#3 与えられたのは地獄
――――地獄は、その日から早足で私の元へ歩み寄って来た。
レイメが二人目を産むより早く、正妻たる婦人が男子を産んだのだ。私の、異母弟にあたる子だ。私が6歳になった時だった。
アウタナ伯の目論見は外れ、レイメが二人目を身籠る気配はなかった。
異母弟が生まれると同時に私の扱いは目に見えてひどくなった。食事が運ばれてこない日も珍しくなくなり、部屋の扉には外から鍵がかけられた。
レイメもアウタナ伯に強く止められたためか、毎日は私の部屋にやってこれなくなっていた。
それからは早かった。
あっという間に5年がたち、弟が屋敷内を歩き回るようになった頃、11歳となった私は完全に不要な存在となった。
今まで押し込められるように与えられていた部屋から引きずり出された私は、屋敷の地下にある牢屋へと放り込まれ、鎖で繋がれた。
少し周囲を見渡せば他の牢には何に使うのか魔物が何匹か入れられていた。アウタナ伯の趣味……いや、たぶん夫人の方だろう。ペットにしては些かお門違いにも思えたが。私はこの魔物と同じ扱いという訳だ。
そして私の第二の地獄が始まった。
足に繋がれた鎖の為まともな範囲を移動できず、もちろん用を足す場所などない。私は完全に人としての尊厳を失った。
たまに牢屋の管理を任されている使用人が、魔物の餌と一緒に残飯を食事として持ってくる。そのついでに牢を掃除していくのだが、雑多に水を流し終え簡単に牢内を掃除した後、決まって虚ろな私に暴行を加えた。
「お前のような悪魔が現れたせいで俺の面倒が増えた!」
謂れのない暴力に襲われた私は頬を殴られたせいで口を切った。傷口から溢れた赤い液体が半開きのままだった口の端から溢れたのがわかった。
流石に貴族屋敷の使用人だからプライドはあるのか、私に行うのは暴行だけだった。纏っていた衣服はもはや服などとは呼べない布にまで擦り切れており裸同然だったが、如何せん小汚い私だ。劣情など催せないのだろう。
殴られ、蹴られ、引っ張られ。私は抵抗も泣き叫びもせずぼうっと虚空を眺めていた。なぜ自分がこんな目にあっているのかわからなかった。使用人に白くぼさぼさに伸び放題の髪を鷲掴みにされ無理やり立たされても、反応を見せなかった。
そんな私の様子に益々苛立ちを募らせた使用人に腹部を殴られ、私は嗚咽とともに胃液を吐いた。せめて泣きわめこうものなら使用人をもう少し楽しませただろうか。そんなことを朧気に考えた私は腹を抑えて蹲る。
「薄気味悪いガキめ」
胃液まみれの私に、使用人はもう一度蹴りを入れると、満足したように唾を吐いて去った。
抑えていた腹を改めて蹴り飛ばされた私はうめいて転がり、横たわった。痛くて、苦しい。
口の中が血と胃液の味で満たされている。床に吐き出された胃液の酸っぱいにおいが鼻につく。
そんな事もはばからず、私は床に横たわったまま、使用人が帰り際に蹴って引っくり返した皿を眺めていた。乗っていた残飯は飛び散って水を流したばかりの地べたに散乱していた。
腹の痛みが薄れ、痛みより空腹の方が強く感じられるようになった頃合いで、私は這うようにずりずりと移動すると、汚れた地面に散乱した残飯を、手も使わずに家畜のような有様で口に入れ、飲み込んだ。
畜生のような有様で、残飯を咥え、地面を啜り、咀嚼した。何度も腹を壊し、薬ももらえずに牢屋を汚しては使用人が腹を立てて殊更に私を嬲った。
憔悴して死ねればまだ楽だったろう。
何度も死を願った。楽に、楽になりたかった。
しかし、私の願いとは裏腹に、どれだけひどい食事で腹を壊そうが劣悪な環境で熱を出しうなされようが、私の小さな心臓は鼓動を止めてはくれなかった。
ある日、使用人が来る時間ではないのに足音がした。私は今日も嬲られた後だったので、ぶちまけられた残飯の上に蹲っていた。普段と違う足音にゆっくり顔を向けてみれば、レイメが牢屋の前に居た。
レイメは私の姿を見ると、牢のカギを開けて中に入って来て、汚れるのも厭わず私の上体を起こして抱き抱えた。
使用人から牢屋のカギを借りたらしい。金でも握らせたのだろう。しかし私の足の鎖のカギは渡してくれなかったのだという。
レイメはそんなことを言いながら私に謝罪すると、持ってきてくれていた布を、同じくもってきていたポットの水で湿らせると、優しく私の体を拭いてくれた。冷たい。けど、暖かかった。
それからレイメは、私の部屋へ夜な夜なやってきては、何とかして持ち込んだのだろう。少量のパンやスープを与えてくれ、体を拭いてくれた。
私は毎夜、レイメが牢屋へやってくる時以外は、人形のように過ごしていた。
相変わらず使用人は牢屋の掃除や餌やりのついでに私を殴り、蹴った。
そして夜になるとレイメが来てくれた。
地獄のような日々に、レイメの存在だけが温もりだったが、憔悴した私はもはや思考すら投げ出していた。
そうして1年が過ぎた。私は、12歳の誕生日を牢屋で迎えた。
そんな日々すら6歳となった弟の、領民たるアウタナの民への跡取りとしての正式な発表を迎えて、状況が変わっていく。
私は突然牢屋から外に出され、無理やり歩かされた。久しぶりに歩いたから、何度も転びそうになったがそのたびに使用人に小突かれ、よろよろと進んだ。道中ですれ違う使用人は私を見て皆鼻を抓んでいた。臭く、汚いと。
この突然の連行は何事かと思いながら進んでいると、やがてアウタナ伯夫妻の前に引きずり出された。
跡取りを産んだ夫人は発言権を持ち、最早無碍にもできず、アウタナ伯は夫人に言われるがままに、まずレイメの産んだ子である私を追放すると宣言した。
これまではレイメの温情をアウタナ伯が聞いていたため今の扱いだったという。しかしもはやそれも聞けなくなったのだろう。アウタナ伯は脇に控えるレイメをちらちら見やりながらばつの悪そうな顔をしていた。
もはや屋敷の牢に私がいる事すら我慢ならないといった様子の夫人だったが、建前もあろう。
本音はレイメへの嫌がらせに違いない。もちろん私という悪魔の相を持つ者を屋敷から追放したい気持ちも多分にあろうが、それ以上に夫人はレイメを目の敵にしていた。そのレイメが産み、今だ温情をかける私が追放されることで、悲しむ顔でも見たかったに違いなかった。
悪魔の子と呼ばれた幼い私が追放されるのを止めようとする者はいなかった。むしろ屋敷の人間は全員私を疎んでいたから、やっとあの気味悪い子と同じ屋敷に居なくて済む、とでも言わんばかりの視線が私に向けられた。秘密裏に殺されなかっただけマシなレベルだ。
そんな声をぼうっと聴きながら、私はこれからどうやって生きていこうかという事を考えていた。
心は概ね男であるが、体が女子ならば稼ぎようはあるだろうか。嫌悪感に耐えられる自信もないからできれば嫌だな。しかし働けないなら食ってはいけまい。どこかの奴隷にでも成り下がるか。あるいは、ただ野垂れ死ぬか。まあ、死ぬんだろうなあ。
私は一人でこの先歩んでいくことを受け入れ、また同時に生存を諦めていた。
しかし、そんな私の肩を優しくレイメは抱いた。
アウタナ伯の脇に控えていたレイメは私に駆け寄ってきたのだ。そして私の肩を抱きながら、アウタナ伯の目を見て、言った。
「私がお腹を痛めて産んだ愛娘たるココットが追放されるのなら、私も行きます」
彼女はそうアウタナ伯に告げた。
アウタナ伯は困惑していたが、夫人はレイメもただの障害としか認識していなく、アウタナ伯のお気に入りだったレイメを排除できるのならばとすぐさまレイメも追放に処した。アウタナ伯はもう反抗できなかった。
夫人は扇子で口を隠しながら笑う。
「好きにして構いませんよ。小汚い親子揃って早く失せなさい」
二人で夜逃げるように屋敷を出るとき、ふと私は屋敷を振り返れば、正面玄関から見える大窓で、アウタナ伯、夫人、そして弟が冷ややかな目で見送っているのが見えた。




