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十二話

 アラームの電子音が反響する。

 わたしはベッドで横たわったまま、古びた木製の天井を見上げていた。音は枕元のiPhoneから鳴っている。手探りでアラームを止めると、ベッドから身を起こし部屋を見渡した。

 見覚えのない部屋だった。

 家具やカーテンはピンクや白などの明るい色で統一されており、可愛いらしく、どこか若々しい雰囲気があった。

 部屋の模様替えをした記憶はないし、ここはわたしの部屋じゃないだろう。

 鼻腔をつく香りも、この部屋の持ち主の存在感をかすかに残していた。

 カーテンを開き外を見る。

 寂れた商店街の路地が目下にあった。ここはどこかの一軒家の二階部屋のようだ。庭を見下ろすと、立て看板が出ているのが見えた。住居兼、何かのお店として使っている家屋らしい。


 それでわたし、なんでこんな所にいるんだろう?

 昨晩の出来事を思い出そうとするが、軽い頭痛がしてうまくいかない。きっとお酒を飲み過ぎてしまったんだろう。


 部屋には学習机があり、そこに一冊のノートが置かれていた。手にとってみる。表紙には『①』と、通し番号が振られていた。

 始めの一ページを読んで驚愕する。


・わたし(古都実)の記憶は1日しか持たない。

・相良行秀の暴力により、前向性健忘症を患った。

・記憶は深夜の0時ちょうどにリセットされる。記憶を失った日から昨日までのことが思い出せなくなる。


 前向性健忘症。それがどういう病気なのかはなんとなく知っている。

 だけど記憶が1日しか持たないだなんて、そんな現象が自分に起こっているという実感がまるでない。 

 続きに目を移す。


・わずかではあるが、わたしの病気は回復傾向にある。障害を患った当初は記憶が6時間しか持たなかったが、生活環境が変わったことで、1日分の記憶が保持できるようになった。


 本当にわずかだな、と思う。どうせ記憶がなくなってしまうなら6時間も1日も大して変わらない気がする。ただ、回復傾向、という言葉は単純に喜ばしかった。この調子で病気そのものが治ってくれたらいいな、と期待が沸く。

 一ページ目にはこうも書かれていた。


・これまでわたしはこの地域で一人暮らしをしていたが、一人きりでの生活には限界を感じていた。

・現在、瀧本則子さんという女性に養子として迎えられ、彼女と二人暮らしをしている。そのため今は『瀧本』姓を名乗っている。

・則子さんとの出会いはパン屋でのアルバイトだった。彼女の養子となった今でもお店の手伝いを続けている。

・一人暮らしを止め、最初は住み込みでバイトをしていたが、則子さんから「養子にならないか」と誘われ、わたしは快諾した。

・新生活は今のところ順調だ。なにも心配はいらないから、今はこの暮らしを楽しんで。


 思いがけない情報だった。行秀さんと離婚したことは察しがついていたが、よもやこの歳になって養子だなんて。

 北山でも相良でもなく、瀧本古都実。なんだか馴染まないなあ。


 わたしには重い記憶障害がある。一人暮らしに限界を感じるのは当然のことで、普通だったら盛岡の実家に帰るという発想になるはずだけど、もしかするとこの則子さんという人物が鍵になっているんだ。

 病気が回復傾向にあるのは、この家で住み込みのバイトを始めたおかげかもしれない。この生活を継続していくことに可能性を感じ、わたしは則子さんとの養子縁組に同意したのだろう。


 そのとき、階下から女性の声がした。

「古都実ちゃん起きたー?」

 知らない声だけど、たぶん則子さんだろう。

 ドアを開け、階段の下を覗き込む。一階には従業員用の通路があり、そこで恰幅の良い中年女性がこちらを見上げていた。

「あのう、則子さんですよね?」

「あら、もうノートを読んだのね。今朝は話が早くて助かるわ」

 そう言って彼女は「初めまして、則子です」と大袈裟に頭を下げた。

 わたしは部屋に半分身を隠したまま小さく頭を下げた。

「よ、よろしくお願いします」

 顔を上げた則子さんは満面の笑みを浮かべる。そして粉だらけの両手を開いてみせた。

「さて、いつもの挨拶も済んだところで、さっそく朝の仕込みを手伝ってもらおうかしらね」

 きっとパン作りのことだ。わたしはその場でおろおろしてしまう。

「わたし、パンなんて作ったことないです」

「作り方はマニュアルを見れば分かるようになっているし、あとは古都実ちゃんの身体が覚えてるわ。なんでも、あなたには『手続き記憶』とかいうものがあるみたいで」

「なんですかそれ?」

 則子さんは気難しそうに、ユニフォームのベレー帽の上から頭を掻いた。

「難しい話は苦手なのよねえ。とにかく、古都実ちゃんはパンが作れるってこと。大丈夫、自分を信じて。あなたはもうここで一年半も働いているのよ」

 一年半? びっくりして言葉も出なかった。何から何まで実感がないことだらけだけど、自分にパンが作れる、というのが一番信じられなかった。だけど則子さんが言うにはそうらしい。


 大丈夫、自分を信じて。

 わたしは自分の手のひらを見つめた。知らない手だった。肌は荒れ、指先の節々は細かなささくれが目立つ。普段からお手入れはしてあるようだけど、その荒れっぷりは隠しがたかった。

 わたしは自分の手のひらを見て、不思議とショックは受けなかった。どころか、なにか誇らしさのようなものを覚えていた。

「古都実ちゃん、本当に早く」

 則子さんが手招きで急かす。

 わたしは慌てて部屋に戻り、化粧台で簡単にメイクをし、身だしなみを整えた。急いで一階に降りると、お店の制服に着替えるよう言われ、慣れない手つきで着替えはじめた。

 着替えながらわたしは、無意識に則子さんを見つめる。ふいに目が合い、わたしは顔を赤くした。

「これ?」そう言って彼女は自分のお腹をさする。「妊娠してないわよ。余ったパンの食べ過ぎでこうなっちゃったのね」

 わたしは「そうじゃないです」と首を振った。確かに則子さんのお腹の肥大っぷりは面白かったけど、今考えていたのはそういうことじゃない。

「どうして則子さんは、わたしなんかを養子にしてくれたのかなあって。こんな障害持ちの女の面倒なんか、ふつうは嫌なものじゃないですか?」

 則子さんは厳しい顔をして、豪快に両手を打ち鳴らした。

「長い話は、生地をこねながら!」

 いよいよ殺気立っているようだったので、わたしは急いで着替えを済ませた。




 わたしの手は、確かにパン生地のこね方を覚えていた。厨房には要所要所にマニュアルが掛けられているが、あまり使われている様子はない。わたし自身も生地に触れた瞬間から、マニュアルなど要らないのでは、という気までしたほどだった。

 朝の仕込みをしながら則子さんが語ったのは、家出をしたまま戻ってこないという一人娘の話だった。失踪してから既に一年以上が経つという。

 わたしを養子にしたいと思ったのは自分のわがままなのだと、彼女は話した。娘の影にわたしを重ね、娘の代わりにわたしの面倒を見ているだけだと。だから自分のお世話になることは気にしないでね、と則子さんは言う。

 則子さんは、娘の名前を言いたがらなかった。

 きっと娘に対して後ろめたい思いでもあるのだろう。

 わたしは彼女の名前を聞かなかったし、則子さんが話したくないことなら無理に聞き出す必要もないと思った。




 お店が開店する。パンの焼き足しやレジ打ちをし、次々とお客さんをさばいていく。

 このお店は瀧本ベーカリーというらしい。寂れた商店街の一角にあるが、とある雑誌の取材が入ってからというもの、最近では知る人ぞ知る名店として大盛況のようだった。

「あれもこれも、全部古都実ちゃんのおかげよ」

 そう、則子さんはにやにやしながら言う。とても嫌な予感がして、わたしはその雑誌とやらを見せて欲しくなった。この家のどこかにはありそうだから、閉店したら必ず探し出してやると心に決める。


 昼の休憩時間に入る直前、則子さんに呼び出される。

「休憩がてらにこの番重、もうお古だから外の倉庫に移してきてくれない? 最近実入りがいいから新しいのを注文したのよね」

 番重とは、こね終わった生地を収めておくための抗菌コンテナのことだ。数は十箱ほどで、確かにどれもヒビが入ったりで劣化がひどい。

 倉庫は家の裏手側にあった。何回かに分けて番重を運んでいく。最後の二箱を運び終えると、倉庫の扉を開いたまま、つかの間の休息で家の縁側に腰かけた。

 パン屋さんって見た目は優雅で楽しそうに見えるけど、実際はものすごく忙しいお仕事だなと思った。力作業も多いし、何より生地のこね過ぎで腕が疲れてしまった。


 縁側でお茶を飲み、快晴の下でしばしの休憩時間を楽しむ。

 疲れた手のひらを指で揉みながら、ふいに、開いた倉庫の奥に目がいく。

 倉庫の壁側にはパイプラックがあり、古びたお店の機材や生活用品が押し込められている。その上段に欠けられた一着のマフラーに、何故か意識を引かれる。

 縁側を立ち倉庫へ近づく。マフラーは白とネイビーのストライプ柄で、可愛らしさと大人っぽさを掛け合わせたようなデザインだった。

 そのマフラーに手を触れた瞬間、背筋を一直線に割るような、強烈な直感を覚えた。

 手続き記憶、とわたしは思う。パンやレジ打ちを通し、その手続き記憶とやらを理解しつつあった矢先だった。前向性健忘症のわたしに、唯一備わっているこの記憶構造がどう作用するのか。

 腕時計を見る。あまり休憩時間も残っていない。マフラーを手にして二階の自室へ向かう。


 ベッドの上でマフラーを左右に広げた。よく使い込まれており、長年の使用感が拭えない。編まれた網目をよく観察し、手触りを確認する。

 間違いない、とわたしは確信する。このマフラーはわたしが作ったものだ。

 普通なら、自分が作ったマフラーを自分で使い込み、使い古した結果あの倉庫へ仕舞ったのだろうと考える。が、わたしにはそう思えなかった。

 長く愛用された装飾具には使用者の『念』が宿る。これはわたしの誇大妄想かもしれないが、全くの見当違いではない。

 マフラーは直接肌に触れるだけでなく、たとえ同じ巻き方でも人によって癖が出てくる。同じ商品も使用者により、それぞれのマフラーに明確な違いが出てくる。

 自分が作ったものとなれば、その違いに気づかないわけがなかった。

 わたしが作ったものだけど、わたしが使ったものじゃない。

 マフラーの端には名入れの刺繍があった。

 筆記体調に入れられた『hikari』という字を、わたしは長い時間をかけて何度も眺める。

 hikari。ひかり。


 階段を上がる足音が聞こえ、わたしは顔を上げる。

「今日の古都実ちゃんはずいぶんとのんびりしてるわねえ。もう休憩時間は終わってるわよ」

 ノックもなく自室のドアが開かれ、呆れ顔の則子さんが顔を出す。わたしを見て、目を丸くした。

「古都実ちゃん、泣いてるの?」

 自分の頬に触れる。指先が濡れ、手の甲を伝っていく。瞼が熱い。耳まで真っ赤になっているようで、わたしは訳もわからず首を振った。

「どうして泣いてるの? お腹でも痛い?」

 則子さんの口調はまるで幼児を相手にしているかのようで、それが可笑しくて、つい笑いそうにもなったけれど、わたしの口から漏れるのは嗚咽だけだった。

 やがて則子さんは、わたしが手にしたマフラーを見て口を閉ざす。静かに唇を噛み、わたしの隣に座る。

 それからの彼女がすることといったら、わたしの背中を優しく擦りつづけることだった。

「どうして涙が出てくるのか、わたしにも分かりません」

 数分かけてやっと言えたのがそれだった。ていうかお店大丈夫かな、と変に心配する。

「このマフラー、なにか見覚えがあるようなって……病気のせいですぐ忘れちゃうくせに、何故だかそう思ってしまうんです。誰かに謝り忘れているような、お礼を言い忘れているような、そんな、忘れちゃいけないことを忘れてしまっている。そんな気がするんです」

 則子さんは背中を擦る手を一瞬止めたが、やはり彼女は何も言わず、ゆっくりと手を動かしはじめる。

「わたし、なにかとても大事なことを忘れているような……」





 店は私に任せて、そう残して則子さんは部屋を出ていった。

 わたしはマフラーをベッドに残し、学習机で『①』のノートの続きを読んだ。

 始めの5ページには、自分が置かれた状況、生活環境や経済面の情報が載せられている。このノートが『①』とされているのは、この新生活を転機とするため、全てを一から始めたいという気持ちがあったからだろう。

 5ページ以降には、日々の暮らしで起こった出来事が日記のように綴られていた。

 日記に一行ずつ目を通していくが、どれも大したことのない書き込みばかりで、逆に笑ってしまう。


 則子さんがサイズの合わないワンピースを買ったとか。

 わたしが発注ミスをしたとか。

 大学生のお客さんからラブレターをもらったとか。

 パンの食べ過ぎで最近ちょっと太っちゃったとか。

 お店の看板を作り直したとか。

 夕飯のハンバーグを焦がしたとか。

 則子さんのこんな発言が面白かったとか。

 寝坊をしたとか。

 新しい服を買ったとか。

 どこのお店のどのご飯が美味しかったとか。

 

 どうでもいい内容ばかりで、どう見てもただの日常でしかなくて、下らなくて、それでいてとても幸せそうだった。

 書き込みはおよそ一ヶ月分ほどある。読み終える頃、窓からは夕日が差していた。ぐっと背伸びをする。机を離れ、鏡で自分の顔を確認する。

 則子さんには随分迷惑をかけてしまった。

 早くお店を手伝おう。というか、今日の日記のネタ探しをしなくちゃね。

 ふと足を止め、机の上でノートの一ページ目を開く。


・なにも心配はいらないから、今はこの暮らしを楽しんで。


 その文字を指でなぞり、わたしは部屋を出た。

次回、最終回です。

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