断章(二)
ミニバンがゆっくりと発進する。
いつしか咲子は、原因不明の緊張感に囚われていた。24時07分。いつもならもう布団に入っている時間なのに眠気はほとんど感じない。
森林公園を通り過ぎて国道に出る。街の明かりにささやかな文化のエネルギーを感じる。咲子はぼそぼそと、学校での出来事や、今年最後になる文芸部での部誌作りの苦労話を彼女に聞かせていた。
「いいなあ学校生活。なんだか女子高生とお話してると、わたしまで若くなった気分になっちゃうな」
「いやいや、お姉さんだって十分若いじゃないすか」
そう言うと、彼女は横目に咲子に笑いかける。
「歳こそ取ってないけど、これでもわたしバツイチだからね。人生の酸いの部分だけ無駄に知っちゃった感じ」
「へえ、意外っすね」
初対面で込み入った話はしづらいな、と思った。
「こういうのって、もう歳は関係ないと思わない? ああ、大人になったんだなぁって嫌でも自覚するやつ。結婚とか離婚とか妊娠とか。実家を離れて一人暮らしを始めたとか、社会人になって初めてお給料をもらったとか、免許を取ったとか、そういうこと。なんでもいいんだけど、簡単なところで言うとお酒が飲めるようになったとか、煙草を始めた、とかさ」
「えっとあの、うーん……」
咲子の反応に彼女は慌てた。
「ごめんね、わたし口下手で。つまりなんだろう。いくら歳を取ったって、そういう経験や実績がないと大人になった気分がしないんじゃないか、っていう話なの。べつに人生の先輩を気取りたいわけじゃないよ? わたしだって、もし何のやる気も起きなくて、就職も結婚もせずに、親のすねかじって、ずっと実家でごろごろしているような生活だったらさ、そんな気分は味わえなかったんだよ。大人と子供の境界線さえ分からないままだと思う。境界線って言っても大したことじゃなくてね。さっき言ったような初給料とか免許取得とか、そんなようなものでいいの。手元に届いた免許証とかお通帳を眺めるだけで、おー、わたし変わったなって思うの。うまく言えないけど、そういう瞬間って、嬉しさと同時に何故かがっかりしたような感じもあるんだ」
「あ、なんとなく」
「わかってきた?」
彼女は嬉しそうに鼻唄をうたいだした。よほど咲子との会話を楽しんでいるようだった。
咲子は夜の街を流し見ながら、突発的に、過去に知り合った盲目の女性のことを思い出していた。とても素敵な笑顔をする人物だった。人見知りの咲子でも、ものの数分で心を開いてしまうくらいに。だけど、それは盲目の彼女にとっての生きる術でもあった。その笑みを身につけられたからこそ生きてこれたとも言える。その人に再開する機会は、残念ながらもう二度とないけれど、今でもたまにあの笑顔が夢に出てくる。
どうして急に彼女のことを思い出したのか、咲子にもよく分からない。自分の意思とは反する白日夢のようなものだった。
そんな風にして思い返していく。これまで出会ってきた人々のことを。幸か不幸か、吉村と行動を共にするようになって、人間の底の部分に触れる機会が多くあった。考え方や嗜好こそ違えど、その誰もが自分たちに似た思いを抱えていた。思いは強ければ強いほど怨念じみてくる。彼らの生き方に目を向けているうちに、咲子はすっかり、その怨念を読み取ることに長けてしまっていた。
やれやれとため息が出てくる。
車内に流れるこの緊張感のせいだ。この緊張はどうやら自分の人見知りから来るものじゃない。
それからもう一つ。車内の空気に意識を集中する。おぼろに漂うこの匂いが、さっきから気になって仕方がない。
咲子はそっと、隣で上機嫌に運転をする彼女を見る。それから車内の様子を盗み見ようというところで、彼女が口を開いた。
「さっきの続きだけど、わたしね」
ミニバンはトンネルに入る。
「昔に戻りたいなあって、最近よく考えるんだ。大人がどうの子供がどうのって話は、その裏返しで。ほら、こういう例え話をするときって、今の記憶を保ったまま過去に戻れたらもっと上手くやれる、なんて妄想するじゃん。でもわたし、それは嫌なんだ。今の記憶も何もかもぜんぶ捨てて最初からやり直したい。後悔だらけの人生だけど、わたしがやらかした失敗や過ちって実はただのボタンの掛け違いで、たった一つの気まぐれや選択の違いでしかなくて、何もない状態で一からやり直したって、もしかしたら上手くいくかもしれないでしょ。むしろそんな風にやり直さないと過去に戻った意味なんてない。あらかじめ答えが分かった人生を修正したところで、それは偽りの理想像でしかないんだから」
トンネルを抜けると、再び風景は穏やかになる。突き当たりを右に曲がると、寝静まった住宅街が現れた。
「お姉さん、ちょっと自暴自棄になってない?」
「え?」
「女の人が一人で夜釣りって時点で、アレな人なのかなぁと思ってたけど。あんまり一人で悩み過ぎない方がいいですよ」
「もう、いじわる言わないでよ。べつにそんなんじゃないし」
彼女は前を向いたままふくれた。あたしも性格悪いな、と少し反省する。
「それより、ねえ。あなたならどっち? 記憶保持派と、まっさら一から派」
咲子はシートにぐったりと背を預けて考える。
「あたしはどっちでもないですね。そういう妄想もしないことはないけど、本心から過去に戻りたいとは思わない。そりゃ過去に後悔がないわけじゃないけどね。今まで自分が見てきたこと、やってきたことを消したくない。さっき、お姉さんは過去の失敗や過ちのことを『ボタンの掛け違い』って表現したけど、そういう言い方にも反対。そのボタンを掛け違えたのって、他の誰でもなく、自分なんでしょ」
車のスピードが落ちたような気がした。
「まっさら一からやり直しても、間違いを犯さずに来れた今があったかもしれない。そんな風に自分を作れたとしたら、確かにそれは理想ですよね。でもそこから先はどうかな。やり直す以前と同じような過ちを犯さないって自信、あります?」
まくしたてるように言いながらふいに、自分は一体何に怒っているんだろう、と咲子は思った。
「何度やり直したって、きっとまたどこかで掛け違える。それでいいじゃないですか。間違えたことを大事にしましょうよ。何があったのか知らないけど、その失敗や過ちがあったおかげで今のお姉さんがいるわけで……」
話しながら、咲子は言い訳の言葉を探していた。
いつしか車は路肩に停められ、無音の暗闇にぽつりと取り残されていた。サイドブレーキが引かれる。彼女は項垂れるようにハンドルに額をつけた。横髪がその表情を隠す。
「まだお姉さんとは知り合ったばっかだからあたし、ちゃんとしたこと言えないよ。でも、今のお姉さんだってすごく魅力的だし、だからもっと自信持っていいのかなって……」
言いながら咲子は、自分の頬が徐々に赤くなっていくのを感じた。何言ってんだろあたし。今日出会ったばかりの人に、らしくもなく熱くなったかと思えば、耳を塞ぎたいくらい恥ずかしいことを言っている。
ふいに上げた彼女の横顔に、咲子はおおいに慌てる。その瞳からは涙が流れていた。ほろりと零れたというものではなく、幾筋もの涙が彼女の頬を絶えず伝い、胸や膝元に落ちていった。
言い過ぎたと思い、咲子は謝罪した。反応はない。彼女はしずかに泣きながらフロントガラスの先を見つめていた。幾度か声をかけてみるものの、普通とは違うものを感じ、黙って彼女が泣き止むのを待った。
奇妙な泣き方だった。年下から説教されて悔し泣きしている、というわけではない。ただ心に溜まった不純物を排出するため自然に溢れてきただけのように見えた。
「本当はあまり、未成年を夜中に連れ回しちゃいけないんだけど」
涙が途切れる頃に、彼女はおもむろに口を開いた。初めに見せてくれた穏やかな笑みがそこにはあった。
「もう少しだけお話ししていかない? コーヒー、一杯分だけ」
あと十五分という約束で、自宅そばのコンビニに立ち寄る。コーヒーが苦手な咲子は紙パックの紅茶オレを奢ってもらった。
紙パックとドリップコーヒーを手に車内に戻る。
彼女と色んな話をした。過去に戻れたらなんていう絵空事じゃなく、もっと現実に即した話題だった。進路や将来への不安、色恋、好みのファッション、近所でおすすめの飲食店についてなど、そんな取るに足らない内容。それでも咲子は楽しんでいたし、それは向こうも同じようだった。好きな映画や小説について話していると、彼女が咲子のエッセイを読んでみたいと言い出した。
ちょうど鞄には既刊の部誌が何冊か入っていた。どうしても今月分のネタが出てこなくて、過去のバックナンバーを辿ってヒントを得ようと持ち帰っていたのだった。
「ちょっと恥ずかしいけど、いいっすよ。良かったら二、三冊持ってってください。えーっと」
学生鞄のファスナーを開ける。コンビニの照明が車内に差していたが、暗くて探すのに手間取る。
「明かりつけるね?」
彼女が車内灯のつまみに手を伸ばしたとき、鞄の中身を車内にぶちまけてしまった。
「うわ、ごめんなさい」
「あはは、焦らなくていいのに」
車内が明るくなる。座席の下がわりと悲惨なことになっていた。筆箱やノート、お目当ての部誌も散乱している。リップや飴玉などの細かいものまで。
車内灯があっても座席下は暗くてわかり辛い。落とし物がないよう気をつけながら、咲子は一つずつ拾い集めていく。
そこでようやく会話に間が空いて、彼女は腕時計に目を落した。そして、あっ、と声をあげる。
「どうしよう、もうこんな時間!」
咲子も拾い上げたスマホで時刻を見る。1時32分。
「十五分だけって言ったのに、あぁ、わたしやっちゃった。ついお喋りに夢中になって。あなたのご家族に謝らないと!」
「いいんすよ。あたし今兄貴と二人暮らしだし。あいつ今日合コンで相当気合い入ってたから、今夜は帰ってこないかも」
「そうなの? でも明日学校とか……」
「振替休日っす。ほんと気にしなくていいんで。あたしも楽しかったし。ほら、これ部誌です。あとこれも」
荷物を集め終えると、咲子は部誌を三冊、ついでに飴をいくつか乗せて彼女に手渡した。
彼女は礼もそこそこに急いで車を出す。
自宅に到着すると、やはり彼女は申し訳なさそうに何度も謝ってきた。本当に気にしなくていいのに、良い人なんだろうな。咲子は家まで送ってくれたことと紅茶オレのお礼を告げ、車が去っていくのを見守った。
リビングのソファで、兄がいびきをかいて寝ていた。合コン用の勝負服のまま、部屋の明かりを点けっぱなしにして。よほどの惨敗だったのだろう。苦悶に満ちた寝顔だった。
兄を叩いて起こす。彼の寝巻きを持ってきて、着替えるよう命じた。兄はのそのそと着替えながら、おええ、と泣き出しそうな顔で呻いた。コップに水を注ぎ乱暴に寄越す。中々飲もうとしないので、コップを押し付け無理矢理飲ませた。こんなところで吐かれたらたまらない。
「咲子てめー、今何時だと思ってんだ。心配したぞ」
「いや寝てたじゃん」
肩を貸してやり寝室へ移動させる。ベッドへ倒れ込んだ兄は、数秒でまたいびきをかき始めた。
咲子はシャワーを浴び、パジャマに着替えて歯を磨く。キッチンの洗い物を処理した。洗濯物を取り込んで一着ずつ丁寧に畳みクローゼットに仕舞っていく。そうしていると、思い出したみたいに眠気が襲ってきた。
学生鞄を指に引っかけ二階に上がる。自室に入ると鞄を椅子の上に放り投げ、兄みたいにベッドに飛び込んだ。
目が覚めたとき咲子は自分が今どこにいるのかを見失いかけた。あれ、なにしてたっけあたし。
よく見慣れた自分の部屋だった。家に着いてからベッドに入るまでの記憶が薄い。よっぽど疲れていたらしい。
昨晩出会った女性のことを思いながら、長いことベッドの上でぼんやりする。不思議な感覚で、あれは夢だったのかもしれないという気までしてくる。
それから、あたし本当に忘れ物してないよな、と不安になってきた。
ベッドから起き上がり鞄のファスナーを開ける。中身をひとつずつ確認していると、知らない大学ノートを発見した。心当たりがある。車内で鞄の中身をぶちまけてしまったときだ。
やべ、そのとき間違ってお姉さんのを拾っちゃったんだ。
表紙には『⑫』と、通し番号のようなものが振ってある。日記か何かだろうか。それにしてもまずいことになった。咲子は彼女の連絡先を知らない。どころか名前さえも。
気が引けたけど、何か分かるかもしれないと思いノート開いた。
始めの二、三ページを読んだところで、咲子はノートを閉じる。ベッドに仰向けになり考えを巡らせる。そうしてもう一度身体を起こした。色々な事情を察したが、それ以上に、いくつかの疑問が自分の中に生まれていた。
最初のページからノートを読み返しながら、吉村くんが惚れ込むのも無理はないな、と咲子は思った。