終章 <挿絵付>
「おーっす。ってあれ、堤くんいたんだ」
文芸部の部室に入ると、堤と真由はすでに長机に着いていた。
冬休み明けの四日目だった。新学期早々、堤がインフルエンザにかかったと聞いていたから、彼がもう学校に来ているのが意外だった。
具合でも悪いのか、堤は長机にべったりと突っ伏しており、ぴくりとも動かない。
対面する真由は何故か夢中で一束の原稿用紙を読んでいる。あまりの集中っぷりで、咲子が入室してきたことすら気づいていない様子だった。
何この状況。
咲子はあくびを漏らし、椅子に座って足を組む。寝ている堤の背中を揺らしてみる。
「堤くーん。部誌の原稿は? 締め切りとっくに過ぎてるんですけど」
反応がない。完全に寝落ちしているのかと思ったが、突っ伏した状態の彼の顔がわずかにこちらを向いた。目の下に隈が出来ている。ぱくぱくと、口元がうごめいている。耳を寄せてみると、「鞄の中」と、今にも消え入りそうな声が聞こえた。
堤の学生鞄を勝手に開いてみると、たしかに完成原稿は入っていた。
どれどれ、と原稿に目を通していき、咲子は首を傾げる。
「これ、本当に堤くんが書いたの?」
その原稿は、とんでもなくファンシーな香りの漂うファンタジー小説だった。予定していたSF短編はどうしたんだろう? 相変わらず反応がない堤にさらに声をかけようとしたところ、正面で勢いよく真由が立ち上がった。
「堤さん! これ!」
真由は鼻息を荒くして、右手に原稿用紙を握りしめている。その勢いに、咲子はぽかんと口を開けた。
「すっごく、面白いよ!」
堤は蚊の鳴くような声で説明をはじめる。あまりに声が小さいので、話を聞く間はずっと耳を澄ましていなければならなかった。
話を要約するとこういうことだ。
そもそも彼はインフルエンザなどにはかかっておらず、ずる休みしてまで原稿作成に取りかかっていたらしい。
当初予定したSF原稿は修正不能な粗が見つかり、一旦ボツになった。どうすべきかと悩んだが、ともかく、真由へ贈るプレゼント用のお題小説に取りかかった。しかしこれが相当な大苦戦で、三日のプロット作成、二日の徹夜執筆の末、昨日の夜にようやく完成させたのだという。
プレゼント用の小説。あーそんな話もあったな、なんてのんびり頷いていると、ふと背筋が凍った。
「え、じゃあ部誌の原稿は?」
堤はなにも言わず、というか何の申し開きも立たないのか、ただ黙って腕の中に顔を埋めた。
「堤さん、マユのためにありがとう! このお話、マユの理想のラブストーリーだよ!」
真由がぎゃんぎゃんとやかましい。興奮冷めやらぬ様子で乱暴に彼の肩を揺さぶる。
「やめてあげなって真由。疲れてるんだよ堤くん」
「本当すごいってばこれ。映画化、いや、ハリウッド化決定だよ! ねえ堤さん! 堤さ、」
真由ははっとして手を離す。
「死んで……」
「ねえよ」
咲子はため息を吐き、諦めて原稿用紙を机に置いた。
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▼旅行雑誌『とりっぷ・マルシェ』2月号より
▽P3
◎北真白ヶ丘駅正面口から徒歩二分。地元で愛される下町のパン屋さん「瀧本ベーカリー」
今年で創業50周年を迎える「瀧本ベーカリー」の名物は、なんといってもバラエティ豊かな「メロンパンサンド」。カウンターの一角を占める個性豊かなデザートパンはどれも絶品。
(中略)
風情ある商店街を歩くとほんのりとパンの香りが漂ってくる。一軒家の面影を残すお店をのぞいてみると、奥には赤いエプロンとベレー帽の可愛らしい看板娘が。(※写真2)
昔ながらの対面式のカウンターなので、頼めばその場で出来立ての手作りパンが食べられる。
▽P4
「いつも作りたてなのは、うちの窯が小さいからですね。要望さえあれば日に何度だってパンを焼き上げます」
地元に愛されつづける秘訣を語るのは店主の瀧本則子さん。
ところでこのお店、スイーツパンを売りにしているものの、やけに男性客のリピーターが多い。その理由はあの看板娘にあるのでは? と思わず勘ぐる取材陣だった。
「それはないと思いますけど(笑)」と、当の本人は謙遜した様子。
(※写真7)(※写真8)
(中略)
文:小野田エリ
写真:梶原守
▲「箱根・小田原・真白ヶ丘特集」 ○年1月30日発刊
□□□□□
吉村からの招集を受け、咲子は喫茶店ソレイユに赴く。
彼はもうテラス側のソファー席で待っていた。咲子を見つけると、読んでいた雑誌から顔を上げ、にこやかに手を振る。
「やあ咲子さん、今月の部誌読んだよ。文芸部どうしちゃったのさ。堤くんの小説、あれは一体なんだよ。全く彼らしくもない。僕なんかあれ読んで以来、思い出すたびに笑いが止まらないんだから」
吉村はハイテンションでまくし立てる。咲子はひきつり笑いで、「まあ、真由はあれで大喜びなんだけどね」と返す。
結局、堤のSF短編が上梓されることは叶わなかった。苦肉の策で例のファンタジー小説を掲載してみたわけだが、これが校内で小さな話題を呼んでしまっている。
堤信吾というキャラクターを考えれば仕方のないことだと思う。
真由にキャラを破壊させられ、堤は会う人会う人に作品をいじられているらしい。そのせいで慢性的に体調を崩している、なんて話まである。
「まあ、でもいじるのは可哀想だよね。堤くんが書いたってことは意外だったけど、作品自体は単純に面白かったし、文句のつけようのない仕上がりだったと思うよ」
思い出し笑いをしながらの吉村のフォローに説得力はなかった。
まあ作品が面白くなきゃ誰も読まないわけで、病むほどいじられるということは、それだけ沢山の人の目に触れたという証拠だ。彼には悪いが、今月の部誌は成功といっていい。
「それにしても、えらく上機嫌じゃん吉村くん。何かいいことでもあった?」
よくぞ聞いてくれた、と吉村は雑誌の一部を開いてみせる。それは、わりと名の通った旅系の月刊誌だった。
「見なよこれ。瀧本ベーカリーが一番に特集されてるぜ。さすが梶原さん、いい仕事するよなあ」
彼の指すページに目を落とす。確かに宣伝効果のありそうな良く出来た特集記事だ。
梶原守といえば、美人モデルや美しい風景をあえて誇張せず、あくまで自然体で画にするのに定評がある写真家で、世間ではちょっとした有名人だ。咲子はともかく、吉村は何かにつけて彼を絶賛し、懇意にしている。
が、パン屋の紹介なのに、パンと同じくらい看板娘の写真が載せられているのはいかがなものだろう。
「こんなの特集しちゃったら、また恋のライバル増えちゃうんじゃないの?」
皮肉をぶつけてみる。吉村は、何の話だ、というようにきょとんとする。
「それはそれで、まあしょうがないでしょ。瀧本ベーカリーが賑わってくれれば何よりだ。それに、あまり咲子さんにやきもち妬かれたって僕も困るしね」
不良風店員が注文を取りにやってくる。店員を無視し、咲子は組んだふとももの上で頬杖をつき胡乱な眼差しを吉村に向けた。
自分の失言に気づいたか、彼は撤回するように両手を振る。
「ごめん、冗談だってば」
「ちっ」
「そんなに怒る?」
咲子は苛々しながら「あまおうのスムージー」とオーダーした。
スムージーが半分まで減る頃。
何の前触れもなく吉村がテーブルに置いたのは、やけに既視感のある茶封筒だった。宛名もなく、内容物を感じさせないほどの薄さ。恒例の、と呼んでいい程度には見慣れたものだった。
そもそも、古都実を盛岡に連れていったのはこれの為だったのだから。
特段の会話もなく、咲子は茶封筒を開封する。中にはA4サイズの写真が一枚入っていた。
咲子はこの撮影現場に立ち会った。現場で待ち合わせをしていた梶原守の指示のもと、撮影の準備まで手伝っている。なのに印画紙を通して見ると、どうしてこうも印象が変わるのだろう。
古都実は、盛岡のとある山中の沼に仰向けで浮いていた。
彼女は薄着のワンピースに一着のマフラーという、一月の終わりにはやや不釣り合いな寒々しい格好をしている。沼は黒く濁っており、汚水が衣服をじわじわと侵食していた。
写真の古都実は沼の水面で仰臥し、自然と四肢を投げ出している。彼女はそこで、特になにもしていなかった。この写真を撮ることに何の意味があるのか、と当初考えていた咲子は、徐々にその真意を知ることとなる。
思い返せばそこは不思議な場所だった。沼の周辺は木々が一切生っておらず、まるでその空間だけ生命が死んでいるようだった。山そのものには野生動物の気配があるものの、そこだけは足跡のひとつもない錆びた更地となっている。
古都実の案内によりそこへ訪れた咲子、吉村、梶原の三人はしばし、その寒気すら覚える雰囲気に圧倒されていた。
この撮影を行う前、四人がしたことは古都実のノートを焼却することだった。彼女が二年間をかけて書き溜めた十四冊にも及ぶ記録だった。
沼のそばで焚き火を起こすと、咲子たちは一冊ずつノートを火の中に放っていく。
あなたがこの文章を読むのは、これが最初で最後になるーーぱちぱちと音を立て、灰と化していくノートを見つめながら、『⑭』のノートに書かれた言葉の意味を理解し始める。
ノートを焼くということ、それはつまり、古都実の二年間を抹消するということだった。彼女がこの二年をどう生きたか、そして三人もの少女を殺害したという過去まで。
この二年間は『深夜の古都実』が作り上げたもので、そこに『本来の古都実』の意思は介在していなかった。だからこのノートを焼く決定権も『深夜の古都実』にある。そう彼女は述べた。
本当にそうだろうか? 咲子の疑問は消えない。結果的に『本来の古都実』は彼女を弾圧するための行動を起こしたが、それは決して今までの生活を否定するものではない。『本来の古都実』の意思がなかったなんて、ただの言い訳だ。
ともすれば、自首するという選択さえしなければ、『深夜の古都実』との共存もありえたのではないか……。
そう考えて、自分の倫理観の歪みに身震いする。
彼女は何名もの少女を監禁し、むごい拷問にかけ、そして殺してきた。そんな人間のどこに救いがあり、どこに共存の可能性があるというのだろう?
「深夜の古都実さんは、十四冊のノートと共に自らの消滅を選んだ。自分を古都実さんの中に棲む性悪と断じ、その生涯に永遠の幕を降ろした。今の古都実さんを見る限り、彼女の儀式は成功したようだね」
写真を膝元に置いた咲子に、吉村は言葉をかける。呆けた頭に、次に向けられた問いはやや唐突なものだった。
「それはそうと咲子さん、あれの意味は分かった?」
「あれって?」
「『ボタンの掛け違い』の、本当の意味だよ。彼女の遺言みたいなものなんだろ。僕には何の話だかさっぱりだけど」
咲子はスムージーに伸ばしかけた手を止めた。視線を落とし黙考する。やがて手を膝の上にもどし、誤魔化すようにペコちゃんキャンディを口にする。
「さあ、全然」
咲子は嘯く。
ソレイユを出る。帰路へ向けかけた足をふいに止めた。急に立ち止まった咲子を、吉村は疑問を浮かべ返り見る。
そのまま反対方向へと歩き出す。後ろから、慌てて吉村が追ってきた。
「咲子さん、駅はそっちじゃないよ」
知っとるわ、そう思いながらも口には出さず、自分がどうしたいのかも分からないのに歩く速度だけは増していく。
吉村は訳が分からないというように後方から何度か声をかけてくる。しかしどう話しかけても返事はないと悟り、呆れ半分に咲子に追従する。
一駅分は歩いて、到着したのは北真白ヶ丘駅の駅前だった。そこまで来ると、吉村もいよいよ咲子の考えを読んでいた。
「おい、何のつもりだよ咲子さん」
咲子は無視を決め込み、歩を進める。
瀧本ベーカリーの前で立ち止まり、深く息を吐いた。
「やめとけってば」
吉村の手が肩に置かれる。咲子はその手を乱暴に払い入店する。
レジの集計作業をしていた古都実と目が合った。店の営業時間は数分ほど過ぎている。閉店作業中の彼女は、この時間の来客に幾分驚いているようだった。
「いらっしゃいませ。えっと、あの……」
「閉店してることは知ってるんですけど、どうしてもここのパンが食べたくなって」咲子は努めて感情を殺した。
「あ、はい。ありがとうございます」
古都実の困惑はそこまでだった。ここのパンが食べたい、という言葉が素直に嬉しかったのか、「何にしましょう?」と笑顔を浮かべる。
「じゃ、メロンパンのイチゴサンドで」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
そうして彼女は厨房に下がっていく。
数分ほどして、出来立てのメロンパンサンドが運ばれてくる。背後から吉村の非難の目を浴びながら、咲子は勘定を支払った。
「ありがとうございました。またお越しください」
彼女は紙袋にパンを入れ、咲子へと差し出す。咲子は黙ってそれを見つめ、しばらく受け取らなかった。自分の中で気持ちはまとまらず、思いはぐるぐると周回する。ただただ、焦燥としていた。
「あのう」
戸惑う彼女に、咲子はようやく手を伸ばす。指先がかすかに触れあう。彼女の手は荒れており、ささくれが指の腹をなぞった。ぞくりとして、無表情でその感覚に耐える。
「もしかしてわたしたち、どこかで会ったことありますか?」
微妙に視線を落とす。ボタンの掛け違い、と咲子は頭の中で繰り返す。
「わたしその、ちょっとした病気持ちで。人の顔が覚えられないんです。もしお会いしたことがあったらごめんなさい。わたし本当に、何も覚えてなくて……」
「いえ」
咲子は静かに首を振った。
「会ったことないです」
店を出る。
店内から古都実の不安そうな視線があった。なるべく目を合わせないようにして、紙袋からメロンパンサンドを取り出す。
「だからやめとけって言ったのに」
吉村の言葉に、ふんと鼻を鳴らす。
「別に。本当に食べたかっただけだし」
必死で涙声を隠した。メロンパンサンドを頬張る。さくりとした食感の下で広がる甘味を、咲子はよく味わった。