#115 行かないで
「……エルクーロよ。魔も人も、そろそろ互いに戦争の終わりを見ている頃合でな」
魔王様に呼び出された私は、その御前にあった。
魔王様は書面に走らせていたペンを握る手を止め、深く椅子に腰かけて私を見る。その赤い瞳をじっと見ながら、私は言葉を紡いだ。
「それは良き事と思います。これ以上戦いを続ける意味はないかと」
本心だった。
これ以上戦争を続ける意味などないだろう。肥大しすぎたファルトマーレ領の先端が魔族領に足を付けた状況も今は昔。
やっと魔王様の口から戦争の終わりという言葉が出たことに安堵した私であったが、対照的に魔王様は戦争の行く末を語りながらあまり機嫌がいいとは言えない表情で言葉を続ける。
「だが、一手足りない。魔族も人間も、互いにこのゲームを終わらせるにはピースの不足を感じている。そしてそれは盤上にあるコマが未だに舞台上に残っていることへの不満なのだ」
「……四天王は二人斃れ、勇者もまた二人斃れた。これ以上何が戦争を引き延ばすのです?」
私にはわからなかった。もう十分すぎるほどに魔族もファルトマーレも痛手を負っている。戦争を継続するメリットなどもはやないはず。
小国連合が未だにファルトマーレにすり寄り、ファルトマーレも未だ己らが有利として徹底抗戦の構えにあるのかとも思ったが、近ごろは小国連合の動きの話は聞かない。ココットが捕らえた越境部隊の将を突き返した折に、小国連合は黙らせたはずだ。とっとと戦争介入からは手を引いて、魔族とファルトマーレの和平が為った頃合でどちらにすり寄るか考えでもしているのだろうとしてその線は薄いと言えた。
だからこそ謎だ。これまで何度かあった時の大国との戦争もすべて痛み分けと言う形で講和が為ってきた。
その例に倣えば現状はもはや潮時。互いに和平を切り出すべき時期だ。
そうして考える私を見ながら、魔王様は机に肘を置きぐっと体を前のめりにしながら言ったのだ。
「ファルトマーレは要求してきたよ。魔将軍ココットを引き渡せ、とね」
「なんですって?」
私は耳を疑った。
なぜココットの名前が出る?
一介の魔将軍を引き渡せとはただ事ではない。
「なぜ彼女なのですか」
「分かっているだろう。あの娘は悪魔でありすぎたのだろうな。先の戦で相当連中の肝を冷やしたらしい。ユナイル教の教皇直々のご指名だよ」
それは危惧していた事だ。それとなく注意は再三したと思ったが、ココットは恨みを理由に殺戮を幾度か行った。
だが彼女は軍人としての職務には忠実だし、仕事は完璧だ。殺戮も任務の範疇は越えていないと言えるし、アウタナを除けば無抵抗の相手への無差別殺戮は一度も無かった。民間人への危害は無かったわけではないが、それを理由に名指しで引き渡しを要求されるなど前代未聞だ。
いや、だが戦争犯罪などと銘打つべき蛮行を行った敵将を相手国が被害者として要求するのは頷けなくはない。
しかして前述の理由によりココットの殺戮は別段戦争の歴史において珍しい事でもない。
ならば問題は教皇の名指しと言う点。
ユナイル教の教皇が名指すという事はココットの容姿……ユナイル教では畜生にも劣る扱いであるという悪魔の相が関係しているのか。
私は眉根を寄せながら静かに問う。
「彼女を引き渡してどうなるのです」
「わかっておろうに。敢えて私の口から言わせるのは流石だな。まあ十中八九殺すだろう。見せしめにな」
「彼女は渡せない。彼女は命令に従っただけの一軍人に過ぎないのだから、引き渡す理由がない」
「なら戦争も終わらない。それに言っただろう。互いの不満だと」
魔王様はふうとため息をついて私を見る目を細めた。
「魔族内でもココットを良く思わない声が多い。尻尾を巻いて逃げてきて四天王の庇護をかさに着てのうのうと過ごす人間……エルクーロ、お前も同様だぞ? 民衆の陰口くらい耳にしていよう」
「……」
自覚はある。あくまで魔族としての立場から見れば人間であるココットに入れ込みすぎているように映るだろう。
人間の娘であるココットを魔将軍として抱えた事は魔王様のお墨付きとはいえ不満の声は多かったろう。まして無理やり祭り上げられて出立したココットが敗北して逃げ帰ってきたとなればなおさら。
そして私の庇護の下できるだけ平穏にと気を遣った結果が我が物顔で生きていると映ったのだろうか。
魔族はそこまで器量の狭い民族であったろうかと悲しくなるが、戦時下でナーバスになっている民衆には今のココットの状況は刺激が強いのかもしれない。故に私自身への批判も事実として受け止めてはいたのだ。
「元よりバルタ攻略に失敗したならばあの娘は死ぬはずだった。お前が助けてきてしまったが、私が手ずから殺してやれば民衆の憂いも晴れようが……」
「それは、させません」
「フハハハ! 随分な入れ込みようだなエルクーロよ。あの娘は確かに良い。幼い体ながら魂は成熟している。だがしかしそれでいて黒く歪んで、ガラスのように脆い。そんなひび割れたカップをお前は大事に抱え続けるのか?」
「……それが、大切にするというものです」
恐ろしく自然に口をついて出た言葉。自分でも少し驚いていた。
大切にする。私は彼女を大切に思っているのか?
そんな私の驚きを察したのか、魔王様はわずかに口角を持ち上げて言った。
「ふむ……愛しているとでも?」
「それは……わからない。彼女に対する私自身の在り方に、私は答えを見いだせていないのです。それでも……惹かれているのは事実でしょう。彼女は私の何かに触れたのです」
私を揶揄ったココットの姿は、ポリニアに重なった。
あの瞬間私の心臓はドクンと刹那に激しく脈動した。
愛しているとは自信を以てこの口からは言えない。わからない。愛するという事はよくわからないのだ。ポリニアやチックベルにも大分揶揄われた。
共にいた時間は決して長くはない。だが短くも感じさせなかった。そして近頃見せるようになった彼女の慎ましやかな笑顔や、恥じらいは私に彼女を拾った時の事を思い出させた。恐ろしく大人びていて、殺戮を恨みを理由に平然と行い歓喜する様に警戒していたが、あの子はただの女子なのだと。
そして私自身、この戦争を戦う意味を……あのような子が笑って暮らせるためにと思い直した筈であったと。
敵を倒すたびに狂喜に震えた過去。黒曜の名を冠された私が戦いを決して良きことではないと思いなおすきっかけと為ったのはポリニアの死。
その彼女が願った平和はまさしく人や魔……まして悪魔の相などという理由で隔てられることがない世界を指す。
魔でもなく人でもいられなかった彼女と過ごすうちにそれをより強く思い直すようになっていたのだから。
チックベルがいつか言った言葉。
愛するという事は相手を想い失いたくないと考える事。いつもそばに居たいと思う事。私がポリニアに思っていた気持ちがまさにそうだと。
私がポリニアに思っていた感情は複雑だった。幼馴染であり同僚。お互い四天王などと言う重い肩書を持ちながら、私はただただ戦いの喜びに打ち震え、彼女は戦いをどうやって終わらせるかばかりに心血を注いだ。
そんな彼女とは友であり相棒であり、口うるさい幼馴染。いつの間にかいて当たり前の存在だった。
そんな彼女が死んだ時、私は初めて後悔という物を経験した。胸にぽっかりと穴が開いたような、居て当たり前だった存在が居なくなった衝撃。
幾日も続いたその空虚な感情にチックベルは答えをくれた。愛していたことに失ってから気づいたのだろう、と。
ポリニアを愛していた。そう自覚した時に私は慟哭した。そして彼女を奪って行った戦いを嫌悪するようになったのだ。
失ってから気づいたのでは遅い。それは私が既に学んだことだ。
だからこそ。
「一晩、考える暇を頂きたい」
「それは戦争を長引かせるかもしれんぞ。あるいは、だが」
「その為の思案です。答えは出すと約束しましょう……我が父祖よ」
私はそう魔王様へ告げる。
私はバルタへ赴きこれを落とせばココットを差し出す理由の大元を断つ事となる。そしてそれは戦争の継続を意味する。
まして一人とはいえ勇者最強の聖剣がおり、バルタにはココットが打撃を与えているとはいえ出兵できる兵には限りがある。攻城戦の形ともなれば私とて一筋縄ではいくまい。
ココットを取るか、戦争の終結を取るか。
ココットを取る、とこの場で即答できない自分が恨めしい。ポリニアがこの場に居たら叱責の一つも飛んでこよう。
だが自分は魔王軍四天王、"黒曜"のエルクーロ。民を守り兵にいたずらな犠牲を強いるわけにはいかない立場と責任がある。
故に思案しなくてはならない。選ぶために。
そんな私の覚悟と迷いをくみ取ったか、魔王様は何も言わずに再び書面に目を落とした。
それを話の終わりと受け取った私は礼をすると魔王様に背を向けて退室した。
♢
エルクーロ様が隣に居ない日は、私が魔王城に帰還してから初めての事だった。
彼は魔王様に呼び出され、何か重要な話をしているのだと思う。戦争も状況としては佳境かもう抜けたかの頃合。積もる話もあるのだろう。
そして一人残された私は、エルクーロ様の言いつけでは一人で出歩かず部屋に居ろという事だが……街に繰り出してきていた。
部屋に一人で居ると寂しくて、どうしようもなく怖くて辛かったから。
だから言いつけを破って一人街へ繰り出し、俯きながらぼうっとあてもなく彷徨い歩いた。
「私は、何をしているのだろう。何のために、生きているのだろう」
ブツブツと自問自答をしながら魔王城内の市街を歩く。
足取りは重く、俯いたまま魔族の合間を縫う私の頭の中は、どろりとしていて鈍重な思考のまま自分が何をすべきなのかを考えていた。
ミオの仇は取りたい。取りたかった。だが、失敗した。
疲弊した我が軍の惨状を見て再進撃が叶わないと悟った時に私の心の中で何かが崩れていった。
だからいくらレイメの仇を、ミオの仇を……そして生きているかどうかも分からないキエルをと考えはするものの芯のない思考はすぐに泡のように消えた。
この思考をするのは何度目か最早わからない。一人になると決まってこのことで頭がいっぱいになった。決して答えに辿り着かずに振出しに戻る迷宮を延々と歩いているような、そんな思考。
レンガ敷の道を歩きながら、私は右へ左へ幽鬼のようにふらふらと歩いていた。
行き交う魔族達。時刻も遅い中通りに彼らはひしめいていた。その全てが、私に向けて侮蔑の視線を向けている気がした。
一人で出歩くなと言われた。
魔将軍としてこの城に滞在していた囮行軍の出立前ですら、必ずクォートラ達を同伴させていた。
それは一重に私の身の安全を考えてに他ならない。
だが今私は一人。誰が何をしてこようとおかしくはない。それでも私は何も思っていなかった。恐怖も、危機感も。
いま横を通り過ぎた屈強な魔族が唐突に私の首根っこを掴み上げ、この細い首をへし折ったとしても……構わないとさえ、思っていたから。
自殺志願者が道路にふらふらと飛び出す心境が分かったな、などと私はクスクス笑っていた。
そんな自嘲気味な笑みをこぼしながら歩いていると、ある店が目に入った。
クォートラやゾフと共に来た食堂だった。中では魔族達が食事を楽しんでいて、談笑が目に見えて聞こえるようだった。戦争の裏で、彼らは平穏に暮らしている。
だが私の視線は彼らに向いているのではなかった。
店のガラス……そこに映った私自身を見ていた。
よれよれでみすぼらしく、まるでこの世のすべてに絶望したような表情。大切な者を失った人間の顔とは、こういうものなのだろうか。
もう12年も自分の身体だというのに、ガラスに映った幼女の顔は、他人めいて感じた。
と、ガラスを見て呆然としていると突然肩を強く押された。
私はよろめいて地面に転がる。痛みに顔をしかめながら顔を上げれば、私を見下ろしながらあざ笑う魔族が前を歩いて行った。
そんな私の姿を見て周囲の魔族もくつくつと笑い始める。
「おっと、転んだぞ。魔将軍が情けない。まるで乞食のようだ」
「人間が魔将軍の装束など着るに値しないというのに」
「護衛はいないようだ。今なら食っても咎めはないのではないか? ははは!」
「待て、顔は一級品だ。小さく若くて体も柔らかい。それに珍しい髪色なのだろう? 価値がある。ペットにすると楽しめそうだ」
転んだまま周囲を見渡す私を眺めて、魔族達は口々に嘲笑の言葉を交わした。
決して私に向けられることなく、それでいて私を対象とした言葉。陰口か。
「エルクーロ様も腑抜けたものよ。ポリニア様が亡くなってからだ。バルタまで赴いたというのにろくに戦いもせず、あまつさえ人間の小娘一人抱えて逃げてきた。臆病風に吹かれでもしたのだろう」
「まこと黒曜が情けない事だ。人間の娘などを可愛がっておかしくなられたのだ。ウラガクナ様も討ち死にされたというのにこれでは魔族の行く末を憂いて然る」
「魔将軍などと人間などを祭り上げて、結果がこれでは目も当てられん。エルクーロ様は四天王に相応しくないのではないのか?」
「子飼いの人間にうつつを抜かす魔族などに我らの戦いを任せていいのか? どうせこの娘もただの玩具だろうに! お気に入りの肉人形を毎晩抱いて喜んでいるのかもしれんぞ!」
「黙れ!」
魔族達の嘲笑をぼうっと聴いていたが、聞き捨てならない話題に私は叫んだ。
「私の事を言うのは良しとする……だが、あの方の……エルクーロ様の悪口をぬかすな! あの方ほどお前たちの事を考えている方はいないというのに!」
私は周囲の魔族を睨みながら叫ぶ。
しかし魔族達はそんな私の姿すら滑稽に見えたのか腹を抱えて笑うばかり。
私は悔しくて仕方がなかった。こんな連中にあの方を好き放題言われるのが嫌だった。
だが、その原因は私なのだ。私があの方に迷惑をかけているのだ。
「は、小さな悪魔がお怒りだ。まるで子猫みたいに鳴いている」
「お前ェッ!」
私は歯を食いしばって立ち上がると手近な魔族につかみかかった。
上等な服を着た上級魔族は、突然掴みかかってきた私に驚いた様子だったが、すぐに私を突き飛ばした。
軽く小突いたつもりだったのかもしれないが、私は派手に道端を転がり街灯の柱に背中を打ち付けた。
痛い。
痛いが、すぐに私は上体だけを起こして私を突き飛ばした魔族を睨みつけた。その魔族は私の剣幕にややたじろいだように見えた。
もう一度立ち上がって掴みかかりたかったが、背中が痛くて立ち上がれない。だから睨んでやる。私を見下ろす魔族達を。エルクーロ様を小馬鹿にしたこいつらを。
だが、小さな私がいくら凄んでも魔族達はすぐに笑みを見せ始めた。私の周りには人だかりができ、囲まれている。まるで見世物だ。檻の中に居るような錯覚。私はただただ歯を食いしばった。
と、突然魔族達の表情から笑みが消える。
そして魔族達は顔を背けると私から離れるように散っていった。
それを見て呆けていると、突然私の肩に手が置かれた。黒々とした大きな手。
はっとして振り返ると、エルクーロ様が私を見下ろしていた。
「エル、クーロ……様……」
「部屋に居なかったもので大分探した。……今は街を一人で歩くのはよせ」
「申し訳ありません……」
言いたいことが喉までこみあげてきて、飲み込んだ。
ただただ、言いつけを破ってしまった事に対する申し訳なさが唐突に押し寄せてきて、私は俯いた。
だがすぐにそれでもいけないと気づく。彼に弱っている所など見せてはいけないのだ。
はっとして顔を上げれば、エルクーロ様が私に顔を近づけていた。
「……ひどい隈だ。眠っていないのか」
「……お気遣いなく。私は健康そのものですよ」
照れと驚き。彼の顔が近くあった事と己の憔悴を彼に見せてしまった事。
誤魔化すように私はにっこりと満面の笑みを作って見せるが、エルクーロ様は面食らったような様子で顔に手を当てると溜息をついた。
「そうは見えない」
エルクーロ様のため息にも、私は何も言う事は出来なかった。
私は笑みを顔に張り付けたまま、俯いた。
「立てるか」
そう言ってエルクーロ様は私に手を差し出した。
恐る恐ると言った風にゆっくりその手のひらに触れると、優しく大きな掌に包み込まれた。
「小さな手だ」
「エルクーロ様の手が大きすぎるのです」
「そうだろうか」
エルクーロ様に手を引っ張られて立ち上がっても、私はその手を握られたままだった。黒く大きな異形の手から感じるじんわりした温もりに私は目を細めた。
きっと私は今幸せを感じている。
少なくともこの瞬間は、このひと時は。
この手から感じる温もりに幸福を感じる。暖かさと一緒に慈愛が手から体の芯へ流れ込んでくるような。
ミオのような愛くるしい感情ではない。キエルのような対等のそれでもない。
確かな庇護。私は今この方に守られている。
それがどうしようもなく嬉しくて、同時に私を責め苛むのだ。
私の憔悴はエルクーロ様から見ればバルタ攻略に失敗した自責の念にでも駆られているように映ったろうか。それも間違いではない。だがその意味するところは功績ではなく仇討ちの未遂。
ミオの仇を討ってやれなかっただけではなく、キエルまで失った。
再起の機会さえあればと唇を噛み締めながらも己の無力を嘆いた結果が不眠だ。
私は一人で眠れなくなっていたのだ。ミオを失ったあの時からずっと、一人で眠ることがたまらなく怖い。
辛くて、苦しい。愛するものを失った世界で生きるのが苦しい事を思い出したのだ。
レイメを失ったあの時私は復讐のために生に縋った。だがそれが叶わないとなればこの生に意味はない。
ならばせめて、この方と暖かな時間を。既に迷惑をかけてしまっている以上何をとも思うが、それでもこれ以上の迷惑はかけたくない。
何より彼女たちの仇をとれずに幸せを感じるなどと言う資格は私にはないと、アウタナに居た頃のままの私が心の中で私を責める。
それがとても、苦しいから。
「食事にしよう。私の部屋まで来てくれるな」
「……はい、エルクーロ様」
私はもう一度笑顔で、そう言った。
その後、部屋に戻ったエルクーロ様の後をついて、私も静かに入室した。何度か目になるエルクーロ様の私室へのお邪魔。いつもとは雰囲気が違う気がした。
ゆっくりエルクーロ様の背後についていき、外套に手をかけた彼に両手を差し出した。
「服をお持ちします」
「……ああ」
エルクーロ様の脱いだ外套を手渡され、丁寧に折り曲げ腕にかける。地面にするびらないように気を使いながら抱え、椅子に腰かけたエルクーロ様の脇に立った。
「君も掛ければいい」
「いえ、お構いなく……」
「立ったまま食事を摂る気か? 君の背丈ではテーブルに届かないだろう」
軽口めいてエルクーロ様はそう言う。気を遣っているのだと思った。できるだけ固くならずにフランクに、私の緊張や疲れを察しての事だろう。
エルクーロ様が私に気を遣いながら朝食の用意されたテーブルにつくよう促す。
私は礼をして遠慮がちにエルクーロ様の対面に坐する。
紅茶に呼ばれてこの席に座ったことはあった。しかし今は目の前に映るテーブルに用意された思っていたよりは質素な食事に、なんだか違和感すら覚えた。エルクーロ様の部屋で共に食事を摂る。初めての経験はなんだかこそばゆい気もした。
しかしそのこそばゆささえ塗りつぶすように、私はどうもぼうっとしていて、彼のもてなしを素直に受ける事が出来なかった。
食欲も、湧かなかった。
食事が始まっても会話は起きず、無言。私は食器にさえ手を付けられなかった。
エルクーロ様も少しずつ食事を口に運んでいたが、やがて手を止めて私を見た。
「食べないのか」
私はハッとして息をのむ。
食べたくない、食欲がないなどとは言えない。正直体が気だるくて仕方がない。此処の所全く眠れておらず、気絶するように体が無理やり休眠し悪夢ですぐに飛び起きる。そんな事を繰り返していた事で大分弱っているのだろう。
それでもそれを彼に押し付けるわけにはいかないとして、私はにこりと笑って食器に手を付け、スープを一口啜った。
「……おいしいです」
「そうか」
私が食事に口を付けたのを見て、エルクーロ様も食事を再開した。
暫く私はスープだけをひたすらちびちびと胃に流し込んでいたが、うっかり気道に入れてしまい小さく押し殺した咳をする。
口を手で押さえてできるだけ小さく済ませたつもりだったが、エルクーロ様の反応は早かった。
「やはり休めていないのだろう」
「……そんなことは」
「弱っているときほど、食事がままならないものだ」
私がパンなどに手を付けておらずスープだけを啜っているのに流石に違和感を感じたのだろうか。
エルクーロ様は静かに席を立つと、私に微笑んだ。
「君は大人ぶりすぎている。私といるときぐらいは弱い姿を見せてもよい」
「……恐縮です」
私が小さく頷いたのを見て、エルクーロ様もまた頷いた。
「茶を入れてこよう」
そう言って彼は暖簾で仕切られた先の簡易キッチンめいた場へ向かった。
その背中を見送って、私はゆっくり食器をテーブルへ置いた。
なぜ、エルクーロ様はこんなに優しいのだろう?
思い当たる節がまるでない。
何か別の思惑でもあるのだろうか。打算的な優しさだとしても、構わないか。
エルクーロ様は、私に優しい。
それだけで十分だ。十分な、はずだ。
そう、自嘲気味に乾いた笑いを零した刹那、私はえづき、飲み込んだスープが喉までせりあがってくるのを感じた。
疲労ゆえだとして精神的か、身体的か。体が食べ物を受け付けられないのか。慌てて両手で口を押え、音を押し殺す。
折角頂いたスープがもったいない。私は無理やりせりあがってきたそれを胃に押し戻した。
――――苦痛は生ある限り続く。
この幸せは嘘だ。残酷な仮初だ。
黒く濁ったコーヒーめいたこの生に、時折落とされた白いミルク。それは多少コーヒーの苦さと黒さを緩和しても、コーヒーを甘くすることはない。
ならコーヒーの中身をいっそ全部捨ててしまえば……苦いコーヒーを飲む必要はなくなる。
そうだ、死のう。
私はエルクーロ様の庇護無しではもう魔の中で生きていけない。
生きていく理由もなくなったのだ。恩讐の終着を前に頓挫した辛さは、暗いドームの底で決して手の届かない天井の穴から差し込む光を眺め続ける拷問に近い。耐えられない。だから最後にエルクーロ様と穏やかな時間を過ごせただけで良しとした。私が生きていると彼に迷惑がかかる。
これ以上エルクーロ様に迷惑をかけたくない。これ以上こんな苦しい世界に居たくない。エルクーロ様との食事、最後の晩餐としては十二分すぎる。
楽になろう。ミオやレイメ、キエルに逢いに行ってやらなくては。エルクーロ様と過ごし曖昧になっていた感情だった。少しだけ生の嬉しさを感じていたのかもしれない。もともとバルタの戦いが終わってから死のうと考えていた。だがそれが叶わないなら今すぐにでも――――。
私は白く濁った頭の中でそんなことを考え、ぼうっとしたような眼でテーブルに置かれたナイフを手に取るとゆっくりそれを自分の首に向けた。
「ココットッ!」
はっとした私の手はエルクーロ様の黒々とした手に捕まれた。そのまま引っ張られ、あわや椅子から転げ落ちそうになりながらもなんとか床に立つ。それでも拍子に転倒しかけて、掴まれた手を支えにしながらも私は床に膝をついた。
はずみで取り落としたナイフが音を立てて床に転がる。
「今……何をしようとしていた」
私の手を強く掴み上げながら、エルクーロ様は私を見下ろして表情を硬くしていた。
掴まれた手は痛いほどで、誤魔化しも兼て私は苦痛を訴える。
「痛いです、エルクーロ様……」
「何をしようとしたと聞いている」
エルクーロ様は怒っているようにも見えた。
普段とあまり変わらない仏頂面。だが言葉に圧がある。私はそんな様子に驚きながらも、彼の真剣な赤い目に見られていると居心地が悪くなって顔を背けた。
「別に……なんでも」
「誤魔化すな」
「……」
無言を貫いた私にエルクーロ様は大きくため息をつきながら掴んでいた私の手を離した。
そしてゆっくり椅子に腰かけると眉間に手を当てた。
「馬鹿な考えはよせ」
馬鹿な考え、か。
本当に馬鹿げていると思う。本来死人である私が、何の因果かこんな世界で生きている。
馬鹿げているとすればこの生なのだ。本当に、馬鹿げている。
茫然自失と言った様子で床に座り込み俯いていた私は、まるで叱られた子供のようにただじっと床の絨毯の模様に目を落としながら無言で下唇を噛んでいた。
その時、エルクーロ様は眉間に手を当てたまま……ぼそりと呟くように私に言った。
「身体を粗末にされると困る」
私は目を大きく見開いた。
エルクーロ様が言った言葉に、すっとこれまでの事が腑に落ちた気がしたのだ。
「ああ――――なるほど。エルクーロ様はそういうご趣味をお持ちでしたか」
クスクスと笑みをこぼしながら、私は言った。
「どういう意味だ」
エルクーロ様の言葉には答えなかった。
私はゆっくり立ち上がると、少しだけエルクーロ様から離れた。その後何事かと困惑するエルクーロ様に向き直り、上着をばさりと脱いだ。
そしてシャツのボタンを一つ一つ外し……上着と同じように脱ぎ捨てた。
目を丸くしたエルクーロ様の前で私は衣服を脱ぎ去りながら一歩一歩エルクーロ様に近づいていく。
やがて下着が床に落ちた頃にはエルクーロ様の目の前に立ち……その目をじっと見つめた。
エルクーロ様は最初は狼狽した様子だったが、裸体の私を前にすぐにハッとすると顔を背けた。
「……服を着ろ」
「なぜ目を背けるのです」
「服を着ろと言った」
少し強めの口調で言われたが、私は表情を変えずに首を傾げた。
そしてそのままエルクーロ様へ歩み寄り、その膝に手を添えた。
「私を抱きたいのでは?」
私のその言葉にエルクーロ様は目の色を変えた。
私の方に顔を向け、これまでにない怒りの表情で私を見下ろした。
「何……何を言っている。説明しろ」
威圧されそうになった。明らかに彼は怒っている。
初めて見た。エルクーロ様の怒りの表情は。
それでも私は表情を変えず、静かにエルクーロ様の膝に添えた手を離すと、今度はその手で自らの肩を抱く。
「アンドレオは先の戦いの後に私を抱くと言ったのです。私は承諾しておりましたよ」
流し目でエルクーロ様を見上げながら、仄かに微笑んで言った。
「私のこの身は、凄惨な人生を歩んでなおどういうわけか純潔です。貧相な童の身体ではありますが、価値はあるかと」
「何故私がそうしたいなどと考えた」
「男と女とはそういうモノではないのですか? 私は構いませんよ」
「御託を並べるな。なぜそう思ったのか説明しろと言った」
「説明してほしいのは私です! 何故あなたはそのように私に優しくなさるのです!?」
笑顔を消し、一転して大声を上げた私にエルクーロ様は面食らったらしく口を半開きにして絶句した。
私は自らの胸に手を当て、訴えるような表情で立て続けに言葉を叩きつける。
「まあ……想像は付きますが! ポリニア様の幻影を私に見ているのでしょう! ですがおやめ下さい。幻影に縋っても何もいい事はない。本人ではないのです! 貴方が愛したのは、ポリニア様であって私ではない!」
その言葉に、エルクーロ様は目を見開いた。
違う、こんなことを言いたいのではない。
こんな皮肉めいた事を言いたいのではないのに。
私はただ、これ以上私に優しくしないでほしいだけなのに。他ならないエルクーロ様の為に。
私と関わってもろくなことがない。私は悪魔だ。死神だ。呪われた私に優しくする者は皆不幸になる。レイメもミオもキエルもジジもそうだった。だから私は一人で死のうと思っているのに。
だから幻影に等縋ってほしくはない。そんなものに縋っても、後悔するだけなのだから。
だからこんなことをしているのだろうな、私は。この方に嫌われれば、砂糖を入れる前のコーヒーを何のためらいもなく捨てる事が出来るのだから。こんな場所で、エルクーロ様の部屋で生を終えようとするのは卑怯だとも分かってはいるけれど。私の死を彼に押し付けるだけの悪手だとも、わかってはいるけれど。
最期の瞬間くらい、せめて嘘の幸せの中でと思っても……許してくれてもいいじゃないか。
そうだろう、神よ。
「私に構わないでください! 私といるものは皆不幸になる! 私がこんな髪をしているせいでっ!」
私は自分の髪を引きちぎらんばかりに鷲掴みながら叫んだ。
悲痛な私の訴えに、困惑したような顔色を見せたエルクーロ様はゆっくり椅子から立ち上がると、大きく息を吐いた後私の隣を歩いて抜けた。
そして散乱した私の衣服から上着を拾い上げると、私に改めて向き直った。
「抱きたいなどとは……思っていない。君がそれを望んでいない。それでも君がそのように苦しむのは見たくない。どうすればいい。人の文化はあまり詳しくないが、君を娶ることもできる。そうすれば民衆も手は出せない」
エルクーロ様の言葉に、私は酷く狼狽した。
だがすぐに拳を握りしめて吐き捨てるように言った。
「っ……それは情けです」
「違う」
私の言葉を遮るようにエルクーロ様は言った。
はっとして彼の顔を見れば、その赤い瞳はじっと私を見つめていて。
私は思わず顔を背けてしまった。
そんな私にエルクーロ様は静かに言った。
「いや、違わない。私は君を情けで救った。一方的な、な。だがアウタナを落とした君を見て、私は恐ろしく思った。危険な人間だとそう思っていた」
足音が聞こえる。ゆっくりエルクーロ様が私に歩み寄る音だった。
俯いた私の視界に彼の軍靴が目に入って、ゆっくり顔を上げた。
「それでもすぐに気づいた。君は普通だ。私に笑ってくれる、ただの娘だ。そんな君を死なせたくない。これ以上苦しんでいるのを見たくない。この感情は……君が嫌う情けだろうか」
静かにエルクーロ様は私に上着をかけ、そのまま肩に手を置いた。
私はびくりと身を震わせたが、何もせずにただじっと……エルクーロ様の言葉を聞いた。
「君をこの道に引き込み苦しめたのは他ならない私だ。責任を感じている節もある。だがそんな義務的な感情ではない。正直、ポリニアを失った後悔は未だに私の胸の内にある。だがそれを理由に君を受け入れた訳ではない。私自身が、君に居なくなってほしくはないと考えている」
そこまで言ってエルクーロ様は私から少し離れ、床に落ちたナイフを拾った。
ナイフの刃に指を這わせながら何か思い耽るような顔をした後、私に顔を向けた。
「私も、嫌われ者なのだよ」
そう自嘲気味に笑ったエルクーロ様の目を見て、私は驚いた。
「黒曜の名は敵味方問わず恐れるものだ。そんな私に人間の身でありながらも恐れずに接してくれた君は私にとって特別なのだ。人と魔、そんな隔たりを私は君との間に感じなくなっていた。君の存在は私やポリニアの望む希望、架け橋であり……それ以上でもある」
エルクーロ様の言葉は濁りのない純真なものだとすぐに理解できた。
だからこそ、私は困惑していた。
「私は君を愛しいと思っている」
そしてそのエルクーロ様の言葉に、私の心臓は大きく跳ね上がった。
そんな、そんなバカなことがあるはずがない。彼が私にそんな言葉を言う理由がない。
「は、はは! 冗談をおっしゃらないでいただきたい! 私は馬鹿です! 己に課した運命すら全うできない! 半端ものなのです!」
私は目尻の熱さを振り払うためにただただ笑い、己にかぶせられた上着をぎゅっと握りしめた。
「私は死にたい! 終わらせたいのですよ、この血塗られた生を! 元々望まずに生まれ落ちた命、望まれぬ生を生きることに幸福などなかったのに! 私は死ぬことさえ躊躇するダメな者になってしまう! ミオが待っているのに……!」
彼に隠していた本音が壊れたダムのように溢れてくる。言葉としてはじけた感情の奔流。
それを私はただただ勝手に、エルクーロ様に叩きつけた。
「死にたかった! 終わらせたかった! なのにキエルや貴方が私に優しくするからッ! どうしてなのですか!」
私の慟哭めいた言葉も、エルクーロ様は静かに目を閉じ聞いていた。
ミオの事。私と同じ悪魔の相持つ子。トグーヴァやジジ。私の境遇を理解した者達の記憶。彼に隠してきた事のすべてを、私は感情のままに叩きつけた。
毎晩彼らが私を苛み、眠れない事。苦しくて、辛い事。バルタさえ落とせていればこの世界に何の悔いも無かったのに。
貴方が私に悔いを残すのは残酷だ、と。
「貴方にとって私はただの部下でしょう……? 私に、優しくしないでください……私に、私は……」
そう泣き笑いのような表情で感情を絞り出した矢先。
瞬間、私の身体は優しく包み込まれていた。
はっと目を見開く。
エルクーロ様が私の頭を包むように、両腕で抱きしめていたのだ。
顔をエルクーロ様の腹にうずめながら、私は困惑していた。
そんな私に、頭上から優しい声が聞こえてきた。
「自分を卑下にするな。君を大切に思う者の気持ちは、君が否定してはいけない」
「大切、に……?」
「愛しいと言った。私が思っている以上に、私にとって君は大切なのだとようやく分かった。いつからかそう、感じるようになっていた。近くに居て欲しいと願うのはおかしい事ではないと思う。失う恐れは私にもあるのだ」
エルクーロ様は私の身体を静かに離すと、肩に手を置いたまま私の目をまっすぐに見た。
「君の本当の望みを教えてくれ」
エルクーロ様の、一切の淀みのない真っ直ぐな問いかけ。
数刻の沈黙。その間もずっと互いの視線は交差していた。
望みを言えと。残酷なことを命じてくる。私の心の中は暫くぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて。まるで彼の赤い目に吸い込まれるように、それが純化してゆく。愛しいと言われた。それが私を窘めるために出た嘘の言葉であったとしても、嬉しかった。
ミキサーにかけられたような私の感情はやがて1滴の答えを滴らせて。
やがて胸の高鳴りが冷めやらぬまま、震える唇で私は……言葉を紡ぐ。
「私の望みは……」
――――貴方と一緒に居たい。
「――――私から何もかもを奪って行った奴らの死です」
私は涙を零しながら、笑みを浮かべてそう……言った。
人間である私の存在は、彼の重しになる。今まで与えられるばかりだったこの生、何かを返せるのならば彼に恩返しがしたい。彼にはもう十分もらったのだ。
私が居なくなることで、私と出会う前の……私などに気を揉む前のエルクーロ様に戻れるように。
エルクーロ様は私の言葉に俯き、ゆっくり眼を閉じた。
そして何も言わず、背を向けると何か片付けでもあるのか歩いて行った。それをただ見送って。
だが気づけば私は、静かに去ろうとした彼の服の裾を、酷く弱弱しく引っ張っていた。
エルクーロ様が驚いて振り向けば、その瞳に怯えたような顔の私が服を恐る恐るといった様子で掴んでいたのが映った。
「っ……行かないで……」
私は小さくそう、言ってしまっていた。
刹那に私の視界が黒に覆われる。もう一度エルクーロ様は私を抱きしめてくれた。
私は体を抱きしめられながら、大きく目を見開き、そして目を細め……閉じた。
身体を強くエルクーロ様に押し付けながら、目尻から伝う涙が彼の服に染みる感覚を感じた。
「もっと強く、抱きしめてください……息が止まるほどに……」
この方の為に。この方の腕に抱かれて死ぬのなら、それはきっと……幸せな事だと思えたから。
男だとか女だとかはもうどうでもいい。
今の私がそう思っていることをとっくに認めている。
私は……この方を――――。
その日エルクーロ様の部屋に泊まった私は、久方ぶりに睡眠をとった。
そして彼が目を覚ますよりも先に起き出し、朝早くから身支度を整えると外へ出た。
一人で魔王城内を歩き、大扉の前に立つと小さくノックをする。
入るように促された私は静かに部屋の中へと入ると……小さく深呼吸したのち、目の前に映った方へ向けて口を開いた。
「……魔王様、お話があります」




