十話・古都実のノート(中)
わたしたちが明確に決別していった瞬間のことを、わたしはよく思い出せる。
手編みのマフラーをプレゼントしたのは、いつもの通学路の帰り道だった。
ランドセルからプレゼント用の布袋を取り出すと、茉里ちゃんは目を輝かせた。
「なんそれ!」
「クリスマスプレゼントだよ、茉里ちゃんに」
彼女は布袋を開き、マフラーを取り出して顔の上に掲げた。
「コトちゃんが作ったの?」
わたしは顔を赤くした。やっぱり変なマフラーだったかな。
「そうだよ」
「すごーい! ありがとう!」
わたしの心配は杞憂に終わった。自分の首にぐるぐるとでたらめに巻いて、茉里ちゃんは花のように笑う。
初めて作ったマフラーは、お世辞にも出来の良いものじゃなかった。毛糸もピンク一色しか使っていないし、網目もまばらで全体的にクタッとした仕上がりだった。本当はプレゼントすることすら躊躇っていたし、もし茉里ちゃんが気に入らなければ一から作り直すつもりでいた。
だけど彼女はそんなことも一切気にならないようで、へたったマフラーに顔をぎゅうぎゅうと埋め、楽しそうにその場を回った。屈託のない茉里ちゃんにはショートカットがよく似合うと以前から思っていたし、その不格好なマフラーもちゃんと彼女の一部になった気がして、わたしは嬉しくなった。
「ねえコトちゃん、このまま遊びいこう!」
そうして茉里ちゃんは駆け出した。
その日は、昨晩の大雪でそこら中に厚い雪が積もっていた。わたしたちの学校ではこの時期、滑り止め付きの長靴で登校するよう言われている。
茉里ちゃんが駆けていく足のリズムに長靴の重みは感じられない。マフラーがよっぽど嬉しかったみたい。彼女の後を追うだけでも、それは大変な苦労だった。
わたしたちの住む地域は盛岡北東の山岳部の麓にあった。
たびたびツキノワグマの目撃例や被害もあって、大人たちからは、子供だけで山へ行ってはダメだ、と日頃から言いつけられている。
しかし、わたしと茉里ちゃんは時折そんな言いつけを破り、たまに山へ出かけることがあった。大雪明けの天気の良い日なら、運が良ければ野生のキツネやカモシカを見ることができるのだ。
茉里ちゃんは山道をぐんぐん進んでいく。
雪に足をとられながら、わたしは必死で彼女を追う。目的地は、いつもの山頂の展望台。そこではわたしたちの町を一望できる、ささやかなビュースポットとなっていた。そこまで行く道は崖のように切り立っており、雪が積もった後などは特に注意して進まなければならない。一面の銀世界では反面、道の状況が分かり辛くなってしまう。
茉里ちゃんの下半身が突如雪に埋もれてしまったのは、そんな心配事が浮かんだ直後だった。
雪の重みで道の一部が崩れてしまっていたんだ。珍しい事じゃないし、もしそうであっても大抵は雪のクッションでどうにかなった。
「もう、なにしてんの茉里ちゃん」
彼女は腰のあたりまで埋もれた自分を見てケラケラ笑っていた。崩れた地面を踏まないよう注意しながら、茉里ちゃんへと手を伸ばす。
そのとき、真横の草むらでかさりと音がした。
見ると、一匹のキタキツネだった。
キタキツネは、きりりとした諫めるような目でこちらを見つめていた。直立に立った尻尾が特徴的で、その気品ある佇まいに、わたしはしばし緊張でその場から動けなくなってしまう。
野生のキタキツネを見たことがないわけじゃない。だけど、こんな至近距離で対面したのは初めてだった。手を伸ばせば届く距離にその子は居た。まるで、わたしに何か言いたいことでもあるみたいに、わたしの足元すぐそばで静かにこちらを見上げていた。
あっ、という声が上がる。
振り返ると、そこに茉里ちゃんはいなかった。
茉里ちゃんは崖の下で倒れていた。彼女が消えた場所から麓付近まで、急坂で下り切った箇所だ。
そこは不思議なことに、草木が一切生っていない円型の空間だった。半径五メートルほどのスペースに、濁った水溜まりともつかない深そうな沼があった。沼はどろどろと水面を畝らせており、この気温なのに表層には氷の膜も張っていない。そんな沼のそばで、茉里ちゃんは仰向けで眠っている。
周囲はすっかり暗くなっていた。
わたしは途切れた息を整えながら、じっと茉里ちゃんを見下ろす。彼女の幸せそうな寝息はこちらまで聞こえてくる。
なのに、わたしには彼女が死んでいるようにしか見えなかった。
きっと夢を見せられているんだ、と思う。
この状況がすごく不可解で、茉里ちゃんがこんなところで眠っていることも、不自然に木の生えていない空間も、凍らない沼も、どれもが説明のし難い状況だった。
これは夢だ、とわたしは思い込みたかった。
「茉里ちゃん、起きて。風邪引いちゃうよ。お家に帰らないと」
マフラーを手の甲で避け、その頬に触れてみる。
あまりの冷たさにびっくりし、思わず手を離してしまう。口から小さな悲鳴が漏れる。それは生きている人間の体温じゃなかった。
「あれ?」
茉里ちゃんが起き上がる。眠い目をこすり、わたしを見て涙を浮かべた。
「コトちゃあん……」
立ち上がろうとして、茉里ちゃんはその場で転んでしまった。次の瞬間、彼女は大声で泣き出した。
「い、いたい。いたいよお……」
茉里ちゃんは右足あたりを抑えて痛がっている。わたしは彼女の長靴を脱がせた。
茉里ちゃんの足は折れていた。足首が本来とは逆側の方に向いている。
「痛いの?」
うんうんと首を縦に振って、彼女はわたしにしがみつく。その手はやはり冷たかった。
手の温度に比例するように、わたしの心は急速に冷えていく。しとしとと降り始めた雪が手の甲に落ち体温を奪っていくようだった。
あまりの冷たさに、もしかしてこの子、もう死んでいるんじゃないかな? という想像が頭から離れない。
試しに茉里ちゃんの右足首に触り、そっと揉んでみる。それだけで彼女は喉が裂けそうなほどの悲鳴をあげた。辺りの木々が振動するようで、音の波はわたしの全身をびりびりと打った。
「どれくらいの怪我なのか調べてあげるから、今からすること、痛いか痛くないか教えて」
触る手のひらに力を入れ、思いっきり握りしめてみる。砕けた骨の感触がありありと伝わる。茉里ちゃんはもっと大きな声を上げて泣いた。さっきのが限界だと思っていたのに、こんな小さな女の子にこんな声が出せるんだ、と思った。そんな獣じみた叫びだった。
落ちていた太い木の枝を手に取る。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔になっていた茉里ちゃんは恐々と、わたしの手にする木の枝を見上げた。
「きっと治るから、もうちょっとだけ我慢してね」
枝を骨折の患部に押し当てる。枝の左右を両手で握り、少しずつ体重をかけていく。
その場を飛び、枝にのしかかる。ごきゅ、という嫌な音がした。茉里ちゃんは暴れる。彼女の爪がわたしの腕を引っかくので、その小さな体を思いきり突き飛ばした。
「どれくらい痛いのか、言ってくれないと分からないよ」
ぱちぱちと、頭の中で青い光が瞬く。稲妻のようなそれはわたしの両眼の奥を切断するようで、しかし痛みはさほど感じなかった。
「ごめんね茉里ちゃん。ごめんね」
自分の口から出た言葉が、自分のものではなかった。まるで他の誰かがタイピングした文章を無理矢理読まされているような。太い枝を持ち上げる右腕が重い。とてもじゃないがわたしの細腕で振り回せるような物じゃない。しかし身体は枝の重みを意に介さず、意図した動きを実現させていた。
自分の中で渦巻く、明確な変化の訪れを感じていた。
虫を殺すように、とわたしは思う。
茉里ちゃんの身体に傷が増えていくたび、わたしの一部が切り取られ、脳の奥へと押しやられていくのが分かった。押しやられたわたしの一部には、金属製の錠が一つ、また一つと嵌め込まれていく。そんなイメージが浮かんで離れない。
ぶつんと視界がブラックアウトし、次には目の前がぱっと明るくなる。そんな事を繰り返していくうちに、わたしの思考は断片的に途切れていった。
気づけば、茉里ちゃんはほとんど裸の状態で沼に浮かんでいた。彼女の血で、ピンク色のマフラーは汚れきっている。
気づけば、なんて言うけど、わたしはどういう経緯で茉里ちゃんがこうなったのかをしっかり把握していた。足元が地についていない感じがするだけで、わたしの手にはちゃんと茉里ちゃんの肉や骨を打つ感触が残っている。
あのキタキツネが見ていた。
茉里ちゃんが死んでいる沼の向こう側から、やはり諫めるような目で。しばらくその視線と睨みあっていたが、その子の目は強かった。身じろぎどころか毛の一本も揺らめかない。まるで木彫りの彫像のように、鋭い瞳をひたと向け続ける。
耳にはまだ、茉里ちゃんの言葉が残っていた。
なして。
コトちゃん、なして。
キタキツネの態度に根負けして、わたしはそっと、霜のはった足元の雑草へと視線を落とした。