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二話

 アラームの音がして、わたしは見知らぬマンションの一室で目覚めた。

 ここはどこだろう?

 部屋中を歩き回る。平凡な3LDKだ。寝室にはベッドとサイドテーブルとソファのみ。和室には手芸道具やパソコン。キッチンには必要最低限の物だけ。全体的に殺風景で家具も少ない。壁にはポスターの一枚もなかった。

 ただ気になるのは、リビングに妙に大きな室内倉庫が設置されていることだった。


 そこで視線を落とす。

 わたしはようやく、自分がノートと黒のマジックペンを持っていることに気づいた。表紙には『①』と通し番号が振られている。寝室に戻り、ノートを開いてみる。


・わたし(北山古都実)の記憶は6時間しか持たない。

・相良行秀の暴力により、前向性健忘症を患った。

・記憶は、0時、6時、12時、18時を境にリセットされる。記憶を失った日からこれまでのことが思い出せない。


 1ページ目にはそのようなことが書かれていた。

 この状況を冷静に振り返る。自分にそっくりなその字体を繰り返し眺める。信じがたいことだけど、わたしは前向性健忘症になったらしい。

 ノートをめくる。2ページ目以降は、自身の生活環境について簡単な概要が書かれていた。


・行秀とは離婚した。離婚の手続きや後処理は済んでいるので心配しなくていい。

・離婚に関してまた問題が発生したら専属の弁護士へ連絡すること。連絡先は5ページへ。


 わたしが旧姓で書かれている時点で察しはついていたが、やっぱり彼とは別れたようだ。5ページ目には自分にとって必要そうな連絡先や住所が記載されている。さっきの弁護士のいる事務所や、定期的に通院している病院、近くの郵便局や市役所などが一覧で記されている。また、それぞれに利用する上での簡潔な注意書きがされていた。

 2ページへ戻る。


・現在、真白ヶ丘市田暮町のマリーズマンションという所で一人暮らしをしている。

・記憶障害を患ってしばらくは入院生活を送っていたが、このまま入院していても回復の見込みは薄いと医者に言われ、現在の場所へ移り住むことを決めた。


 漠然とした不安を覚えた。

 わたしは障害を抱えながら、この殺風景なマンションで一人暮らししているのか。

 真白ヶ丘市。それってたしか、神奈川県の西側だよね。行秀さんとは川崎で暮らしていたから、同県の地名ならなんとなく聞き覚えがある。でも、こう言っちゃなんだけど、真白ヶ丘なんて神奈川の片田舎って印象しかない。過去のわたしがこの地を選んだ理由もよく分からない。

 そもそも、なぜ地元に帰らないのだろう。実家は岩手の県庁所在地にある。両親もずいぶん年を取ってしまったけど、まだまだ現役で働いているし、決して裕福ではないもののそれなりの経済力はある。

 わたしには重い記憶障害がある。実感ないけど。このノートを見るに、相当苦労の多い生活を送っていることだろう。誰かの助けもなく、このまま暮らしていくつもりなのか?

 暴力夫のDVで離婚して、怪我の後遺症まで負ってのこのこ帰ってきた不運で可哀想な一人娘。そんな、両親の哀れみに満ちた視線を受けるのが嫌だったのだろうか。

 自分の心に問いかけてみる。たしかに、それは嫌かもしれない。だけど今の生活を続けるリスクを考えればずっとましだ。わたしは一体、なにを強がっているんだ?

 3ページ目には、今の経済状況について書かれてあった。


・元夫からの慰謝料が毎月分割で振り込まれている。弁護士が要求した最高額だ。

・また、重度障害の保険金が下りている。貯金残高は通帳を確認すること(電話台の一番上の引き出し)。

・今のところ金銭面の不自由はない。


 やっと安心できる情報が見られた。ひとまず貧困状態じゃないのは不幸中の幸いかもしれない。

 が、次の文を見てやはりわたしは落ち込んでしまう。


・今は無職でアルバイトもしていない。

・なにか職を探さなければと考えている。


 それはそうだろうな、と思う。

 慰謝料の支払いが終われば月の収入はゼロだ。貯金もいつ底をつくのか知れない。あとで通帳を確認しようと思うけど、ちょっと勇気がいる。

 しかし「職を探さなければ」なんて簡単に言うけど、前向性健忘のわたしに出来る仕事なんてあるのかな。いくら仕事を教わった所で、たったの6時間で忘れてしまう。はっきり言って使いものにならないだろう。


・趣味程度ではあるが、ハンドメイドの装飾品をネット販売している。

・作業は土日の夜、和室で行っている。道具やパソコンはすべてそこに揃っている。アイデアが浮かんだり、道具を買い足す必要があればこのノートに書き留めること。

・新商品が完成したら必ず、ブログ、ツイッター、インスタグラムで告知すること。告知方はパソコンのテキストを参照。

・売上管理はスマホで行っている。


 また別の意味で目を疑ってしまう。こんな状態で趣味? 自分のことながら呑気なものだ。

 わたしは服飾系の専門学校を卒業し、その後もアパレル業界で勤めた。それに以前からプライベートでも手芸を嗜むことはあったが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。

 サイドテーブルに置かれたiPhoneを手に取る。それらしいアプリを開くと、月々の売上が表示された。

 ネット販売を始めたのは、およそ七ヶ月前だったようだ。最初の頃は本当に雀の涙程度だったが、最近では数万単位で稼ぎ出すようになったらしい。

 趣味程度とは言うが、案外たくましくやっているみたい。だけど、これだけじゃ足りないという自覚はあるのだろう。職を探さなければ、というのは当然の発想だった。


 基礎的な情報はこの5ページまでにまとめられているようだった。

 5ページ以降には、日記のようなものが綴られていた。書き込みは二日分ほどしかない。このノートを使い始めて、まだ日が浅いのだろう。

 初日の書き込みを見る。


 11月30日 18時〜0時

・このページ以降、今後の生活について自分への引き継ぎを書いていくことにする。

・和室に暖房器具がない。寒い冬に向けてヒーターか何かが欲しい。

・寒い冬で思ったんだけど、新しい商品はマフラーなんてどうかな? 自分の客層を考えると、若い女の子向けのものが良いと思う。

・洗顔剤が切れたみたい。次回買い物に行ったら忘れずに買うこと。


 ただの日記ではないようだ。身の回りで起こったこと、次に必要な買い物、今後やるべきことを記していくらしい。何か行動を起こすなら、必ず近日分の書き込みはチェックしておいた方が良さそうだ。

 洗顔剤の書き込みの下に、修正テープの跡が残っている。見るとその下の行にも。余計なことでも書いてしまったかな? そんなこと気にしなくていいのに。二行分も使うなんて、修正テープが勿体ないと思った。切れたらまた買いに行かなくちゃいけないじゃないか。

 二日目に目を移す。


 12月1日 12時〜18時

・まちがって洗顔剤を買ってきてしまった。まだ替えが二本も残っていたのに。

・お茶っ葉が三袋もある。とても飲みきれない。

・何がどこにあるのか分からない! だから余計な買い物をしてしまうんだ! 家中に貼り紙をすること!


 それまでボールペン書きだったのに、急にマジックで大きく書かれていたので、少し驚いた。よっぽど興奮しているらしい。というか、怒ってる?

 でも、この文章を書きたくなるわたしの気持ちも分からないでもなかった。右手にしたマジックペンに目をやり、サイドテーブルに置く。

 さきほど部屋を見て回ったことを思い返した。わたしの家とは言うけど、記憶のない人間にとっては他人の家も同然なわけで、何がどこにどれだけあるかなんて、当然知るはずもない。

 シャンプーの詰め替え、電池のストックは? 布団のシーツや洋服だっていつ洗濯したかも覚えていない。ぼうっとしていたら、いつ買ったかも分からない古いお米を食べてお腹を壊してしまうかもしれない。ノートに情報をまとめるアイデアはいいけど、細々とした伝達をいちいち記入するのも面倒だし、読む方も大変だ。貼り紙や付箋で部屋中に案内や引き継ぎを貼って回った方が、確かに生活が便利になるかもしれない。


 腕時計は15時50分を示していた。次の記憶リセットまでまだ時間がある。

 わたしはノートを閉じ、寝室を出た。文房具類は電話台にあるようだ。通帳や重要書類は引き出しの一番上。二番目を開けると、余ったノートやコピー用紙、少しだけど付箋も入っていた。

 三番目にはラミレーターとフィルムが収納されている。不変的に掲示しておきたいものには使えそうだ。たとえばどこかに部屋の見取り図を貼って、大まかな物の位置を書いておくとか。

 なんだか少し張りが出てきた。

 わたしはコピー用紙とマジックを手に部屋中を回る。

 まずはリビング。電話台の引き出しを中身ごとに分類する。リモコンやケーブル類は無くさないよう場所を固定した。

 キッチンでは調味料と調理道具を整理していく。戸棚には何があるのかを明確にする。冷蔵庫には、常に置いておきたい食材の量と種類を表記した。

 お風呂とトイレは収納が少なく、詰め替え品やトイレットペーパーは和室の押し入れに突っ込まれていた。これじゃ、間違って買ってきてしまうのも無理はない。

 衣類は寝室のクローゼットにまとめられていたので、冬服と夏服の住み分けを簡単に行う。洗濯やクリーニング店を利用したときなど、忘れないように利用表のようなものを作った。

 和室の手芸道具にも手をつけた。次に作るのは、マフラーだっけ。生地や材料の残りが少ない気がしたので、寝室に戻り、ノートにお使いを書き込む。

 そんなことを延々とやっていたら、部屋中がすっかり付箋と貼り紙だらけになっていた。我に返り客観的に部屋を見る。

 あれだけ殺風景だった部屋が大分騒々しくなってしまった。だけど、背に腹は返られない。この方が便利になるに決まってるんだから。


 ついでに、掃除機とクイックルワイパーを片手にあちこちを回る。掃除は定期的に行っているようだ。埃はあまり目立たない。ほとんど外に出ない生活だから暇なんだろう。

 ふと倉庫が目につき、掃除機を引っ張って歩み寄る。

 そういえばここはまだ何も手をつけていなかった。

 扉に貼られたシールを見ると、これが防音室であることが分かった。一体いくらしたんだろう? 倉庫と間違えて買っちゃったのかな。夫と暮らしていたときの私物が見当たらないが、もしやこの中に押し込まれているのかもしれない。


 扉を開ける。

 予想に反して、中はさっぱりとしていた。

 4畳ほどの空間。中央には古めかしい椅子が一脚と、そばには作業台がある。隅には大きめの木箱がいくつか。カラーボックスには工具箱が入れられており、金庫のようなものまである。さっぱり意図が分からない。手芸に続いて、わたしは日曜大工でも始めるつもりなのかな。随分趣味に意欲的だ。

 しかしあるものといえばそれくらいで、このグランドピアノでも置けそうなほど広い防音室の存在意義を計りかねた。

 ともかく掃除機をかけ始める。他よりもここは掃除が行き届いているようだった。まるでついさっき掃除を終えたかのような。

 白い壁に目が行く。所々、黒くくすんだ汚れが目立っていた。濡らした雑巾で擦ってみるが、中々落ちない。汚れは床にもいくつかあった。中古品なのだろうか。かなり状態の悪いものを掴まされたようだ。

 わたしは雑巾に滲んだ汚れを眺めた。明かりに照らすように、角度を変えて確認する。なにか、違和感があった。

 今度はカラーボックスの工具箱に目をつける。職人さんが使うような立派なものだ。中にはのこぎり、ペンチ、はさみ、ナイフ、何故かスプーンやフォークまで入っている。どれも一度は洗浄されているものの、使い古しや刃こぼれが隠せない。

 カラーボックスの上には金庫があるが、4桁のダイヤル式だ。パッと思い付く数字を回してみるが、開きそうもない。ノートを見てみるがそれらしき記載もなかった。

 木箱の中はさらに異質だった。手錠、足錠、ロープ、猿轡。いやどういう趣味? しかも、どうにも使用感が拭えない。

 わたしはロープをつまみ、宙へと引きずり出した。そこへ付着した汚れに既視感を覚える。やがてロープの結び目にへばりついた物の正体に気づくと、わたしはそれを手離しトイレへと駆け込んだ。


 喉の奥から嘔吐感がせりあげてくる。わたしは便器へ向けて吐き出した。

 ロープの結び目に挟まっていたもの。見間違いじゃなければそれは、肉片と人の爪のようなものだった。




 自分の胸に手を当ててよく考えてみろ、なんて台詞がある。刑事ドラマや教師もののドラマでたまに聞く言葉だ。

 それが出来たら苦労はない。少なくとも、記憶障害のわたしにとっては。

 寝室でノートを開き、隅から隅まで読み漁った。何も書いていないページまで一枚ずつ確認した。

 説明しろ、とわたしは思った。あの防音室はなんだ。木箱は、工具箱は、金庫は、爪や肉片は? この部屋で何が起こった? そして、過去のわたしは一体何を知っている?

 何か書かれていないかと縋る思いでページをめくっていると、そこでiPhoneのアラームが鳴った。

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