一話
アラーム音に目を覚ます。
わたしは知らない部屋のベッドに居た。
ここはどこだろう?
辺りを見回す。白いカーテンとカーキ色のソファが見えるが、それ以外に家具はほとんどない。寝室として使われている部屋なのだろう。
だけど、やっぱり見覚えがない。
それでわたし、今まで何してたんだっけ。
ぼうっとした頭が徐々に冴えてくると、とつぜん、先ほどまでの光景がフラッシュバックした。
慌てて頭を抱え、その場にうずくまって身を守る。しばらくそうして肩を震わせていたけど、辺りがやけに静かなことを知って恐る恐る顔をあげる。
大丈夫だ、落ち着け。どうやらここに行秀さんはいない。
たしか昨晩は、行秀さんからひどい暴力を受けた。会社の飲み会で遅くなるからと彼には連絡を入れたのだけど、酔いつぶれた後輩を介抱したので、すっかり帰りが遅くなってしまった。
タクシーで後輩を送って帰宅すると、行秀さんは玄関でわたしを待ち構えていた。いきなり髪を鷲掴みにされ、わたしはびっくりした。そして反射的にごめんなさいと謝った。
行秀さんは何も聞こえていないみたいに、わたしをリビングへと引きずっていく。そして無言でわたしを殴りはじめた。
ごめんなさい。
これからはちゃんと早く帰るから。
必死の思いで謝り続けたが、それは余計彼を興奮させるだけだった。
行秀さんはどうしてしまったんだろう。それまでにも彼から暴力を受けたことは何度かある。肩を殴られたり、お腹を蹴られたりなどだ。彼は小心者で、表に出るような傷は作りたがらない。
そう思っていただけに、いきなり顔を殴られたのには驚いた。
そのときの彼に表情はなかった。なにか箍が外れてしまったように、何度もわたしに拳を落とす。殺されるかもしれない、初めてそんなことを思った。
ひとしきりわたしを殴り終えると、彼は肩で息をしながら廊下の方へ出ていく。
しばらくはぐったりして動けなかった。経験したことのない量の鼻血が溢れ、呼吸するたびにごぽりと嫌な音がした。舌を噛んだようで、咥内いっぱいに血の味がした。じゃりじゃりとした異物感がある。歯が何本か欠けているらしい。
いまわたしの顔、どうなってるかな。明日会社には行けるかな。そんなことを呑気に思った。
するとリビングの扉が開いた。床に横たわったままそちらに目をやる。
行秀さんの手には細長い棒が握られていた。
上司からの誘いで、彼が初めて購入したゴルフクラブだった。
最後の記憶は、頭上から振り落とされるゴルフクラブ。
わたしはそれを避けようとして頭を逸らしたはずだったけど、そこからは何も覚えていない。
するとここは、わたしを助けてくれた何者かの部屋だろうか? 少なくとも病院には見えないから、真っ先にそう思った。
だけど、あの状況で助けに入れる者がいたとは思えない。
きっと行秀さんは、わたしを殺すつもりだったんだ。あれはいつもの暴力とは違い、容赦がなく、機械的だった。わたしがどうなっても構わないという勢いと冷静さがあった。きっとクラブを持ってくるついでに玄関の鍵も掛けておいただろう。
身震いする。
じゃあわたし、死んだのかな?
その証拠のように、いまは身体のどこも痛くない。むしろ健康的な快眠のあとみたいに体が軽い。先ほどの死の恐怖の余韻とは、まるで乖離していた。
だけど、ここが死後の世界という風には見えないのもまた事実だった。まあ、死んだことないから分からないけど。
ゆっくりと身を起こし、フローリングに両足をつける。
ふと、枕元のサイドテーブルにA4サイズのコピー用紙が置かれているのに気づいた。用紙はパウチ加工されており、両面テープでテーブルに貼り付けてあるようだった。それなりに使い込まれており、フィルムの端は剥がれかけ、部分的に拭き残したコーヒーカップの跡がある。
・わたしの記憶は6時間しかもたない。
・元夫の暴力により、前向性健忘症を患った。
・記憶は6時間経つとリセットされる。
用紙には三行だけ、大きな文字でそう書かれていた。
一度読んだだけでは頭に入らず、何往復かその文字を目で追う。そして、いくつかの疑問が浮かんだ。
わたし。わたしとは、誰のことだろう。やっぱり、行秀さんの暴力から助けてくれた何者かが居るのかもしれない。これは、その人物のことを言っているんだろうか。
前向性健忘症。それがどういう病気なのかなんとなく知っている。学生時代に映画にはまった時期があって、そこで「メメント」や「博士の愛した数式」などを観た。物語の題材としても、それが実在する記憶障害だということも、知識としてある。
だけど何故こんな書き置きをしておくのか。
もちろん、自分自身に伝えるためだ。前向性健忘を持つ人は他の精神系疾患と同じように、病識がない場合が多いという。自分に機能障害があるという自覚がないのだ。
わたしはため息を吐き、天井を仰ぐ。
さっきは気づかなかったが天井にも貼り紙があった。
・行秀はここにはいない。
まだ確信は持てないけど、どうやらこれはわたしのことらしい。
気づかないふりをしていたけど、どうも見覚えがあると思った。この寝室にある貼り紙は、どれもわたしの字だ。
元夫の暴力ーーつまり行秀さんのことだろう。離婚の手続きをした覚えはないけど、きっとそれは『ただ覚えがない』だけなんだ。この不可解な状況を説明するためにはそう思い込む方がより自然だった。死後の世界なんていうより、よっぽど理屈に合っている。
そもそも行秀さんから暴力を受けたのは昨晩じゃない。無傷の身体がなによりの証拠だ。あれは一ヶ月前のことかもしれないし、一年前かも、あるいはもっと前かもしれないんだ。
どうやらそうらしい、と分かったときの私の整理は早い。人に自慢できるようなことじゃないのに、その事に関してだけは妙に自信があった。
昔の友人からは、失恋から立ち直るのが早すぎると言われていたし、教師からきついお説教をされても、重要な発表会の場などに立っても、頭が真っ白になるという経験は少なかった。そうしなければならない、そのようだ、と一度理解さえしてしまえば、比較的スムーズな行動を取ることができた。だから、彼からひどい暴力を受けたって、わたしの心はいくらか冷静な部分を保っていられたのだ。
わたしは、前向性健忘症かもしれない。そう仮定して、まず一番に気にしなければいけないのは時間についてだった。
寝室には壁掛け時計がある。針は11時30分頃を指していた。
パウチ用紙には、わたしの記憶は6時間しか持たないと書いてあった。6時間経つと記憶はリセットされるとも。
どこから数えて6時間なんだろう? わたしはたった今起床したばかりだけど、ひとまずは目が覚めてから6時間、ということでいいのかな?
6時間。「メメント」は10分で、「博士の愛した数式」は80分だったかな。
それらに比べれば、記憶を保てる時間は案外長いように感じる。そう思いかけて頭を振る。一日に何度も記憶喪失に陥るなんて、それ自体が異常事態だ。
それに『リセット』という表現もよく分からない。それってつまり、どういう風に記憶がなくなるんだろう。たとえば起きている状態で日中活動したとして、過去6時間以前の出来事から順に忘れていくのだろうか。それとも覚醒・睡眠に関わらず、一日のどこかで区切られた時刻に文字通り『リセット』されてしまうのか。
その答えはすぐに見つかった。
寝室の扉に、これまたパウチされたコピー用紙が貼り付けてある。そこには円グラフが描かれており、簡単な生活スケジュールのようなものが書き込んであった。円は四つの枠に区切られており、すぐに察しがついた。一日を24時間として、6時間を基準に分けているのだ。時刻も固定。つまり、この区切りこそがわたしの記憶がリセットされる瞬間なのだろう。
となると先ほどの推測は後者だ。たとえ覚醒状態にあったとしても、ある時刻を境にわたしは記憶を失う。目的地に向かう道中だろうが、誰かとお喋りしている最中だろうが、きっと6時間が経つたびに「ここはどこだろう?」というパニックに陥ってしまうのだ。
見ると、区切り線はちょうど0時、6時、12時、18時を指していた。
ぷっと吹き出しそうになってしまう。ずいぶん、几帳面な健忘症だなあ。
そこでわたしはハッとする。
もう一度壁時計に目をやり、今が11時41分であることを確認する。この円グラフ通り12時にリセットが起こるとすれば、起床から今までの記憶はあと少ししか持たないことになる。
わたしは今やるべきことを考えた。
出来ることは少ないけど、まずこの寝室に配置された自分への伝言が気になった。これらのメモ書きは洗練されておらず、前向性健忘症の者に現状を伝えるには情報が的確でない気がした。起床からこれまで、あれこれと悩む時間が長すぎた。
おそらく、このメモたちは設置してからそう日は経っていないのかもしれない。改善の余地がありそうだと思った。
寝室には文房具の類は見当たらない。
扉を開ける。そこはリビングのようで、16帖ほどの空間があった。
広い部屋だけど、開放感がない。
すぐさま目についたのは、リビングの一角を占拠する簡易倉庫(?)のようなものだった。開放感のなさはそのせいだ。4帖分ほどの大きさで、高さも部屋の天井すれすれだった。ひと一人がゆったりと寝泊まり出来そうなサイズだ。
辺りを見回すと、壁や家具、テーブルの上など、いたるところに貼り紙がしてあるのに気づいた。どれも自分宛のメッセージだけど、数は寝室の比じゃない。情報が散乱し過ぎている。目が回りそうだった。こんな中で生活していて、今までのわたしはなんとも思わなかったのだろうか?
必要なもの以外全部剥がして回りたかったけど、あまり時間がない。
奥にはダイニングキッチンがあり、傍には電話台が置かれている。据え置きの電話機は無く、代わりにペン立てなどの文房具類があった。
電話台の引き出しにはそれぞれ付箋が貼られている。通帳や契約書関係など、大事そうなものはこの電話台に集約されているらしい。
また、台の上には腕時計とiPhoneが置かれていた。この二つに関しては見覚えがある。どちらもわたしが昔から愛用していたものだ。
やっぱり、ここはわたしの部屋なんだな。
疑念がいよいよ確信に変わっていき、すこし肩が重くなる。だけど、落ち込んでいてもしょうがない。腕時計を腕に巻き、ペン立てから黒のマジックを取った。
再度寝室へ向かおうとしたところ、後方からがたりと物音がした。
びっくりして振り返る。
勘違いじゃなければ、それは人の気配だった。音のした方を見回す。とくに、これと言って変わった様子はない。
ここはマンションの一室のように見えた。耳を澄まさなければ聞こえない程度の音だったから、ともすれば隣の住人の生活音だったのかもしれない。
また、そうであってほしいと思う自分がいた。
じっと、あの簡易倉庫を見つめる。貼り紙だらけの異常な部屋で、それでも倉庫はこの部屋において別格の異質さを放っていた。そもそも室内なのに、どうしてあんな倉庫が必要なんだろう?
わたしはそっと、倉庫から目を逸らした。
心臓がいやに高鳴っている。ひとまず落ち着こう、そう思う。わたしは今何をしようとしていたのか、それを思い出そう。
寝室に入り、ベッド脇のサイドテーブルに歩み寄る。
マジックのキャップを外し、パウチ用紙の下部に書き込みを入れる。
・情報が部屋に散乱し過ぎている。必要なものだけ残し、あとは何かひとつにまとめる方法を考えること!
これでいい。
腕時計を見る。11時52分。
マジックペンを右手に持ったまま、ベッドに腰をおろす。あとは12時を待つだけだった。記憶がリセットされたわたしは、きっと先ほどと似たような行動を取るだろう。現状が把握出来ず、行秀さんの暴力に怯え、そのあとは寝室中に貼られた紙から、自分が置かれた状況についてひとしきり考える。そこで右手に持ったマジックペンに気づく。この注意書きは、たった今自分が書いたのでは? そう考えるはずだ。
そうなればひとまず、今のわたしの目的は次へと繋げる。数分後のわたしには記憶が6時間たっぷり残っている。とことんこの部屋を整理整頓してもらおう。
そう、今の記憶、あと五分くらいしか持たないんだよね。
それならいいかもしれないと思う。あの倉庫についてだ。
怖くて見たくなかったけれど、あとどうせ数分もすれば忘れてしまうんだ。しかも、この部屋に住んでいる以上は避けられない。強盗の気配でもあれば形振り構わず逃げ出さなければいけない。
残り時間を確認し、寝室を出る。
リビングの奥に佇む簡易倉庫の前までやって来る。傷ひとつない真っ白な壁には清潔感さえある。近くで見ると相当な圧迫感だった。扉は一ヶ所だけで、どこか倉庫っぽくない造りだった。見ると、扉の左端にシールが貼ってある。そこにはとある有名楽器メーカーが明記されていた。
『株式会社○○ミュージック
高壁4帖タイプ 単体遮音性dr-55
室内用定型 防音室』
防音室?
目を疑う。どうやら、倉庫じゃないようだ。
だけどわたし、楽器なんかやったことないんだけど。そのくせ、こんな明らかに生活スペースを侵すようなものを設置して、目的が全く見えない。
わたしはもう気づいていた。さっきの物音は明らかに、ここからしていた。
覚悟を決めドアノブに手をかける。
中にいたのは、学生服を着た女の子だった。高校生のようにも中学生のようにも見える。
彼女は椅子に腰かけており、両手足をそれぞれ縄で縛られていた。しばらく下を向いてぐったりしていたが、わたしが顔を見せると彼女は弾かれるように顔を上げる。知らない制服、知らない顔だった。
女の子は目に涙を浮かべた。何か言葉を発しようとするが、ガムテープで口を塞がれていて、声はくぐもって聞き取れない。
わたしは扉を閉じ、寝室へ戻った。
ベッドの上でうつむき、理解が追い付かない頭をマジックの先で突く。背筋から、ざわざわと寒気が立ち上ってくる。落ち着こう。ともかくそうらしい。いつものように心の整理をつけようと試みたが、そのとき、腕時計のアラームが鳴った。