序章
三矢サイダーキャンディーの個包装をやぶり、口に放り込む。そのまま、日野咲子は大きなあくびを漏らした。
真白ヶ丘市の市民ホールでは、地元出身の大学教授による公開講演会が行われていた。
講演名は「神経科学に基づく記憶の構造」。
教授は先日カナダから帰国したばかりとのことで、昔所属していた研究チームと飲みに行った話をした。ときに笑いを交えながら、それをもとに「飲み会の思い出が記憶として人の脳に形成される行程」について、パワーポイントを参照に説明していく。
なんであたし、こんなところにいるんだろう? と咲子は思った。
真剣に講義を聞く振りをして、左右に座る二人の部活仲間の横顔を交互に盗み見る。
左手の小峰真由は、すでに眠りの世界へと旅立っていた。ヨダレを隠しもせず口もとに光らせ、幸せそうな寝息がこちらまで聞こえてくる。講演が始まってまだ十分も経ってないんだけど。
彼女は二年生の春から咲子たちの学校に編入してきた。とにかく分かりやすい性格をしており、小峰真由を誰かに紹介するとき、咲子は決まって「天然素材のナチュラルバカです」と一言で済ませた。
編入当初、持ち前の小動物じみた容姿とキャラクターで男女問わずモテモテだった真由は、しかし周囲の期待に反し、クラスの一匹狼である咲子にべったりと懐いた。大したきっかけはない。ほとんど真由の一目惚れだった。咲子に四六時中付きまとっているうちに、彼女は流れで文芸部に入部することになった。
右手側では、堤信吾が顎に手を当て、教授の言葉にときおり頷きながら知的に眼鏡を光らせていた。
彼とは中学時代からの旧知の仲だが、咲子ははっきり言って彼が苦手だった。というか一緒にいるとイライラする。自分を常識ある知識人だと勘違いしており、咲子を尻軽なバカギャルと見下してくる。基本的に口数が少なく面と向かって言われたことはないが、堤の態度から嫌でも伝わってきた。文芸部の現状も納得いかないのだろう。たぶん「なんで俺がこのバカ二人の世話をしなきゃならんのだ。もっと高尚な思想を持った文芸仲間と互いを高め合いたいのに」とでも思っているだろう。
まあ、咲子は咲子で、堤のことを「部室の隅でしこしこ物書き無口眼鏡」と揶揄していたが。
この講演会の参加も、堤信吾の案だった。
もとを辿れば、毎月校内で発刊している部誌のネタ探しだった。今月のお題は『思い出』。いつもなら堤が短編小説を、咲子がエッセイ、真由が絵本を作成して部誌が完成するのだが、堤が「このところ、マンネリが過ぎるんじゃないか」と非常に面倒くさいことを言い出した。
「いいじゃんマンネリで。今の形がウケたからこそ、それなりに読んでもらえるようになったわけでさ」
堤一人で活動していた頃の部誌を暗に皮肉ってみた咲子だったが、鈍感な彼には通じない。
「日野よ、新たな試みなくしてどうして斬新な作品が生まれる? 生まれるとしても、それはただのつまらん日常の切り売りだ。それは創作者の怠慢でしかない。怠慢は停滞だ。停滞は作品の質をよけい翳らせる。新たな知識や経験や発見なくして、独創的な発想は生まれんのだよ」
独創的な発想は過去の名作で消費され尽くしてますよ、と吐き出しかけた反論を喉の奥に引っ込める。そんな言葉が通じる相手とも思えなかった。
創作やるヤツってのはいつもそうだ。自分にしか思いつかないものを作ってるって盲信してやがる。その実、心のどこかで「自分がやらなくても、他の誰かが似たような作品を生み出しているのでは?」と気付いているのだ。
しかし、だからってなんでこの講演会なんだろう。
咲子はあくびを我慢できなかった。
思い出ときて記憶。独創的というわりに、あまりに単純な発想な気がしてならない。
口の中がさびしくなっているのに気づいて、咲子は制服のポケットを探る。出てきた龍角散ハニーレモンジンジャー味を口に入れ、またあくびを一つ。
話題を変える合図のように、教授がマイクを左手から右手へと持ち変えた。
「そういえば、私には十六歳になる甥がおりまして。先週帰国してから十年ぶりに再会しました。子供ってのは十年も見ないうちに別人のように変わるもんですね。当時六歳の少年はテレビゲームが大好きで、色白で、家にこもってずーっとコントローラーをいじってました。ところが思春期になるとラグビーをはじめたようで、体も当時の何倍も大きくなって、色黒で体も締まってて、性格の方もずっと溌剌としているんですよ。別人、というのはそういうところで。『本当にあの○○くん?』というような。私の目からすると、六歳の彼と十六歳の彼は別人でしかないんですねえ。ところが本人にとってはそうではないんです」
咲子は暇つぶしに堤に話しかけようとしたが、彼は人差し指を口に当てた。咲子を一瞥し、「黙ってろ」という顔をする。
「彼自身は、六歳の自分と十六歳の自分は同一人物であると信じて疑わないでしょう。そんな当たり前のこと、考えたこともないかもしれない。しかし、どうして昨日の自分と今日の自分は、同じだと言い切れるのか? 十年前の彼と現在の彼では体を構成する物質はほとんど入れ替わってしまいますね。記憶の方もそう。人間は覚えて忘れてを繰り返しますから。精神性や性格もそうですよ。特に思春期であれば色んなことに影響受けて、昨日イエスだったものが今日はノーになるかもしれない。この市民ホールのそばで流れる人見川はどうでしょう。川を構成する水や石や不純物はどんどん入れ替わる。成分比率も日々変化するのに、だけどあれは同じ人見川として認知される。そんな風にすべて違うものが出来上がったとして、どうして自分は過去と同じだと認識するのか」
咲子は大人しく前を向いた。舌先で飴を転がす。
なんだかSFチックになってきたなあ。
「そこで『記憶の連続性』という、一つの可能性をあげたいですね。つまり一分前の記憶と今の記憶が連続していることで、過去の自分が今日の自分とつながっているだろうと思うわけです。そこで、えー、どなたかに質問しましょう。そちらの若い女性の方」
教授が伸べた手がこちらに向いたような気がして、咲子はあわてて居住まいを正す。やべ、あんま聞いてなかった。
スタッフがマイクを持って小走りにやってくる。
やがて、スタッフが前の席の女性にマイクを渡すのを見て、咲子はほっと息をつき、またあくびを漏らした。
「記憶の連続性、か……」
市民ホールを出て立ち止まり、しげしげと考えにふける堤を、咲子は迷惑そうに振り返った。
「なんか良いアイデアでも浮かびそうかな? 堤くん」
堤は黙りを決め込む。出口から真由が出てきた。昼の陽光を受けて、爽やかな伸びをする。
「やー、おもしろかったねえ咲子さん。マユ、難しい話キライだけど、ちょっとだけ頭よくなった気がするよ」
睡眠学習って都合いい言葉だよなあ、とふと思う。
そのとき堤がハッと顔をあげた。なにかを閃いたらしい。文豪気取りの彼がたまにやる、これ見よがしの仕草だった。周囲を見回し助手を探そうとしている。なんのアピールだよ。面倒なので、咲子はそれとなく真由のうしろに隠れた。
「どうしたの堤さん」
「緊急事態だ、小峰。こうしちゃいられない。まずは……そうだな、資料探し。図書館へいくぞ」
真由は大げさに反応し、目を見開く。堤の雰囲気に完全に呑まれていた。
「堤さん、もしや閃いたんですね。天才的ななにかを」
「天才的どころではない。人類の文学史を引っくり返す世紀の傑作が、いまここに生まれた」堤は自分のこめかみをトントンと突く。
「ま、マユ、協力します! 堤先生!」
足早に立ち去っていく二人を、咲子は笑顔で見送った。
ほんと純粋だよ、あの人たち。
咲子は駅ビルのデパ地下に立ち寄り、買い物を済ませてから帰宅した。日曜の朝から部の活動で駆り出されて、すこし疲れてしまった。甘いものでも食べながら残った休日を楽しもう、そう咲子は足取り軽く帰路に着く。
しかし自宅で待ち受けていたのは、吉村浩介だった。彼は玄関の前でしずかに佇立しており、何をするでもなく鼻唄をうたっていた。
「やあ、奇遇だね咲子さん」
「ひとん家の前で待ち伏せしといて、奇遇もくそもないと思うんですけど」
吉村の朗らかな笑みに、咲子はそこはかとなく嫌な予感がした。彼とは何かと因縁が深いのだが、出来れば関わり合いになりたくない人物だった。
「ひとつ気になることが出来た。咲子さん、ちょっと付き合ってくれないかな」
くれないかな、と言うものの、咲子の腕を掴んでくるその握力には是非を問う余地もなさそうだった。咲子は努めて笑みを繕う。
「すごく興味深いんだけど、その話、明日でも大丈夫かなあ? 今まで文芸部の活動やっててさ、あたしちょっと疲れてんのよね」
「明日って、学校だよ」
「学校で聞くから。休憩時間とか」
「十分やそこらで終わる話じゃないんだよ。ていうか咲子さん、学校で僕のこと見かけたらすぐ逃げるだろ。僕らのカップル疑惑が起こってからずっとそう。あれだろ。どうせまた僕の悪評、女子全員に広めてんだろ。バレてないとでも思ってんの? 傷つくんだよなぁ。そういうのがいじめの始まりなんだぜ」
始まらねえよ。
「じゃあもう逃げないし、悪評も広めないし、昼休みか放課後に話聞くから。それにあたし、これから家で甘いもの食べようと思って、買い物まで行ってきたんだから」
咲子はデパ地下の買い物袋を持ち上げてみせる。吉村は訝しげに袋の中を覗き込んだ。
「飴?」
「飴」
咲子は問答無用で引きずられていった。
喫茶店ソレイユは咲子と吉村の行きつけだった。一軒家風の外観に、テラスには様々な観葉植物が植えつけられている。
馴染みの不良風店員がやってきて注文を取り、レジ奥へと消えていく。コーヒーと苺のスムージーを雑に並べると、彼はぶらぶらと表へ出ていった。
吉村が話したのは、駅前に古くからあるパン屋のことで、そこで働くとある女性についてだった。吉村は昔からそのパン屋を贔屓にしていたが、その女性は基本的に厨房に籠っていた。いつも客対応は店主の中年女性が行っており、吉村はしばらく彼女のことを知らなかった。最近ではその女性が会計を任されるようになったこともあって、ようやく吉村は彼女の存在を知ることになる。
「年の頃は二十代半ばくらいかな。例に漏れず、綺麗な女性だよ」
「何の例?」
「僕が恋をする相手のことさ」
吉村が使う『恋』の意味は、通常とは違う。咲子はそれを知っていた。
「こんな素敵な女性が働いていたんだなと驚きだったよ。むろん僕は店に通う頻度をあげた。あんな美人なのに、なんで今まで厨房にいたんだろう。あの容姿なら立派な看板娘になれる。だけど、そこには事情があったんだろうね」
「事情?」
吉村は深く頷いた。
「彼女、常連さんの顔を覚えないんだよね」
吉村はその店に行くと、決まって160円のメロンパン二個と220円の石窯焼パンを一個注文した。
「計540円の買い物だね。正直他のパンも食べたかったけど、彼女がレジにも立つようになってからは毎回やった。あ、540円の人だ、って覚えてもらおうと思ってね。そんな風に、三日に一回くらいのペースでその店に通った」
「吉村くんのそういう無駄な行動力、ある意味感心よね」
「けどダメだった。彼女、一向に僕のことを覚えてくれない。毎度丁寧にレジを打って、いくらですね、なんて言うんだよ。ていうか、たまに打ち間違えることもあるし」
咲子は足を組み変え、苺のスムージーをすすって考える。
「なんて人だっけ」
「北山古都実さん。名札に書いてあった」
「言い方が悪いかもしれないけど、それって単に吉村くんに心底興味なかっただけじゃない? 古都実さんの記憶にかけらも残らないくらいに」
「本当に言い方悪いね」吉村は苦笑する。「僕もそう思って、しばらくショック受けてたんだけどさ。この間、どうやらそうじゃないかもしれないって出来事があった」
それはとても小さな変化だった。諦め半分でパンの乗ったトレイを会計台に置くと、古都実はレジも打たずに「540円ですね」と言ったのだ。
驚いて顔をあげた吉村に、彼女は躊躇いがちに口を開く。「もしかして、いつもうちに来てくださる方ですか?」と、何か確信のないものを確認するかのように。
「おかしいと思わないかい咲子さん。毎回同じ商品を持ってくるやつだって、そういう確信があったから、彼女はレジを打たなかったんだ。もう覚えましたよって、そういう意思表示だと僕は捉えた。なのに『いつも来る人ですか?』だって。ひどいじゃないか。だって僕は三日に一回ペースで顔を出したんだ。僕ってそんな印象薄い顔してるかな?」
「ねえ、これ何の話? 恋愛相談の愚痴だったら明日学校でも全然良かったじゃん」
彼はもどかしそうに首を振った。そんな話じゃない、というように。
古都実はこうも言った。「次回お店に来たとき、伝言をお願いしたいんです」。誰にですか、と吉村が問うと、古都実はいくらか間を置いて「私にです」と返した。
自分に? 咲子はいよいよ吉村の言う不審点に思い至る。
彼女はおそらく相当物覚えの悪い人物なのだろう。常連の顔が覚えられないし、しばらくレジ打ちも任せてもらえなかった。
だからといって、自分に向けての伝言を、赤の他人に頼むだろうか。大事なことを覚えていられないならメモにでも記せばいい。
「ちなみに何て伝言だったの?」
「伝言をもらったその夜に小型のビデオカメラを購入して、自宅に設置しろ、だってさ」
咲子は無言でスムージーを吸った。
吉村もおもむろにコーヒーを傾ける。
「意味が分からないね」
「だろ」
そうは言うものの、咲子の中で引っ掛かるものがあった。今日の講演会で、教授が言っていたことだ。
ーー昨日の自分と今日の自分が同一であると、どうして言い切れる?
「記憶の連続性……」
その言葉に、吉村は嬉しそうに微笑む。
「やっぱり、持つべきものは咲子さんだね」
そうして彼は両ひじをテーブルにつき、手を組んで口許を隠した。
「古都実さんはきっと、毎日違う古都実さんを生きている。全くの別人が古都実さんの姿をして、入れ替わり立ち代わり彼女の振りをしているのかもしれない。あるいは、全く同じ人物が毎日新しい人生をやり直しているのか。いずれにせよ、彼女には記憶の連続性というものがない。だから自分自身への伝言を必要としたんだ」
「それを差し置いても不審な点があると」
その通り、と吉村は頷く。
「彼女はいつもノートを持ち歩いているみたいだった。後生大事に、ときおりすがるようにノートを開いていた。それにはきっと自分のすべきことが書いてあるんだろう。自分の記憶に問題があるということを自覚しているんだ。だったらどうして他人を頼るのだろう。自分への伝言にそのノートを使用しないのは何故か? そして彼女の託した伝言の真意とは……」
静かにテーブルに目を落とす彼の次の言葉を、咲子は黙って待っていた。だが彼は一向に口を開かない。咲子は息を呑んで見守ったが、静寂は流れ続けるばかりだった。
カア、と遠くでカラスが鳴く。
ふいに吉村は顔をあげ、首を傾げた。
「いや、そっからが分からないから咲子さんに相談してるんだけど」
咲子はずっこけそうになった。