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十一話・古都実のノート(下)

 あなたは、行秀さんと結婚したことを後悔してるよね。

 こんな重い障害を負わされたんだから、そう思うのも無理はない。

 あの人との出会いは、会社勤めをするようになってからだった。彼は取引先のクライアントだったけれど、とても優しくて紳士的な人で、食事のお誘いもスマートだった。一つ一つの行動が男性としての魅力を物語っていて、この人しかいない、という確信があった。

 結婚生活が始まるまではね。


 職場と家での振る舞いが違う男性って、世間を見ればとくに珍しくもない。だけど彼の場合、それが顕著だった。

 初めてあなたに手を出した時のことは、ある意味忘れられない。

 帰ってくるなり行秀さんは「適当にアイロンをかけるな」って、あなたのこと、ぶったよね。でもあのスーツ、どこに皺が残っていたのか今思い返してみても分からない。きっと仕事で嫌なことでもあって、イライラしてたのね。

 手を出した後は我に返って、彼は泣きながらあなたに謝り出した。わたし笑っちゃった。昼のワイドショーでさ、DV男のこんな言動に騙されるな、みたいな特集があるじゃん。あれ思い出しちゃった。よく恥ずかしげもなくこんなテンプレじみた事言えたなって。本当に、心底浅はかな男なんだろうなって。

 もっと笑ったのは、あなたの対応だよ。

 あの時のあなた、何もなかったことにしようとしたよね。「わたしは何もされてないよ」って。

 二人とも馬鹿じゃんって、一通り笑い尽くして、そしたら何故かわたし、変な疎外感を覚えていた。

 あぁ、やっぱりこの『古都実』は、もうわたしの『古都実』じゃないんだなって、改めて思った。


 茉里ちゃんが亡くなってから十五年もの間、わたしはあなたの中にずっと身を潜めていて、ほとんど表に出ることはなかった。

 理由はとても簡単で、あなたは茉里ちゃんの事件のことを『思い出したくない過去』と無意識に切り捨て、自分の中に封印してしまったからだった。その悪い記憶と共にわたしという人格は、十五年もの永い時に閉じ込められてしまった。わたしにはただ、あなたの生活をその頭上から俯瞰するしかなかった。


 時間のこともそうだけど、一番辛かったのは、あなたが少しずつわたしから離れていったこと。

 そりゃ十五年も時間を置けば人って変わるし、ずっと閉じ込められたままのわたしとは色々と違いも生まれてしまう。

 そんなの頭から分かっていたし、諦めもしていたけれど、やっぱり寂しかったな。

 あなたと行秀さんの間には二人だけの特殊な世界が生まれていた。暴力夫を許してしまうあなたが許せなかったし、それと同時にわたしは耐えがたい疎外感を抱き続けていた。




 ある三名の少女が行方不明になっていることは知ってるよね。

 瀧本ひかりさん。尾上未来さん。加藤結未さん。

 彼女たちの共通点、そして末路について。もう真実は知ってしまっていると思う。というか、吉村くんや咲子ちゃんから聞かされているかもしれないけれど。

 彼女たちは三名とも、苦しい実験の末で肉団子にされ、そこらの地中や水辺の栄養になっているはず。

 殺人や拷問というのは極刑に値する大罪であることは言うまでもなく、それが数名にわたるとなれば、個へ向けた刑罰程度では償いきれないものがある。これだけ残虐な事件を幾度も起こせば、恐らくは後世に刻まれるレベルの凶悪犯罪として語り継がれてしまうだろう。

 わたしがここで謝罪したってまるで足りない。それは十分分かっている。こんなノートで告白して反省すること自体がお門違いだし、なんの償いにもならないから。

 結局何が言いたいのか、というと。

 とても言いにくいんだけど、つまりね。これまで数々の身勝手をしたわたしに、さらにわがままなことを言わせて欲しい、ということなんだけど……。


 刑事責任能力って言葉は聞いたことある?

 何かしらの犯罪を犯した人には必ずこれを調べるための鑑定が行われるみたい。この鑑定結果が何の参考になるかというと、極端な話、刑事責任能力がないと判断された者は無罪となり得るかもしれないってこと。必ずしもというわけじゃなく、可能性があるってだけで。

 この法律って、冷静に考えればとんでもないよね。

 人を殺し、他人の人生を奪った人間が、死刑を受けるべきはずの凶悪犯が、場合によっては罰を軽減されたり、最悪罪を逃れる可能性だってあるんだよ。恐ろしい話だよね。人を裁く基準や定義って確かに難しいものだけど、こんな事例を許諾してしまう法廷、あるいはそれに準じてしまう人たちの考えというのは、わたしが言えたことじゃないけど、とても理解し難い。

 世の中がそうなっているのだから仕方がない、という諦念が世間に蔓延しているのも問題だね。


 だけど、殺人を犯したときこれを無実としてしまう要因には、もっと不条理な答えがあるとわたしは思う。

 それは、殺人そのものが明らかになっていない場合、これが無実となってしまうこと。

 つまり、人を殺したってバレなきゃオッケーってこと。これはズレた考え方でも、冷静さを欠いた狂った発想でもなんでもない。

 この日本でどれほどの人が行方不明になっているか、考えたことある? その中でどれだけの人が見つからずじまいに終わっているのか、その見つからなかった人たちって、どうなっているんだろう?

 罪がどう裁かれるのかというのは二の次で、重要なのはそこじゃない。人を裁く尺度にさして意味はないし、それは法廷が決めた物差しでしかないから。

 そもそも事件は起こっていたのか。そして犯人は存在しているのか。

 捕まっていない犯人は裁けない。となるとそれって、無実と一緒だよね。

 バレなきゃいい、という法則が摂理として間違っている。しかもその絶対的法則は決して揺るがないのだから、この世って本当に不条理だよね。


 だけどわたしは、この不条理に乗ってみたい。

 この件に関して『あなた』が無実だということを、わたしは主張したい。一連の犯行の責任は全て『わたし』にある。『わたし』の偽造や思惑により操作された『あなた』には、何の罪もないってこと。


 自分の生活に違和感を覚えたことはないかな。

 どうしてパン作りの経験もないくせに、瀧本ベーカリーで働き始めたの?

 ハンドメイド商品のネット販売を始めたきっかけは、本当に趣味や生活費のため?

 メインの出展品がマフラーなのは何故?

 重い障害があるのに、どうして地元に帰らずに一人暮らしをしているの?


 わたしが言いたいこと、だんだん分かってきたかな。

 今の生活は、『あなた』が作ったものじゃない。

 全部『わたし』が、『わたし』のエゴのために作り出したものなんだ。あの部屋は、わたしが一連の事件を計画するために用意した舞台でしかない。それに無理矢理あなたを付き合わせていただけなの。

 あなたが唯一作ったものといえば、このノートを書く習慣くらいだった。わたしも当初は良い案だと思ったし、あなたの生活をより把握しやすくなるから、あえて没収しなかったんだけど。でも、最後の最後でこれに足元を掬われちゃったね。

 ともかく、あなたを無実だとする根拠はここにある。これまでの生活には一切あなたの意思が含まれていなかった。罪を背負うのはわたしだけでいい、と思う。

 だからあなたは、彼女たちの死について何も気にしなくていいーーなんていきなり言ったって、難しいよね。

 ここで被害者や遺族に謝罪するのはお門違いだけれど、あなたにだけは謝ってもいいよね。

 わたしの身勝手にあなたを巻き込んでしまったこと、罪の意識を背負わせてしまったこと、本当にごめんなさい。




 行秀さんの暴力により、あなたは前向性健忘症を患い、それと同時にわたしは覚醒した。

 深夜の0時を迎えるたび、わたしは自分の存在意義にささやかに恐怖していた。

 どうして自分は呼び戻されたのだろう。何故今になってあなたは、わたしなんかに肉体を貸してしまったのか。生涯あなたの中に封じられていたって、ぜんぜん構わなかったのに。

 わたしの行動原理は、あの夜の茉里ちゃんにしかない。茉里ちゃんに『痛み』を与えることでしか、わたしは生きられないのだ。だってわたし、そういう風に生み出された存在だから。

 だけど、茉里ちゃんはもう死んじゃった。

 わたしに出来ることと言ったら、茉里ちゃんの代わりを探すことぐらい。更に言えば、あなたに迷惑をかけないよう、犯行が明るみに出ないため可能な限り努力することだった。過ちを繰り返さないように、という考えはそもそもなかった。

 彼女たちの身体に傷が増えていく分だけ、わたしの渇きは増していく。どれだけ残虐さを真似してみても彼女たちを可哀想だと思う気持ちが消えない。そんなことを繰り返しているうちに、だんだん、人を虫だと思えなくなっている自分がいることに気づいた。痛みや不安に共感し、拷問具を握る手が震え、涙が止まらないときもあった。

 それでもわたしは止められなかったし、渇きは癒えることなく増大していく。わたしの手にはただ虚しさしか残らない。

 『わたし』の救いはどこにある?

 いつしかそんなことばかり考えるようになっていた。


 わたしのことを理解して欲しいだなんて、そこまでのわがままは言えない。

 だけどわたしがここに居たってこと、知ってほしいな。どうせ忘れちゃうだろうけど、それでもいいから。




 咲子ちゃん、これを読んでいるかな。

 わたしが言った『ボタンの掛け違い』のこと、怒ってくれてありがとうね。

 なんだか目が覚める思いだった。胸の内でもやついていた霧が晴れたみたいに。これまで何回も悪いことを繰り返してきたけど、誰かから叱られたのって、多分あれが初めてだったから。

 あぁ、やっぱわたし、悪いことしているんだなぁって実感した。当たり前なんだけどさ、身に沁みて分かっちゃったんだ。

 でもね。

 あの言葉、実はちょっとだけ意味が違うんだ。

 ここではあえて書かないけれど、今の咲子ちゃんにはこの意味が分かってもらえると思うんだ。


 吉村くん。古都実の面倒を見てくれたり、彼女のお願いを聞いてくれてありがとう。

 君のおかげでわたしの正体はバレてしまったけれど、今にして思うのは、こんな結末こそが古都実には必要だったのかもしれない。わたし自身この生活に限界を感じていたし、やっぱり隠し事って良くないものね。

 わたし今、吹っ切れてるっていうか、すごく清々しい気分だよ。生まれて初めてってくらいにね。




 もうすぐ終点に着くのかな。盛岡に到着する頃、ちょうど記憶リセットが起こる。そこであなたは、このノートの内容を忘れてしまう。

 それから大事なことを一つ。その後の新しいあなたにはもう、このノートは読ませないようお願いしてるんだ。それは咲子ちゃんや吉村くんと約束していることだから、もう変えられないよ。

 新しいあなたのその後については、二人に任せてもらえれば大丈夫だから。


 想像してみて。

 あなたは明日から、なんでもない日常に戻っていくんだよ。

 移ろう記憶の中でーー何の罪も背負わず、おいしいご飯を食べて、一生懸命働いて、趣味のお裁縫を楽しんで、いっぱい寝て、たくさんの人に愛されながらーーまた新しい自分を迎える。

 障害は治らないかもしれないけど、今後のあなたにはきっと幸せな人生が待っているから。

 何も心配はいらない。

 だから古都実。

 安心して、おやすみ。

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