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五話

 どこからか音がした。

 見ると、ちゃぶ台に置かれたiPhoneだった。

 はっとして、頭を抱えてうずくまる。行秀さんはいないようだ。恐る恐る顔をあげる。

 わたしは見覚えのない和室に居た。ちゃぶ台には一冊のノートがある。表紙には『⑬』と番号が振ってあった。


 わたしはマフラーを編んでいる最中のようだった。棒針を手にゴム編みをしている。質の良い高そうな毛糸で、カシミア製みたい。もう2玉は消費しているだろうか。大分完成に近い。

 それでわたし、なんでマフラーなんか編んでいるんだっけ?


 答えは『⑬』のノートに書いてあった。

 そうか、わたしは前向性健忘症なのか。それで小遣い稼ぎにハンドメイド商品をネット販売しているらしい。


 12月21日 12~18時

・手編みマフラーについて、販売サイトやSNSでの評判を確認しました。細かい指摘をのぞけば良好みたい。しかも季節やクリスマスに合わせたのが良かったのか、今月の売上は過去最高。やるじゃんわたし!

・時間があったので途中まで編んでおきました。今日中にひとつは完成させて。

・今日は商品を二件、発送してください。発送方法は五ページ、もしくはパソコンのテキストを参照。

・それと深夜のわたし、また夜更かししたでしょ?


 日記形式の書き込みはこれだけだった。新しいノートなんだろう。

 iPhoneの売上管理アプリを開くと、確かに今月の注文数は過去最多だった。流行るのは構わないけど、パン屋のバイトや普段の生活と併せて活動するにはちょっと忙しそう。

 ちゃぶ台のノートパソコンを立ち上げる。デスクトップにはいくつかの製作用テキストと、PC版各種SNSのアイコンが配置されていた。個人ブログまでやっているのか。節操がないし、ちゃんと管理できているのかな。


 ツイッター、インスタグラム、ブログと順に眺めていく。

 二日分ほどの新着メッセージやコメントが溜まっていた。一件ずつやりとりを確認する。驚くことに、リピーターやファンが一定数いるみたい。いくつかの好意的なメッセージを読んでいるうちに心が温かくなってくる。

 こういったSNSの活用はなにも集客目的だけじゃないのかもしれない。お金以上に、ハンドメイド作家として大きなやりがいになっているんだろう。

 顧客とのやりとりが文章として残るのもありがたかった。時間はかかるけれど、直接顔を合わせての会話と違い履歴が残るので、ちゃんと会話をすることができる。


 メッセージを返信し終えるとマフラーの在庫を探した。

 在庫は押入れにあった。完成品は三本。今日は二本も発送しなくちゃいけないから、よほどの自転車操業みたい。明らかに製作が追いついていない。販売サイトで注文可能数を制限した方がよさそうだ。


 作りかけのマフラーを一旦置いておき、商品の包装をしていく。やり方はパソコンのオフラインテキストを見た。画像付きで詳しく作ってある。

 梱包というより、ラッピングという包装方法だ。ハンドメイドらしく一件ずつ手書きのメッセージカードを入れなければならない。手間や資材費がかかるが、リピーターを増やすためには確かにそのような面倒な作業も不可欠だ。趣味というだけあって、薄利でもかまわないという考え方だ。


 ラッピングをしながら、わたしは、自分がこの作業を楽しんでいることに気づいた。そうか、わたしはきっと人生に彩りが欲しいんだ。

 記憶障害を患いながら一人暮らしをしている。そんな条件だけで、今後の人生には数多くの苦難が待っているはずだ。本来なら趣味など楽しむ暇もない。

 だけどわたしは抵抗したいんだ。

 最低限の賃金と、保険金や慰謝料。それだけでもとりあえずの生活はできる。でもそれだけじゃ足りない。

 何らかの進展、自身の成長、人とのつながりが欲しい。記憶がつづかないから出来ることは限られるけれど、それでも抗いたいとわたしは思った。だからこうして大した利益も望めない趣味に熱を入れられるんだ。

 それなら、と思う。過去のわたしの思いを無駄にしないためにも、今やれることを確実にやり遂げよう。


 いま製作しているマフラーはカシミアのバーバリーチェックで、四色の色違い。特に薄ピンクがよく売れていて、今回の二件もそれだった。

 一件は通常の包装だったが、もう一件は誕生日プレゼント目的のものだった。注文者の要望欄には、『クリスマスイブが誕生日の友人へ贈るものです』と書いてある。

 押入れにはクリスマス仕様と誕生日仕様の両方の梱包資材が収納されている。悩んだけど、気を利かせた方がいいだろうと思い、両方を適度に組み合わせてラッピングした。


 レターパックに商品を詰め、購入者の住所を記す。

 リビングに出ると、部屋の隅に設置された大型の倉庫が目についた。

 あれはなんだろう? 記憶障害で呆けてしまって、おかしなセールスに騙されて買っちゃったのかな。邪魔だなあ。要らないものなら後で処分しないと。

 サンダルをつっかけて外に出た。


 真白ヶ丘市。全く土地勘がないので周囲の景色に戸惑う。ノートに描かれた地図をたよりに郵便ポストを探す。

 郊外の住宅街という町並みだった。辺りは薄暗く、家々から漏れる明かりだけで街灯もほとんどない。見上げればわずかに星が見える。川崎では見られない夜空だ。

 自分の口から漏れる息が白いことに驚く。

 彼から暴力を受けたのは二年前、晩夏のこと。いまが12月の下旬なのはノートを読んで知っていたけど、空気が一瞬で冷え込んでしまったように錯覚する。まるで天変地異が起こったみたい。わたしは覚醒するたび、こうして季節の変化にさえ驚いているのだろうか。


 自宅から十分ほど歩くと北真白ヶ丘駅があって、郵便ポストはその傍にあるらしい。わずかな街灯にノートの地図をかざしながら歩く。

 そのせいで、わたしは前をよく見ていなかった。気づくと目の前に人の背中があった。慌てて身を避けたが、間に合わずに肩からぶつかってしまう。

 若い男の子だった。高校らしき制服を来ている。ぶつかったせいで、互いに手にしていた物を落としてしまった。

「ごめんなさい! わたし、ちゃんと前を見ていなくて」

 ばさばさとノートやレターパックが散乱する。

 こっちが悪いのに、男の子は嫌そうな態度ひとつしない。むしろ、申し訳なさそうにこめかみを指で掻いていた。

「こちらこそ、変なところで立ち止まっててすみません」

 二人で地面に落ちたものを拾い集める。そこで違和感に気づく。男の子が落としたのは、わたしが持っていたものとそっくりな大学ノートだった。彼のノートには『⑫』と番号がある。

 ようやく、男の子の顔をまともに見る。目は細いが、逆にそれが優しそうな印象を与える少年だ。柔和な笑みがよく似合っている。短めの髪は整髪剤で几帳面に整えられ、身に付けた制服のジャケットやシャツには皺ひとつない。清潔感も相まって、学校ではよっぽどモテているんだろうな、と素直に思う。

 男の子は拾いあげたレターパックに目を落とした。そこには購入者の住所や氏名、内容物の名称が記されている。何かを検分するような目つきに些少の不安を覚える。そして彼は何事も無かったかのように微笑みをひとつ浮かべ、わたしにレターパックを返す。

「良かった。なんともないみたいです。お怪我はないですか?」

「ええ。こっちも大丈夫みたい」

 『⑫』のノートを返そうとして、彼に遮られる。

「これはあなたのノートですよ、古都実さん」

 押し戻されたノートを両手で抱く。息を呑む。

 しまった、知り合いだろうか? 全く見覚えがない。なんと返したものか分からず、わたしは口ごもってしまう。

「覚えていないのも無理はありません。でも安心してください。古都実さんの病気については知っていますし、それを承知の上で、今日はあなたの家を訪ねようとしたのです」

「ええと、あなたは……」

「吉村浩介です。まあ好きなように呼んでください。いつもは『吉村くん』と呼んでもらっているので、それでいいと思いますが」

 ノートの読み込みが足らなかったのだろうか? 吉村浩介という人物についての書き込みはなかったように思う。もう一度ノートを見てみようとすると、吉村くんが重ねて言う。

「そのノートには書いていないかもしれませんね。おそらくバイト先のメモ帳だとか貼り紙だとか、そういったものに僕のことが載っているはずです。顔写真付きでね」

「バイト先に?」

「僕、瀧本ベーカリーの常連なんです。もともと気まぐれで通ってはいましたが、古都実さんがレジに立つようになってから少しずつ通う頻度を上げました。それで先日、あなたはご自身の病気をお客さんたちに打ち明けた。常連の顔を把握したいということで、何人かに顔写真をお願いしたんですね。それには僕も含まれていて、それが嬉しくてですね。今では古都実さんのシフトに合わせて、しょっちゅう店に顔を出しているわけです」

 失礼とは思いつつもわたしは笑ってしまった。

「要は、わたしのストーカーってことかな?」

「つまりはそういうことですね」冗談で言ったつもりが、吉村くんは否定しない。「でも、あなたにとってはバイト先の顔見知り程度なようで。そのノートに書いてもらえるくらいの存在にはなりたいのですが」

 わたしはすっかり彼に心を許してしまう。病気やバイト先のことを知っているというのは、わたしにとって貴重な存在だった。

 彼は近所の真白ヶ丘商業高校に通う二年生だという。若いっていいな、なんて思いながら、つい彼と他愛もない立ち話をしてしまう。

 記憶がなくても、孤独な一人暮らしが身体に染み付いているのかもしれない。知り合いだという人物に出会うとどうしてもお喋りしたくなってしまう。


 吉村くんに郵便ポストを案内してもらい、レターパックを投函した。

 そういえば、と『⑫』のノートを見下ろす。

「わたし、これをどこかで落としたのかな?」

「新しいノートの方には書かれていなかったですか? ノートを失くしたこと」

「ううん。このノート、わたしにとっては大事なもののはずなのにね。どうして書かなかったんだろう?」

 吉村くんは顎に手を当てて考え始めた。あまりに真剣に考え込むものだから、わたしは慌てて両手を振った。

「いや、わたしのことだからさ、吉村くんに聞いたって分からないよね」

 彼は思案顔のまま前方を見据えている。何か納得いかないことでもあるのだろうか。

「古都実さんには謝らなければいけないのですが、この『⑫』のノート、中身を見させていただきました。早くこれをお返ししなければと思い、住所でも分かるかなと。読んだところ、あなたがこの近辺のマンションに住んでいることが分かったもので、ちょうどあなたのお宅を訪ねようとしたところだったのです」

 わたしは顔を赤くした。

「変なひとり言みたいなことが書いてあったでしょう?」

「ええ、それもそうなのですが……」

 吉村くんは夜道の先を見つめて押し黙った。


 自宅に到着する。わたしは再三、吉村くんにお礼を述べる。

「良かったら、うちで少しお茶でも飲んでいかない? ノートを落としたときのことを聞かせてよ。届けに来てくれたお礼も兼ねて」

 というのは建前で、わたしは単純に話し相手が欲しかった。お茶やお菓子はどこかにあるのだろうか。だが吉村くんは首を横に振る。

「いえ、すごく嬉しいお申し出なんですが遠慮しておきます。夜中に女性の家に上がり込むのも悪いですから」

 紳士的な子だなと思った。それと同時に自分の軽率さを反省する。こんな時間に未成年の男の子を家に連れ込もうなんて、確かに考えが甘かった。わたしなんかよりこの子の方がよっぽど大人だ。

 去っていく吉村くんの背中を見送る。

 暗闇に入り、その姿が見えなくなる。ぽつりとした街灯の明かりに再度照らされたとき、ふと彼はこちらを振り返った。

「ひとつ、忠告させていただきたいのですが」

 わたしは首をかしげた。

「そのノート、もう人に見せない方がいいかもしれませんね。自分以外の人間にこのノートを見せないこと、とでも但し書きした方がいい」

「どうして?」

「悪いひとに騙されるかもしれないからですよ」

 彼はもう一度笑いかけてみせ、また夜闇に溶けていった。


 自宅へ戻り、和室で編みかけのマフラーに取りかかった。

 人から金銭を頂き、長く使ってもらうものだ。手抜きはできない。そうは思いつつもわたしは全然集中できていなかった。

 彼の言葉のせいだ。悪いひと。悪いひととは、つまり誰のことだろう?

 棒針を畳に降ろし、先ほど返してもらった『⑫』のノートを開く。始めの5ページの基礎情報は『⑬』とほぼ同じ。日記調の書き込みはおよそ20日分ほど。ざっと読み流してみたが、さしておかしな点もない。確かに他人に見られたら恥ずかしい、落書きみたいな書き込みばかりだ。とくに近日三日分は書いたり修正したりですごく読み辛い。

 マフラー作りを再開する。慎重に網目をつくっていきながら、そうか、と納得できる部分があった。

 わたしは記憶障害を持ちながら女の一人暮らしをしている。ノートを他人に見られれば障害のことどころか、住所まで知られてしまうだろう。

 記憶障害者であることを利用され、悪質な詐欺にあったり、危険な目に遭ってしまうかもしれない。あの邪魔くさい倉庫がいい例だ。

 自分の病気を理解してもらうことで、吉村くんのように支援の手を差しのべてくれる人物も確かにいるだろう。だけど今回は運が良かっただけだ。彼の言う「悪いひと」とは、そういった悪意ある人たちを指しているのだ。


 本当に? そういう解釈でいいのかな。

 マフラーを編み終える。壁掛け時計を見上げると、記憶リセットまで幾ばくもなかった。

 『⑫』のノートを開く。もう一度、最初のページから読み直していく。喉の奥でつっかえた異物が取れない。そんな違和感だった。

 やがてある事実に至り、わたしは軽い眩暈を覚えた。いや、まだ事実と呼ぶにはほど遠い不審点。

 一体何が起こっているのか理解できない。ただ、これがとんでもなく良くないことだってのは分かる。ひとつ言えるのは、彼が言うような「悪いひとに騙されるかもしれない」なんて段階の話ではないということだった。わたしはもう、現時点で何らかの『悪いひと』に騙されている。

 iPhoneを見る。もう少し調べたかったけど、もう時間がない。

 吉村くんの忠告を思い出す。

 リビングに行き文房具類を探した。それは電話台の上にあった。マジックペンを手に取り、そのまま電話台で『⑬』の一ページを開く。ノートを読むとき、一番最初に目につく場所だ。


・このノートを自分以外の人間に見せないこと。


 余白に書き込む。ボールペンでなくマジックペンを使用したのは、ある効果を期待してのことだった。

 まだ何か書き込んだ方がいいのか、またはそれが逆効果となるのか。ぐずぐずと判断しかねているうちに、iPhoneのアラームが鳴った。

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