた。スプーンで1杯、2杯、3杯、4杯。そしてカップに牛乳を少量注ぎ、よくかきまぜてから熱さを確かめるようにスプーンで軽く飲んだ後、カップに口を付けた。
「……うん、たまに飲む缶コーヒーより美味しい……ちょっと、なんで笑ってるの?」
私は必死に笑いを堪えながら答える。
「だ、だって、ふ、そんなの絶対狙ってるじゃないですかっ……くふ」
「な、なにが狙ってるのよ! 普通! これが普通なの!」
「コーヒー苦いですもんねー」
「そーよ! 苦いから甘くしてるの! 悪い!?」
「悪くないです、可愛いです」
「か、可愛いって言わなくていいから」
「いやホント可愛いですって」
「もうやめてって!」
「恥ずかしがらなくていいじゃないですか~。これまでも結構言われてたんじゃないですか?」
「言われたことないわよ」
「え~、私が彼氏だったらめっちゃ言いますよ~」
「今まで付き合ったことないから」
カップを持ち上げながら答えた真砂課長がハッと息を飲み、恐る恐る私の顔を窺う。
「……この歳で恋人いたことないの。ドン引きした?」
「へ!? いやまぁ、意外と言えば意外ですけど……そういう人もいるんじゃないですか?」
私がフォローしても真砂課長は表情を曇らせたままだった。
「……あんまりプライベートで話したくない理由の一つがこれ。三十路過ぎて恋愛話すら出来ないなんて引かれるに決まってるもの」
「そんなことないですって」
「私が四十になっても同じことが言える?」
「言えますよ」
「そんなこと言いながら絶対陰で『行き遅れ』だの『万年売れ残り』だの陰口を叩くのよ……」
暗く沈む真砂課長。不安になるのも分からなくはないが、そういうのは気にしてもしょうがないと思う。
「真砂課長は今まで告白されたりデートに誘われたりしたことありますか?」
「……ちょっとは」
「そのとき付き合おうとか思ったりはしなかったんですか?」
「だって、恋愛とかよく分からなかったから……」
「じゃあいいんじゃないですかね」
コーヒーカップの持ち手を指でなぞりながら真砂課長を見つめる。
「恋人っていうのは体裁や見た目を気にして作るもんじゃないと思うんです。まぁなかにはそういう人もいるでしょうけど、真砂課長は少なくともそうじゃないんですよね? だったらそのうち本当に付き合いたいと思える人が現れるまでは何も気にする必要ないと思います」
「……折原さんの方が私よりよっぽど大人ね」
「いやぁ、今まで何回か付き合ってみて出した自分なりの結論みたいなもので……」
高校や大学時代、何度か男子と付き合ってみたはいいものの長続きはしなかった。結局それは告白を断るのが申し訳ないからとか周りの雰囲気に合わせてとかでなんとなく付き合ってただけに過ぎないのだと気付いた。
無理に恋愛をする必要はない。きっとそのときが来たら私の心が勝手に反応してくれる。……反応しないままおばあちゃんになったらそれはそれで寂しいけど。
「付き合いたいと思える人、か……どういう人がいいかしら。やっぱり年上?」
「年齢は関係ないですよ。一番大事なのは一緒にいて落ち着けるかどうかだと思うんです。だってずっと一緒に暮らすんですから、気兼ねしない相手の方がいいじゃないですか」
「そうね……」
「趣味とか合うのもいいですし、二人きりで話してて会話が弾んだりするような人もいいと思います」
「そ、そうね……」
どことなく真砂課長の様子がおかしい。視線が泳ぎながらときどき私の方を見ては逸らすを繰り返している。
「ち、ちなみに折原さんは、ど、同性が恋人っていうのは、どう思うの?」
「同性愛ですか? 別にいいと思いますよ。恋愛なんて最後は本人たちの自由なんですから」
カップを持ち上げて口をつける。真砂課長が躊躇いがちに聞いてきた。
「……もしかして、折原さん私のこと、す、好きだったり、する?」
「――んぐっ」
あやうくコーヒーを吹きかけた。カップを置いて口元をハンカチで乱暴にぬぐう。
「な、なんですかいきなり!?」
「だ、だって、ほとんど折原さんに当てはまってたし、そういうつもりで私の部屋に来たんじゃないかって……」
夜にご飯に誘い、すぐ帰るのがイヤで喫茶店に行こうと言い、部屋に上がり込んで一緒にコーヒーを飲む。確かにもし私が男性だったら真砂課長を狙っているとしか思えない。
私の反応から察したのか真砂課長が顔を赤くしてまくしたてる。
「ご、ごめんなさい! 早とちりしちゃったみたいで! 恋愛に疎いからつい変なとこまで勘ぐるのよねー、はは。こういうのなんて言ったかしら――あぁ恋愛偏差値が低い、ってやつ? もうほんと勘違い女過ぎてごめんねぇ、冗談だと思って聞き流してくれればいいから」
やけくそ気味に笑いながらカップを一気にあおり、げほげほとむせる真砂課長。
さっきまでの私の調子なら『もー、そんなわけないじゃないですか』と乗っかって真砂課長の恥ずかしさを軽くしてあげるところだけど、それよりも重要なことが私の脳内を占めていた。
(同性と付き合う……?)
今までまったく考えたこともなかった。同性愛というのはいつだって他人事で、自分とは関わりのない事柄だったから。
真砂課長には憧れている。先輩として女性として。プライベートは私の想像とは少し違っていたけど、それでも魅力的な女性だと思う。
この憧憬は果たして恋慕なのだろうか。分からない。私の心が『これだ』と教えてくれることもない。
けれど胸の鼓動だけがどんどん早くなっていく。顔が熱い。指先が震えてカップを持つことも出来ない。
もし真砂課長と付き合ったら。もし真砂課長とデートしたら。もし真砂課長とキスをしたら。もし真砂課長と――。数々の妄想がさらに私の体温を上昇させた。
おそらくはこのとき、熱に浮かされてどうかしてしまっていたのだろう。
「……自分でも、今の気持ちがよく分からないです」
口から出て来た囁き声は、はっきりと真砂課長に向けられていた。
「だから――確かめてみませんか?」
すやすやと眠る真砂課長の隣で、昨夜の出来事を思い出して私はひとり頭を抱えた。
(はぁぁぁ……マジかぁ……)
夢じゃない。腕に抱いたぬくもりも、触れる指の優しさも、唇のくすぐったさもつい先程のことのように覚えている。
(まぁ、イヤじゃなかったけど)
恥ずかしさはあるが嫌悪感はない。昨日あんなにあった体の熱は消えて、代わりにほっと息をつくようなあたたかさが体の隅々まで行き渡っている。枕に半分顔を埋めて真砂課長を眺めているだけで自然と頬が緩む。
(これはつまり、そういうことなのかな)
人間なにがあるか分からないものだ。昨日まで憧れていた同性の上司が今日はこんなにも愛おしくてたまらないなんて。
真砂課長の目がゆっくり開いた。私と目が合うのを待って挨拶をする。
「おはようございます、真砂課長」
メガネがないのでよく見えないのだろう。眉に皺を寄せて私の顔を確認してくる。私はもう一度挨拶をした。
「おはようございます」
その瞬間、真砂課長が目を見開いた。そして私の体を見て、自分の体を見て、しばらく固まったかと思うと勢いよくのけ反り、その衝撃で後頭部を壁に打ちつけて悶絶した。
「――っつ!」
「大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫……」
真砂課長は震えた声で返事をした後、すぐさま体を起こしてメガネを着けるとベッドから出て服を着始めた。
「折原さん、いつごろ家に帰るの?」
「え?」
「休日だけど家の用事とかも済ませたいでしょ? 朝ごはんくらいなら軽く作るけど」
「…………」
ぽかんとしたまま、てきぱき動く真砂課長を見つめる。
(なにその態度? そりゃ昨日の今日でいきなり恋人っぽく振る舞うのは難しいかもしれないけどさ、目を覚まして見つめ合って恥ずかしそうに笑うくらいはしてもいいんじゃないの? それがなに? 最初の言葉が『いつ帰るの』? そんなに私に早く帰って欲しいの?)
むかむかとする私を余所に真砂課長は仕事モードのときのような手際の良さで朝食の準備を済ませた。
昨日のコーヒーの残りと共に朝食をいただいている間、とくに会話らしい会話もなく、なんだかひとりでもやもやするのがバカらしくなってすぐ家に帰ることにした。
別れ際に何か気の利いた言葉でもくれればまた違ったのだろうが、真砂課長はいつもと変わらない口調で「また会社で」と言うだけだった。
昨夜のあのとき、お互いの心が通じ合った気がしたのは気のせいだったのだろうか。もしくはやっぱり女性同士なんておかしいと思い直したのかもしれない。
大きな溜息を吐く。高く昇った太陽の日差しが眩しい。
(なかったことにするならそれでもいいんだけど、会社でぎくしゃくするのはイヤだなぁ)
コーヒー豆とミルを貰い忘れたのに気付いたのは家に帰ってからだった。
◆
折原さんが玄関から出て行くのを見送った私はその場にへたりこんだ。
(気を張り詰めてないと立ってられない……)
膝が笑っている。ちょっとでも気を抜くと脳が沸騰して全身から力が抜けて呼吸すら普通に出来なくなりそうだ。それほどまでに昨夜の出来事は私にとって強烈だった。
(なんで折原さんはあんなに余裕なのかしら。これが恋愛経験値の差というやつ?)
部下と一夜を共にしたときにどんな顔をするべきか、どういう態度をとればいいのか私にはさっぱり分からない。告白をし合ったわけではないので恋人というのはおかしいだろうし、折原さんが『一度体を許したくらいで恋人面しないでよ』みたいに思っている可能性もある。
(そうなると私達の関係ってなに? 恋人未満、肉体関係以上……やめやめ! 色々とその、よろしくないわ!)
昨夜のあれやこれやが生々しく思い出され、頭を振ってかき消した。今考えるべきはそこではない。
(結局私は折原さんのことが好きなの?)
自分のことをあんなに話したのは初めてだった。それは折原さんの人柄や雰囲気に私が惹かれていたからかもしれない。一緒に食事をして、コーヒーを飲んで、お喋りをして……年齢差はあるのにそんなこと関係ないくらい楽しかった。
(付き合う相手としては申し分ないんでしょうけど)
最後の一歩を踏み出せないのは、やはり自分の気持ちに自信がないから。
同性、上司部下、年齢。付き合えない言い訳はたくさんある。その全部をねじ伏せて主張出来るだけの確固たる意志が私にはなかった。
(恋愛することを怖がってるのかもね)
人は未知の存在・事象に恐怖を抱く生き物だ。底の見えない深さ数メートルの海を見つめるのは怖くとも、深さ数十メートルの透明な海を見るのは怖くない。
私にとって恋愛が底の見えない海だとするのなら、まずはどんな海なのかを知ることから始めるべきだろう。
よろよろと立ち上がりキッチンに向かう。置きっ放しのコーヒーミルを見て渡し忘れたことに気付いた。会社にまで持っていくつもりはない。本当に折原さんが欲しがっていたのかすら分からないのだから。
「さて、掃除でもしますか」
少しでも体を動かして気を紛らわせたかった。
まずは洗い物を済ませようとスポンジを取り、食器用洗剤を付ける。右手で泡立てながら左手で掴んだのは、さっきまで折原さんが使っていたコップだった。
瞬間――飲んでいる姿が脳裏に浮かび、その唇がアップになり、リアルな感触を伴って私の唇を、胸をついばんだ。
「――――」
しゃがみこみそうになったのをシンクの端に掴まって耐える。
こんなので本当に恋愛を知ることが出来るんだろうか。折原さんとまともに顔を合わせられる気さえしないというのに。
◆
真砂課長が露骨に私を避けるようになった。
まず私のデスクの横を通らない。わざわざ遠回りして移動をする。
そしてまったく目を合わさない。業務上でのことを聞きに行っても資料かPCモニターを見るばかりで私と目を合わせてくれない。トイレですれ違うときは目を瞑る。
曲がり角とか入り口で向かい合ったときはバネ仕掛けかと思う勢いで私に道を譲ってくる。
そこまでして避けるのに会話や挨拶はいつも通りなのがちぐはぐ過ぎてちょっとおもしろい。
ただまぁ、そんな態度を数日とられていたらいい加減イライラしてくるもので。
(突き放すならちゃんと突き放してよ! ていうか変な態度してたら周りから怪しまれるの分かってるの!?)
頭に来た私は終業後、真砂課長をトイレに呼び出した。
「折原さん、な、なにか用?」
少し離れた位置でおどおどと視線を逸らすその姿は不良に呼び出されたいじめられっ子のようだった。
「真砂課長、知らない人が見たら私が脅してるみたいに見られるから普通にしてくれませんか?」
「わ、私はいたって普通よ」
(どこがだ!)
突っ込みたい気持ちを抑えて冷静に努める。声を荒げては逆効果だろう。
「とりあえずもうちょっと近くに寄ってくれませんか? あんまり話し声聞かれたらまずいと思うので」
私が手招きすると真砂課長が近づいた。半歩ほど。
「……あの、もうちょっとこっちに」
もう半歩。
「だからまだ遠いですって」
半歩の半分。
「いい加減にしてください」
まどろっこしくて私が大股で近づき真砂課長の腕を掴んで顔を覗き込んだ。
「――っ」
みるみる真砂課長の顔が赤くなっていく。か細い声で「おり、はらさん、はなして……」と言われ私の胸が大きく脈打った。
「は、はい」
慌てて手を離すと真砂課長は息を整えながらメガネのブリッジを押し上げた。
今の表情は見覚えがある。あの日の夜、幾度となく見た可愛らしい姿。心臓がとくとくと脈動し、血液と共にあのときの興奮を体中に運んでくる。
「……その、迷惑を掛けてるのは分かってるけど、徐々に折原さんに慣れていってるところだからもうちょっと待ってて欲しいの。そうしたら、もう一度きちんとお話できると思うから」
それだけ言うと足早にトイレを出ていってしまった。
取り残された私は、ふと手洗い場の鏡を見た。そこに映る私は嬉しそうに頬が緩んでいた。
目を合わせてくれなかったのも接触を避けていたのも、この前の夜を思い出してしまうから。普段どおりに見えたやり取りは、全部恥ずかしさをごまかすための強がり。
(不器用というかなんというか)
不満や怒りなんてとうにどこかに行ってしまった。だって私が好きになったのは、そういうところも含めたあの人だから。
一つだけ文句をつけるなら。
(ちょっと待っては聞けないなぁ。時間を掛けなくても私に慣れる方法はたくさんあるのに)
金曜の夜。飲み屋の並ぶ繁華街はどこもかしこもサラリーマンたちで賑わっていた。
騒がしい人込みを避けつつ真砂課長と一緒に駅へと向かう。
「あ、あの、折原さん、て、手を繋ぐのはやりすぎじゃないかしら」
「こうやって人前で触れ合うことで恥ずかしさがなくなるんですよ」
「み、見られるのはちょっと……」
「大丈夫ですって。いちいちそんなとこまでみんな見てませんから」
ぎゅっと手に力を入れると真砂課長が恥ずかしそうに視線を落とした。相変わらず反応が可愛い。この表情を見るのが最近の私の楽しみだ。
会社でも業務の合間にこっそり触ったり腕に抱き着いたりしては同じような表情をさせて楽しんでいる。これだけだと私がいじわるしているようだけど、あくまで真砂課長が私と普通に接することが出来るようにするための訓練だ。訓練という建前でいちゃついているだけとも言う。
「そろそろ真砂課長の口から『好き』って言葉聞きたいなぁ」
いまだにきちんと真砂課長の気持ちを聞けていないのも二人きりになると途端にしどろもどろになってしまうからだ。
「だ、だって、こういうのは軽々しく結論付けるのはダメだと思うの」
「真砂課長の『好き』は軽々しい『好き』なんですか?」
「そういうことじゃなくて、告白するなら今後の一生を背負う覚悟が必要でしょう? お互いにまだ知らないことも多いし、よく精査して将来の計画を練って――」
重い。告白がほぼ結婚と同義になっている。いや年齢的にそこまで考えるのは普通なのかもしれないけど。
「一生を背負う必要ないですよ。二人で持ち上げればそれぞれ半分で済みます」
「……そうね」
ここで大真面目に考え込むのがこの人らしいところだ。
と、いつもならここで諦めるところだけど今日の私は違う。
「真砂課長、そろそろこのやりとりにも疲れてきたので、本気を出そうと思います」
「本気?」
私はいつもより一回り大きなバッグをぽんぽんと叩いた。
「今日と明日泊まるつもりなので」
「あ、明日も!?」
「一泊が二泊になっても変わりませんよ」
「だいぶ変わる気が……」
「それでですね、真砂課長が『好き』って言ってくれるまで抱き着いて離れないことにしました」
「!?」
「どこまで耐えられるか見物ですねー。あ、帰ったら濃いコーヒー淹れましょう。眠気が吹っ飛ぶくらい濃いやつを」
くふふ、と意地悪く笑ってみせる。真砂課長は焦りと恥ずかしさの混ざったような表情でひとりぶつぶつと何かと呟いていた。
(きっとお風呂のときとかトイレのときはどうしようとか考えてるんだろうなぁ。そんなの嫌だったら振り払えばいいだけなのに)
泊まりに行っている時点で私の勝ちは決まっているのだけど。
さて、と。ではどうやって『好き』と言わせるか。無理矢理言わせるなんてとんでもない。これでもかと顔を真っ赤にさせて、本心から言わせなければ。
悩むまでもない。
抱き締めて、キスをして、好きだと伝える。これをずっと繰り返していれば必ず応えてくれるはずだから。
終
pixivの第二回百合文芸コンテスト応募作品。
よくある(?)一夜越え社会人百合カップル話です。
有能な上司がプライベートではちょっと抜けてるのがかなり好きです。