断章(三)
アラーム音が東北新幹線の車内にこだました。
三列シートの中央で古都実は覚醒する。
どうしてこんな場所で目覚めたのか理解できないのだろう。彼女は怯えた目つきで、左右に座る少年少女を見る。
咲子と吉村は視線を交差させる。自分たちの顔が分からないのは百も承知だった。
吉村は彼女を不安がらせないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「恐がらなくても大丈夫ですよ古都実さん。ここは盛岡行きの、はやぶさの車内です。そして僕たちは貴女の付き添いの者です」
吉村は目で合図をする。それに頷き、咲子はトートバッグからノートを一冊取り出した。
『⑭』という、三日前に新しく作成したノートだった。
「まずは落ち着いて、これを読んでください」
古都実はおずおずとノートを受けとる。表紙をめくり、一ページ目を読むと、驚きで目を見開いた。
・わたし(北山古都実)の記憶は6時間しか持たない。
・相良行秀の暴力により、前向性健忘症を患った。
・記憶は、0時、6時、12時、18時を境にリセットされる。記憶を失った日からこれまでのことが思い出せない。
「これ、なにかの冗談だよね?」
吉村は緩く首を振る。
「本当のことです。書かれてある字に見覚えがあるでしょう。全て古都実さんの字ですよ」
「それに、これ……」
・また、0時~6時のわたしには別人格が宿っている。北山古都実本来の人格とは、似て非なるものである。
◆◆◆
「二重人格……」
『⑬』のノートに見入ったまま咲子は呟く。その横で吉村は深く首肯し、和室の戸を見つめた。
三日前のことだった。真由を自宅に送り届けると、三人はその足で古都実のマンションへ向かった。
咲子たちをリビングに通しお茶を出すと、古都実は「少し書き物をさせて」と和室に籠ってしまった。少し、と言ったものの、彼女が再び和室を開けるまで、たっぷり二時間はかかった。
その間咲子と吉村は、一連の事件についての物証を一通り見直した。リビングのテーブルにはSDカード一枚、ノートが十三冊の他、吉村が独自で収集した被害者に関する書類や写真の数々が並んだ。
吉村は煎茶に口をつけて語り出す。
「そう、二重人格。正式な病名としては、解離性同一性障害と言ったかな。フィクションではよく取り上げられる病気だけど、実は世界でも数例しか確認されていないほど珍しい精神疾患なんだ。前向性健忘症と平行して患っている人なんて、人類の長い歴史を見ても古都実さんただ一人じゃないかな」
これを見て、と吉村は古びた紙束を寄越してくる。
咲子は訝しげに、紙紐でまとめられた三十枚ほどの書類を見下ろした。
「十五年前、盛岡で起こった幼女暴行・死体遺棄事件の調書だよ。コピーだけどね」
「なんで一般人がこんなもん持ってんの」
「忘れた? 僕の兄さん、弁護士なんだよ。東京で売れない法律事務所をやってる」
「いやそりゃ知ってるけど」咲子は手の甲で紙束をはたく。「あんたんとこの守秘義務どうなってんのよ。こんなことが他でバレたらお兄さん信用失って、事務所ごと倒産しちゃうよ」
吉村は悪気もなく高笑いした。
「事務所は守秘義務を守ってるよ。遵守していると言ってもいい。ただ僕が破っているだけだ。兄さんや事務員の目を盗んでね。それに僕は咲子さんを信じているし、外には絶対漏らさない。大丈夫だよ」
何が大丈夫? と言いかけた言葉を飲み込み、咲子は深くため息を吐いた。
ざっと調書に目を通した咲子は、歯の奥で放置された飴の残骸を舌の上に戻し、考えを巡らせた。
この調書で注目すべき点は、やはり第一発見者である北山古都実(当時10歳)の証言だろう。
被害者の湯田茉里(8歳)の遺体はひどい状態だった。肌着のみの状態で山奥の沼に遺棄されていたそうで、その体には無数の打撲、裂傷跡が残っていた。
遺体を発見した古都実は逐一交番へと駆け込む。そこで警察に次のようなことを話した。
ちょっと目を離した隙にいなくなってしまいました。山中を探し回って、茉里ちゃんが死んでいるのを見つけたんです。
怪しい男を見ました。男は黒いジャケットに野球帽で、目尻のつり上がった、すごく恐い顔をしてました。
だが翌日の昼。古都実の自宅へ刑事が訪れ、改めて事件当時の状況を尋ねたが、古都実は全てを忘れてしまったように何も答えられなくなっていたという。
咲子は調書をテーブルに放った。
「普通の見方をすれば、茉里ちゃんの遺体を見たショックで記憶が飛んじゃった様にも考えられるけど、事件直後のこの証言がくせ者ってわけね」
吉村は嬉しそうに頷く。自分が自然と、彼の喜びそうな言葉を選んでいたことに気がつく。それが急に悔しくなって咲子は口をつぐんだ。
「怪しいとされる男の特徴を観察し、記憶して、それを警察へ告げた。つまり一度は冷静な彼女が居たんだ。事件翌日の古都実さんが何も答えられなくなっていたのは、事件のショックだなんて、そんな都合の良い記憶障害によるものじゃないと僕は見ている」
「だからって古都実さんを二重人格者扱いするのは、話が飛躍し過ぎてるでしょ」
吉村は呆れたように肩をすくめる。
「よく言うよ。古都実さんの変貌を直接目の当たりにした人が」
咲子は飴の残骸を噛み潰し、そのまま苦い表情で押し黙った。
森林公園の登山道からつながるあの山は、甲名山というらしい。あの夜、散歩で迷い込んでしまった咲子はその山の名前を先日初めて知った。
あの夜の古都実の挙動には、確かに納得いっていない。
声をかけた瞬間の彼女の顔は、怯えと緊張に満ちていた。あれはまるで世界の終わりを目撃した瞬間のようだった。だが、アラーム音が鳴り止むと同時に彼女は表情を一変させる。あの全能感に満ちた優しい笑みに、自分が迷子であることすら忘れ、つい見とれてしまったことも。
思い返せば、あのアラーム音は深夜の0時を告げる合図だったのだろう。
咲子は以前と比べ、自分が『人の顔』をよく観察するようになったという自覚がある。とある経験を経てからというもの、それが小さな興味の対象となりつつあった。
『顔』が持つ意味は深い。そこから読み取れる情報も、存外多いと知った。
人格が『顔』をつくり、性格は『表情』を型取る。浅学ながらに、そんな根拠の無い理論を自分の中で確立しつつある。いわば持論だった。
咲子の持論が確かなら、0時以前の古都実と0時以降の古都実は全くの別人だった。その人の性格やこれまで生き方が表情や顔立ちを形成するのなら、『夜の古都実』と『深夜の古都実』の間には深い隔たりがあった。もっとも、彼女が特定のスタイルを持たない芸達者な映画女優であれば話は別だが。
ともかく、咲子が彼の提示する『二重人格者説』を強く否定できないのには、そういう理由があった。
◆◆◆
車内販売のワゴンが横を通り過ぎていく。後を追うように、無表情の車掌が検札のため通路を歩き回る。
夜闇の中、東北新幹線は北へ北へと突き進んでいた。終点へ到着するまで、あと二時間ほどある。
吉村が滔々と語っていく『深夜の古都実』と『本来の古都実』の対立の模様を、古都実は黙って聞いていた。彼女の視線は斜め下、自身の膝元の両手へと落ちている。その右手は、左手を守るように固く握られていた。
「要するにわたしは、『深夜のわたし』との駆け引きに勝った、と考えていいのかな」
「少なくとも、『深夜の古都実さん』は敗けを認めていますよ。彼女の敗因は僕や咲子さんという、外部の存在にまで気を配れなかったこと。記憶の続かないあなたに新たな人との繋がりが作れるわけがないと、そんな風に彼女はあなたを見くびってしまった。加えて『深夜の古都実さん』は、ある一点において非常に強い有利性を持っていた」
吉村は車窓の先を見つめたまま言う。
『深夜の古都実』には、記憶の連続性があった。そこが『本来の古都実』との決定的な差を生んだが、しかしそこにはある条件がある。
彼女が保持できるのは『深夜の記憶』だけだった。障害を患ってなお、『深夜の記憶』に限っては常人レベルの記憶力で引き継ぎが出来たのだ。
「『深夜の古都実さん』にとってはそれだけで十分だった。記憶を一切引き継げない、別人格の存在すら認知していない。そんなあなたを騙すのは赤子の手をひねるようなものでしょう。何も知らされていない『本来の古都実さん』の行動など、ノート一冊を読み通すだけで簡単に把握し、掌握できた。そんな優位な立場にいたからこそ、そこに油断が生まれたんですね」
咲子は流し目に、古都実の横顔を伺う。彼女に勝ち誇った様子はない。寄せられた眉根には、むしろ嫌悪感や羞恥心のようなものまで見て取れる。
それはそうだろうな、と咲子は思う。
これはただの一人相撲だ。勝っただの敗けただの、そんなのは独りよがりな自己完結でしかない。葛藤や悩みの解決を勝敗と呼ぶ者はいないし、心の中には天使も悪魔も住んでいない。二つの選択肢を決定するのはいつだって自分で、そこに他者の意思が介在する余地は、本来ないのだから。
「あるとき、あなたは変わりたいという意思を持った。自身の成長、新たな人との繋がりを持ちたいと思ったんだ。きっかけは瀧本ベーカリーでの出会いの数々だったのかもしれませんね。計らずもそれが、『深夜の古都実さん』を破る要因となった」
古都実は、背中とシートに挟んであった『⑭』のノートを手元に持ってくる。始めの5ページにはこれまでと同じように、自身の状況を知るための基礎情報が記載されている。
6ページより先にはある文章が綴られていた。いつもの日記ではない。『深夜の古都実』から『本来の古都実』に向けての、10ページ分ほどの長いメッセージだった。
「もはや僕が多くを語る必要はないでしょう。彼女の告白は全てそこにあります。まだ時間はたっぷりありますから、一度だけでも目を通してあげてください」
古都実は目を伏せ、紙コップの林檎ジュースを傾ける。小さく息を吐いた。
さ迷い続ける喪失の果て、失くした記憶を必死で手繰り寄せ、幾度となくその断片を繋ぎ合わせる。何十何百と繰り返してきただろう。果てしない遠回りの末に彼女はついに真実と対面する。
「何かここに、わたしが知りたくもないことが書かれているかもしれないんだよね。ドキドキするし、恐い気持ちもあるけど。何だかそれと同じくらい、ほっとした気分」
彼女は諦めたように静かに首を振る。
「記憶が持たなくて良かったなんて、わたし、今まで思ったことあるのかな?」
そう言って彼女はノートを開き、『深夜の古都実』のメッセージを読み始めた。
●あとがき
・とあるメッセージアプリより
1/7(木) 22時頃
mayu∞mayu:ねえ咲子さん
mayu∞mayu:マユね、こないだ変な夢見たんだ
さっきぃ:んー?
mayu∞mayu:なんかね、夜中に吉村くんに電話で呼び出されてね、お小遣いくれるって
mayu∞mayu:で、アート広場で待ち合わせしたんだ。でも吉村くん全然こなくて、やっぱイタズラだったのかなって思ったんだけど、
mayu∞mayu:すっごい綺麗なおねえさんに話しかけられたの
mayu∞mayu:咲子さん、マユの誕生日にマフラーくれたでしょ?
さっきぃ:あげたね
mayu∞mayu:おねえさんね、それと同じマフラーしてたんだ。色違いのやつ。なんか運命だなーと思って
mayu∞mayu:吉村くんが来るまで、そのおねえさんに遊んでもらったの!
さっきぃ:何して遊んだの?
mayu∞mayu:ツムツム! もちろん、マユの圧勝だよ
mayu∞mayu:でもマユ、いつのまにか寝ちゃって
mayu∞mayu:気づいたら、自分ちのお布団の中にいたんだ
mayu∞mayu:すごいリアルだったけど、やっぱあれ、夢だったのかなあ? どう思う?
さっきぃ:あー、それ
1/8(金) 6時頃
さっきぃ:夢だよ
mayu∞mayu:寝てたでしょ咲子さん!