四話
アラームの音がして、わたしは覚醒した。
おどろいて辺りを見回す。わたしは車の中にいた。車内の風景に見覚えはない。たぶん、自分の車じゃない。
ここはどこだろう?
外を見ると、どこかのコインパーキングのようだった。真っ暗な雑木林がさわさわと揺れている。左を見ると、車道を挟んで住宅街の明かりがほのかに煌めいていた。
フロントガラスの向こうに目をやる。コインパーキングの案内板が見えた。
『真白ヶ丘森林公園 有料駐車場(第二)』
真白ヶ丘森林公園って、あの関東で一番広いって言われてる公園? たしか神奈川の端っこにある。なんでわたしがそんなところに?
助手席には一冊のノートが放ってあった。表紙には『⑫』とある。
はじめの5ページまで読んで、わたしはしばらく放心してしまう。そうか、わたしは前向性健忘症になったんだ。
だけど、いつまでも落ち込んでいてもしょうがない。現状を把握するため、6ページ以降の日記を読んでいった。日記は自分への引き継ぎとしても機能しているようだった。
やがて最新三日分の書き込みに行きつく。
12月18日 6時~12時
・冷蔵庫の食材がたくさん余っている。夜は鍋でもどう? あとはお肉を買えば大丈夫。
・あまりにやることがないのでお肉を買ってきました。鍋決定。今日中に食べて。
同日 12時~18時、18時~24時
・レジ対応、良くなってきたって則子さんに言われた。本当かな? 正直実感がない。パン作りと違って手先の慣れという感じがない。
・今日は、常連のお客さんの特徴をまとめておきました。仕事用のメモ帳の15ページ以降を参照。
・鍋やりました。食材は使いきってあります。お肉ありがとう。美味しかったよ。
わたしはパン作りだけでなく、レジ打ちまで挑戦しているみたい。こんな病気を持っていて、上手く出来るとは思えないけど。
12月19日 12時~18時
・使いきってないじゃん! キャベツが余ってる。食べきれなかったらちゃんと廃棄して。 間違って食べてお腹壊したらどうするの?
・朝のわたしへ。今日は書き込みがないけど、寝坊でもした? 髪はぼさぼさ、メイクもかなり雑でした。
同日 18時~24時
・仕事用のメモ帳を読んでみて、提案です。常連さんたちが良ければだけど、彼らの顔写真を撮らせてもらうのはどうかな? それをメモ帳に載せておけば対応もスムーズにいくと思う。
・この提案を通してみたくなったら、必ず則子さんに相談して。写真を撮らせてもらうには、常連さんたちにこの病気について説明する必要があると思うから。
そしてわたしは今日の書き込みを読む。
12月20日 6時~12時
・夜、もしくは深夜帯のわたしへ。夜更かしはやめてください。ノートを読み返すと、最近目に余るなと感じました。夜遅くまで一体何をしているのか知らないけど、起きたら10時半だったし、それでもまだ眠いし。バイト休みだったからよかったけど、これがシフトの入ってる日だったらどうするの? 結構ぎりぎりだよ。朝や昼のわたしに迷惑がかかります。
変な感じだなあと思う。
同じ自分に向けてのメッセージなのに、まるで喧嘩でもしているみたい。
それにしても、夜更かししてまでわたしがやりたかったことも分からない。趣味とやらの手芸のネット販売は土日の夜しかやらないと言うし。ただ寝付けなかっただけじゃない?
それと、日記上の表現でひとつ気づいたことがある。
わたしは一日の記憶を四分割している。日記では時間帯ごとの呼び名を固有化しているようだった。
6時~12時を「朝のわたし」
12時~18時を「昼のわたし」
18時~24時を「夜のわたし」
24時~6時を「深夜のわたし」
改めて見返すと、深夜のわたしの書き込みがほとんどない。このノートには今のところ20日分ほどの日記があるが、深夜のわたしの書き込みは二度しかなかった。きっと就寝する時間と決めているからだろう。変に神経質なわたしらしいと思った。
同日 12時~18時
・キッチンに大量の生ゴミがある。いつ出たゴミかは知らないけど、こういうのってこまめに捨てるべきでは?
・マンションのゴミ捨て場に捨ててみようかとも思ったけれど、近隣住民や管理人さんに迷惑をかける気がする。量もそうだし、なにより臭いがひどい。
大量の生ゴミ? ここに来て初耳だった。たしかにどこで発生したゴミだろう。最近の日付を見返すがそれらしい記述もない。その時間の書き込みはまだ続いていた。
・以下の書き込みは、同日夜のわたしへ向けての伝言です。
腕時計で現在の日付と時刻を確認する。伝言とやらが、今の自分に対するものだと自覚する。
・生ゴミを外へ捨てに行く方法を考えました。
・カーシェアリングで車を借りました。一応、余裕をもって一泊で予約しています。
わたしはノートを手に、車を出た。
外灯に照らされ、黒塗りの車体が光を反射している。大きな車だ。自動車の車種には明るくないけど、これがトヨタのアルファードだということは分かった。後ろ側へ回ってみる。リアガラスにステッカーがあり、大手カーシェアリングメーカーのロゴが描かれていた。記憶をなくす以前は利用したことはなかったけど、いつの間にか、生活の足として契約したのだろう。
・地図を作ってあります。ゴミを捨てる場所に大体のアタリをつけたので、それを参考にゴミを捨ててきてほしい。
・時間がなく、昼のわたしは2ヵ所までしか回れていない。あとはお願い。
・ゴミと地図は、バッグドアの中にあります。
ノートを閉じて視線を落とす。
さわさわと、木々の合間を冬の風が通り抜けていた。葉のこすれる音が痛いほど耳を刺激する。わたしはバッグドアに手をかけたが、しばらくは力が抜けて持ち上がらなかった。この中に何か悪いものが待ち受けている気がしてならなかった。かといってここで無駄に時間をかけるのもまずいような。
どうしてそう思う? 嫌な予感? それとも、気持ちの問題かな。
だったら大丈夫。気持ちの整理なら、わたしの得意分野のはずだ。
息を整え、バッグドアを持ち上げる。
大きな車だけど、それにしても荷室の空間は広いように感じた。サードシートが左右跳ね上げ式となっており、それで格納スペースを広げられるようになっているらしい。
そこには、釣り用と思われるクーラーボックスが並べられていた。数は6箱。この中に生ゴミが入っているのか。確かに相当な量がありそう。異臭がするという話だったけど、車内で臭いがしないのはこのボックスのおかげみたい。
地図が置いてある。市役所で配られているような市街図だ。ここ真白ヶ丘市と、隣の秦野市と小田原市の三枚。車移動で一晩で回れる範囲に絞ってあるのだろう。
地図にはいくつか捨て場所のアタリが付けられている。三枚合わせると9ヶ所ほど。うち2ヶ所に鉛筆で抹消線がしてある。すでに回った2ヶ所というのがそれだろう。
アタリにはそれぞれ、人知れずゴミを廃棄出来そうなポイントが解説されていた。この真白ヶ丘森林公園もそのひとつだった。
森林公園についての記述はこうだった。
7.真白ヶ丘森林公園~甲名山の山道
森林公園の第一管理道路を進むと、アート広場と甲名山登山道の分かれ道があり、甲名山方面へ進む。さらに道が三ツ又に別れるので左方向へ進む。数百メートル進むと左手に『120m』を示す標高板が見えてくる。車を降り、その脇の獣道を歩くと、深い沼が見つかるはず。魚が棲んでいるので、捨てれば時間をかけて魚が食べてくれる。
そんな風にして9ヶ所のポイントにはすべて詳しい解説が記されていた。この情報が正しければ、確かに処理は出来そうだと思った。
しかし、まるでそこへ行ったことがあるかのような書きぶり。字はわたしのものだけど、どうやってこんなものを作り上げたんだろう。ネットで調べたのかな?
ゴミを捨てるための地図を作った、なんて一言で片付けられていたが、とても容易な作業じゃない。
わたしは、同じ作業を集中して続けられる時間が非常に短い。6時間を丸々使えるわけでなく、はじめの方はノートをもとに現状把握、引き継ぎ内容の整理と理解をしなければならない。いくら文章での引き継ぎを上手くやったところで、記憶というのはそれ以上に複雑で曖昧だ。ノートなんて補完の一部にしか過ぎない。
今日、12時~18時までの昼のわたしがこれを思い付き、地図を完成させ、車を借りて二ヶ所のポイントを回ったというのはとても信じがたいことだった。
そもそもの疑問が頭をつく。
どうしてここまでして、ただの生ゴミをあちこちへ捨てて回らなきゃならない?
地図を手放す。
クーラーボックスのひとつに触れると、中からひんやりとした冷気を感じた。両手で持ち上げてみるが重みがない。これは廃棄済みらしい。それならと隣のボックスをそっと傾けてみる。こちらにはずっしりとした重みがあった。それを手元まで引き寄せる。
一度、大きく息を吸い込んだ。そのまま息を止め蓋を開ける。
中から、むっととした空気が吐き出される。澱んだ空気の形が目に見えるようだった。息を止めていようが抑えがたい悪臭。目に沁みて、涙が出そうになる。
中にあるものを確認して、わたしはとっさに口元を抑えた。ポケットにハンカチがあったので、鼻ごと口を覆う。
そこには大量の肉団子が入っていた。
ピンポン玉ほどの大きさの肉の塊がボックスいっぱいに詰められている。わたしは目を逸らしたくなる気持ちを堪えた。
肉団子はどれも同じようで、少しずつ気色が違った。色は黄褐色であったり、煉瓦色っぽいものも、やけに赤みや緑がかったものまである。形もすべてが団子の形状を成しているわけでなく、ばらつきがある。
いくつかの肉団子には異物が混じっている。プラスチックみたいな白い固形物とか、無数の黒い糸屑とか。
そこまで分かったところで、わたしは音もなく蓋を閉じた。
悪臭が風に流され、その場から立ち去るのを静かに待つ。
客観的に、わたしは大分落ち着いて見えたかもしれない。やっぱりそういうことかと、不思議と腑に落ちる部分もあった。わざわざ車まで出して、この生ゴミを処理するために周到な用意をすべきな理由も、十分理解できる。
またそれとは反対に、死に物狂いで平静を保っている側面もあった。喉の奥からは押し上げるような吐き気があるし、いっそ泣き叫んで誰かに助けを求めたいという欲求もある。
わたしがそれを許さないのは、これが夢でも幻でもなく、まぎれもない現実であると認めてしまっているせいだった。事はどうやらもう進んでしまっている。今ここで泣き喚き、思考停止に暴れまわっても、何の解決にもならない。むしろ悪い方に流れてしまうのは明白だった。
とにかく今やるべきことに目を向けよう。無駄に前向きなのがわたしの唯一の取り柄じゃないか。
駐車料金を支払い、コインパーキングを発車した。
森林公園内ではカーナビは役に立たず、地図に記載された通りにルートを辿った。甲名山登山口を見つける。少し進むと確かに道は三ツ又に別れた。
左方向へ折れ車を走らせる。そこは人工的な明かりがなく、アルファードのヘッドライトが孤独に山道を照らしていた。
スピードを落として周囲に気を配る。500メートルほど進んだところで、左手から『120m』の標高板が見えてきた。この暗闇で、よほど注意していなければ見つからなかっただろう。
ハザードを焚いて車を降りる。
人どころか、生物の気配すらない静謐とした場所だった。腕時計は22時前を示している。人や車が通る心配はいらないと思い、なにより目立ちたくなかったから、車に戻ってハザードを消した。
もう一度、荷室のクーラーボックスの中身を確認した。肉団子が入っているのはあと3箱。うち2箱を両肩に提げる。荷室には懐中電灯とゴム手袋があったのでそれも持参する。
懐中電灯を片手に標高板そばの獣道とやらを捜してみたけど、よく分からない。冬にも関わらずそこは雑草が好き放題に生い茂っている。
恐らくこれだろうという脇道に入る。露出した肌に木々の枝や雑草の葉先が当たって不快だった。このような道のりになると分かっていながら、どうしてわたしはラフなワンピースとカーディガン、ニューバランスのスニーカーという服装なのか。わたしは、昼のわたしに物凄く文句を言いたかった。
沼を見つけたのは30分ほど歩き回ってからだった。
登山道の外れというのは風景がほとんど変わらず、舗装された道もない。しかも夜だったから大変な苦労だった。重いボックスを二つ両肩に抱えた状態なら尚更だ。ていうかわたし、ちゃんと車に戻れるかな?
でもそれだけ人に見つかりにくい場所という事なんだろう。
残された時間に焦りを覚える。
さっそくクーラーボックスを降ろし、ゴム手袋を装着した。
沼は広く、確かに深そうだった。明かりを当ててみるが水面は濁っており、底がどうなっているかは分からない。だが微かに魚の気配もあるようだった。ここで間違いないらしい。
沼のそばへボックスを引きずり、中身を一個ずつ放っていく。ぼちょん、ぼちょん、と肉と水面がぶつかる音が周囲に木霊す。
大した作業じゃない。なのにわたしの額には嫌な汗が浮かんでいた。なにかこう、ああわたし、もう後戻り出来ないんだな、という気分がしていた。
でもそれは見当違いな考え方だった。後戻り出来なくなったのって、もっと前の事だろうから。
薄々、勘付いていることがある。
この肉団子を捨てる作業って、実は初めてじゃない。地図の完成度や、クーラーボックスの所持がその所以だ。
わたしはノートの一節を思い返していた。パン作りについての自分へのアドバイスだ。
・自分には『手続き記憶』というものがある。手先足先の直感的な運動技能であれば身体が覚えてくれるのだ。これは今のバイト先で大きく役に立っている。特に、パン作りや調理器具の扱いには自信を持っていい。
本当にその手続き記憶とやらがわたしに備わっているとすれば、この肉団子を捨てる作業も例外ではない。脳が命令するより先に、わたしの手は小慣れたように肉団子を沼へと放っている。ゴム手袋越しに肉団子に触れる手のひらに、やけに馴染む感覚があった。どんな風にこれを作ったのかが、なんとなく分かってしまった。
どんな風にこれを作ったか?
やっぱりわたしは泣き叫びたかった。誰か悪い人に騙されているだけかもしれないと心のどこかで期待していた。そんな甘い考えがそこで打ち消された。一連の行動の責任は全て自分にあるらしい。後戻りも、もう逃げられないということも、嫌でも理解出来てしまう。
いつの間にかクーラーボックスは二つとも空になっていた。わたしは沼の水面を見下ろす。月明かりを受け、そこに泣き出しそうな顔が映っていた。水面下の魚の流動により、その顔はゆらゆらと歪んだ。
軽くなったボックスを肩にかけその場を後にする。
またしばらく歩いて山道に出る。辺りを見回すと、すぐそばにアルファードが見えた。ほっとしてそちらへ歩み寄る。
そこでわたしは足を止めた。車の方から人の気配がしたからだ。
暗闇により人影の正体は判然としない。ただ、物珍しそうに車を眺めているのが分かった。
ひと仕事終えたあとの油断しきった頬が、一気に引きつる。心臓が早鐘を打ち始める。自然と足が震える。思考が停止して、逃げる事すら出来ずわたしはその場に立ち尽くしてしまった。
かろうじて腕時計に目を落とし、わたしは余計慌ててしまう。23時57分。
かなりまずい状況だった。こんなところで記憶がリセットされてしまえば、わたしはきっとパニックを起こすだろう。どこだかも分からない暗い山道で、片手に懐中電灯、両肩には空のクーラーボックス。そんな中、記憶を失った状態であの人物に対処しなければならない。ノートは確か……あの車の中。何やってんだわたし? 命の次に大事なノートを置いてきちゃうなんて。
やがて人影がわたしの存在に気付き、近づいてくる。
「あぁ良かった。あのー、ちょっとごめんなさい」
それは棒付きの飴を口にくわえた女子高生だった。サイドポニーに結った髪を胸の前に流している。彼女は人見知りっぽいぎこちない笑みを浮かべながら、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「けっして怪しい者じゃないんですけど、考え事しながら散歩してたら道に迷っちゃって。お姉さん、ここがどこだか分かります?」
どう答えようか迷っていたところで、腕時計のアラームが鳴った。