三話
アラームの音で我に返る。
瀧本ベーカリー、そう書かれた立て看板がまず目に入った。
びっくりして辺りを見回す。ここはどこだろう?
すぐそばに駅が見える。北真白ヶ丘駅。聞き覚えのある地名だ。それなりに人通りも多いが、どこか閑散とした駅前商店街という雰囲気がある。
ふと、自分が手にしたノートに気づく。表紙には『⑨』と番号が振られている。
はじめの2、3ページを読んだところで、わたしは自分が置かれた現状のおおよそを把握した。4ページ目にはこう書かれていた。
・わたしは瀧本ベーカリーというパン屋でアルバイトをしている。
・毎週平日5日間、12時30分から17時30分のシフトを約束している。人手が足りなければ18時から閉店まで勤務することもある。
・記憶リセットの関係上、12時までにはノートを手にして店に到着しておくこと。
・業務は主に厨房のパン作り。あとは簡単な事務作業と清掃。詳しいことは瀧本則子さんに尋ねること。彼女はわたしの病気のことを知っている。
瀧本則子さん。このパン屋さんの店主のことだろうか。
視線を前方に戻す。
昔ながらの少し洒落たパン屋さんだった。一般家屋を改造したようなお店。小さな庭があり、花壇に花が植え付けられている。
店から、恰幅のいい中年女性が出てくる。
「古都実ちゃん、こっちよ」
あれが瀧本則子さんかな。ノートを閉じて固まっていると、則子さんが首を傾げる。
「もしかして、まだノート読んでないの?」
わたしは首を振り、読みました、と小さい声で答えた。
「今日はいつもより手こずりそうね。ほら、早くこっちへいらっしゃい」
則子さんはわたしの背中をドンと叩いて豪快に笑った。おじさんみたいな人だなあと思った。知らない人からここまで馴れ馴れしくされるのも不思議な感覚だった。あ、知らない人じゃないのか。きっとわたしと則子さんはここで何度も会っているんだ。
従業員用のロッカー室に通される。則子さんからお店のユニフォームを渡される。赤いエプロンとスカーフ、少し凝ったデザインのハンチング帽だ。わたしの好みど真ん中のユニフォームで、わたしがこのパン屋さんを選んだ理由が分かった気がした。
着替えながら、わたしは則子さんのお腹をちらちら見ていた。彼女は本当に恰幅がよく、その大きなお腹にはもうひとり人間が入っていてもおかしくなかった。
「妊娠してないわよ」則子さんは自分のお腹をさすってみせる。「パンの食べ過ぎでこうなったの。余ったパンを廃棄するのって、どうももったいなくて」
わたしはくすくす笑った。
「わたしも、余ったパン頂いていいんですか?」
「いいけど、古都実ちゃんせっかくスタイルいいんだから真似しない方がいいわよ」
そうして二人で笑った。
「このやりとり、もう五十回目くらいだわ」
そう言われて、わたしは笑うのをやめてしまった。わたしにとっては新鮮な会話だったけど、則子さんはもう飽きるほど繰り返してきたことなのだろう。だけど則子さんは、それが五十回目とは思えないほどゲラゲラと笑っている。わたしがこの店で働こうと思った理由が、またもうひとつ知れたと思った。
厨房に入る。そこには色んなパン作りのマニュアルが要所要所に置いてあった。きょろきょろと周囲を見回し戸惑っていると、則子さんはわたしをほったらかしてお客さんの対応を始めてしまった。
「あのう、わたしは何を」
「タイムスケジュールを見て、いつもの通りパンを作っていけばいいわ」
則子さんはレジに小銭を継ぎ足しながら言う。
「わたし、パンなんて作ったことないです」
「作り方はマニュアルを見れば分かるようになっているし、あとは古都実ちゃんの身体が覚えてるわ。大丈夫、自分を信じて。あなたはもうここで一年も働いているのよ」
一年? そんな気はまったくしないけど、則子さんが言うにはそうらしい。
わたしは自分の両手を見下ろす。見覚えのない手だった。飲食店員特有の湿疹が出来ており、それはアパレルで働いていた頃のわたしの手ではなかった。夫と暮らしていたときだって、仕事が忙しくて料理もほとんどしなかったし、手荒れとは無縁だった。
わたしは何度も何度も、ここでパンを作ってきた。なのに、わたしにはその実感がない……。
大丈夫、自分を信じて。
則子さんの言葉を胸のうちで繰り返す。
積み重ねとは、記憶とはなんだろう。そんな考えがふいによぎり、頭を振る。お昼どきでお客さんの入りが激しくなってきた。余計なことを考えている場合じゃなさそうだ。
カウンター横に貼られたタイムスケジュールを見る。今はパンの焼成をする時間だった。二次発酵を終えた生地から順に窯入れを行う。
焼成について作られたマニュアルを脇に広げ、生地を天板に並べていく。固く弾力のあるパン生地に触れたとき、ピンと来るものがあった。
それはわたしが今まで、毛糸や裁縫針や糸切挟みにさんざん触れてきた感覚とよく似ていた。もちろん裁縫とは違い、わたしにはパン作りの経験などないはずだった。とても不可思議な感覚で、生地に手を当てただけで、これらがどういう風にこねられ、叩かれて出来たものなのか、おぼろげに分かった。それを踏まえた上での焼きムラのない生地の並べ方、窯へ入れるべきちょうどよい発酵状態や、オーブンの操作方も。どれもマニュアルにも書かれていたことだけど、見るまでもないのでは、という思いまでしていた。
本当にできるかもしれない。
わたしはこの感動を則子さんへ伝えたかったが、彼女はお客さんとの世間話で忙しそうだった。
16時を回る。
お昼どきから学校や仕事帰りの間の、店の雰囲気がおだやかになる時間帯だ。お客さんの出入りはあまりなく、わたしは翌日の朝に向けて、黙々と生地を手ごねしていた。まるで粘土遊びでもしているようで楽しかったし、それとは反対に、考えることさえうんざりするほど無意識に行える作業でもあった。
見ると、則子さんはカウンターの椅子に座り、ぼんやりと店外の景色を眺めていた。
わたしは手を止め、彼女の肉付きのよい背中をじっと見つめる。ふと、ある疑問が口をついた。
「どうして、わたしを雇ってくれたんですか?」
それは、すぐに忘れてしまうわたしがしてもあまり意味のない質問だった。
「毎回毎回、出勤するたびに状況を教えて、仕事を教えてくれて、こんな面倒くさいやつ、どうして採用したんですか?」
「この会話は、だいぶ久しぶりね」
則子さんは店の外を眺めたままだった。
「わたしは今日何も教えてないわよ。古都実ちゃんはほとんど自分で思い出して、自分ひとりで仕事をやってるじゃない」
思い出して、という言葉が痛かった。わたしにとって、思い出す、という行為は遠い昔に失った技能である。技能と表現するまでもない、誰もが当たり前にもっている基礎能力なのだから。
麺棒をぎゅっと握る。手に汗がにじんでいた。
「それは、ここに貼ってあるマニュアルのおかげです。わたしのために、則子さんが分かりやすく作ってくれたんですよね。わたしが上手く出来るようになるまで、きっと何度も試行錯誤して作り直してきた。厨房機器やパンのこね方なら手が覚えているみたいだけど、最初の方はひどかったんでしょう? パンを作ったこともなければ、何度同じことを教えても何ひとつ覚えられない。どれだけ則子さんが苦労したか、それすらもわたしは覚えていない。こんな役立たずのわたしを、何も言わず、今まで優しく見守っていてくれたんですよね。則子さんとは今日が初対面という感じしかなかったですけど、わたしはあなたに大きな恩があるような気がしてならないんです」
則子さんは振り返らない。相変わらず前を向いたままだった。
わたしはその背中に、何故かうしろめたさのようなものを感じた。やがて大学生風のお客さんがやってきて、彼女はレジ打ちをし、紙袋にパンを入れて笑顔で手渡した。
大学生が退店すると、則子さんはため息をついて再び椅子に着く。
「たしかに古都実ちゃんは、役立たずかもしれないわね」
分かっていたことを改めて他人の口から言われて、わたしは少し傷ついた。
「何か勘違いしているようだけど、私は優しくもなんともないのよ。これは単なるエゴでしかなくて、わたしはそんな古都実ちゃんを利用しているだけかもしれない」
「利用……」
「高校生になる娘が居たのよ。ひかり、っていうんだけど」
則子さんはふいに上方を指差す。ちょうどこの上が娘の部屋だった、と彼女は話す。
「とっても簡単な話よ。夫と離婚して、私は女手一つで娘を育てた。育てたっていうのはすごく表面的な意味ね。夫のいないこの店を守っていくのはすごく大変で、娘に構ってあげる暇がほとんどなかったのね。もう高校生だし手はかからないだろうって、何か思い違いをしていたみたい。気づけばひかりはこの家から居なくなってしまった。今、どこで何をしているのかしらね。男でも作って棲み着いているのか、それともどこか夜の街ででも働いているのか」
わたしは黙って聞いていた。
「捜索願いは出しているけれど、まあ見つからないもんね。それだけ上手くやっているってことでしょう。私はあの子のやることに口出しできないのよ。それほど娘をほったらかしにしてしまったし、今さら口を出す資格がないくらいに無関心だった。それにあの子なら心配いらないと思う。本当に手のかからない子だったから」
則子さんの背中は嘯く。それが本心であるのかそうでないのか、わたしには判別できないけれど。娘はどこかで元気にやっていると、生きているはずだと、自分自身に言い聞かせているように見えた。
「そういう手のかからない所がいじらしくて、そして憎らしかったのね。そんな風になってしまったのも私のせい。この歳になってやっと実感したわ。お金や家庭を与えるだけじゃ親としては二流。関心を持ったり、愛情をあげることが何よりも大切だったのね」
「わたしは、ひかりさんとは正反対みたいですけど」
「だから良かったんじゃない。私は娘への罪滅ぼしに誰かに手をかけてあげたい。そこに古都実ちゃんが現れた。あなたは何かに怯えるみたいにうちにやってきて、自分の病気について話してくれた。そのとき、この子ならって思ったのよ。私が娘にしてやれなかったお世話を嫌ってほどしてあげられる。ね、ただのわがままでしょう? 利用するっていうのはそういうこと。だから古都実ちゃんは何も気にせず、私のお世話になっていればいいのよ」
則子さんはそこでようやく振り返る。その顔には満面の笑みがあった。わたしは盛岡の実家を連想する。則子さんの表情はどこか安心する、紛れもなく母親然とした笑みだった。
終業間際、則子さんから「そろそろレジ打ちやってみない?」と唐突に言われ、わたしは硬直してしまう。
「でも、またわたしに新しいことを教えるのは大変じゃないですか?」
わたしの返答には隠しきれない嬉しさと、一抹の困惑が混じっていた。
「古都実ちゃんがうちに面接に来たときのこと、思い出しちゃったのよ。ちょうど一年前、こんな寒い季節だった。あなたがその時していたマフラーが印象的でね」
「マフラー、ですか」
「そう。白とネイビーの、ストライプ柄の。それですっぽり顔を隠してやってきたのよ。ちょうどひかりも、あんな感じのマフラーしてたなあって。やだ私、本当にひかりと古都実ちゃんを重ねてるわね」
則子さんは手を振って照れ笑いした。
「覚えていないでしょうけど、あのとき古都実ちゃんはこう言ったの。『新しいことを始めたい』って。当時の私はそれを言葉通りの意味でしか捉えられなかった。でも今なら少しだけ分かるのよ。古都実ちゃんがどれほどの覚悟でそれを口にしたのか」
則子さんは残り物のパンを美味しそうに頬張り、感慨深く息を吐いた。
わたしは、新しいことを始めたいと思いついた、一年前のわたしについて考えた。考えれば考えるほど当時のわたしの気持ちは理解しがたいと思った。
だって、意味がないからだ。わたしの記憶は数時間しか続かない。苦労して新しい知識や経験を得たところで、わたしの脳にそれらは吸収されない。水を含んだスポンジを両手で絞りとるように止めどなく零れ落ちてしまう。今さら何をどう足掻こうが、わたしの時間は記憶障害を患った瞬間からストップしたままだ。
店内に貼られたカレンダーに目をやる。
夫から暴力を受けたあの日から、二年近くが経っていた。当然その分歳を取り、わたしは24歳になっているはずだった。23、24歳の誕生日がどうだったのか、それすら覚えていない。わたしはどうやって過ごしてきたんだろう?
この二年間を、どんな風に。
急に、胸の奥が苦しくなった。
呼吸がし辛くなり、何度か咳き込んで胸のあたりを抑える。とても立っていられる状態じゃなくて、わたしはその場にへたり込んでしまった。
「古都実ちゃん?」
則子さんが慌てて駆け寄ってくる。抱き起こそうとする彼女の手をわたしは制した。大丈夫です、と言いたかったけどうまく声が出ない。
わたしは、自分の置かれた境遇がどんなものなのか、少しだけ分かった気がした。記憶が続かないということが、覚えられないということが、積み重ねられないということが、経験できないということが、どういうことなのか。
次のリセットまで、あと数分程度だろうか。うまく言葉にできないけど、その瞬間が無性に恐い。出来ればノートに書かれたことが全て嘘であってほしいと思う。わたしはきっと22歳のままなんだ。昨晩はお酒の飲みすぎで夢を見ていただけで、これは手の込んだテレビのドッキリかなにかで、このノートも、カレンダーも、パン屋での出来事も、全部誰かが巧妙に仕立てあげたものなんだ。それでどうにか説明がつかないかな。むしろ、どうかそうであってほしいと願う自分がいた。
記憶とは、歩んだ人生そのものなのかもしれない。これから先を何年生きたところで、わたしにはその記憶が残らない。それって死んだも同然じゃないか。22歳のあの夜に……。
いや、とわたしは思う。
自分の両手を見下ろす。荒れきった手のひらを見つめる。それから顔を上げ、則子さんと視線を合わせた。
全く希望がないわけじゃない。何故だかわたしの手はパンの作り方を覚えているし、それに記憶が持たないのはわたしだけの問題だ。手先などの運動的な技術を習得したり、新しく人との繋がりを作ることなら、わたしにも出来そうだ。悲観するのはまだ早い。どうやらそうらしいと割り切ろう。だったら、それからどうする?
「わたしやります」
則子さんはポケットからハンカチを出しかけ、その手を止めた。
「新しいこと、始めたいです」
そこで腕時計のアラームが鳴った。