初めての図書室
祭りに誘う……そう決意したといっても、それはあくまで予定。実際にその通りに出来れば苦労しない。
夏休み、補習が始まって五日目。俺はいまだ朝桐さんと連絡を取れていなかった。
「そのプリント、全部やったら帰っていいぞ」
プリントが配布され、その問題をひたすら解いて提出する。国・数・社。どれも同じやり方の補習だった。
補習という言葉から、俺はなんとなく「教師がテスト範囲を授業してくれる」と思っていた。
しかし冷静に考えれば、夏休みとはいえ教師だって他にも仕事がたっぷりある。ある意味、お互いこっちの方が楽かもしれない。が、やはり補習は補習。プリントは一科目にだいたい三十枚はあった。
国語なら漢字の書き取り。数学なら計算問題。社会なら四択問題。どれもどこかの教材からコピーしてきたようなものばかりだった。
「終わったやつから帰っていいぞ」
つまり、七日とは目安で、早く終わらせようと思えば終わらせられる。そう考えるとやる気が出た。俺は意気揚々とプリントを終わらせにかかることにした。
だが、威勢のいいのも最初の三十分だけ。俺はすぐに苦痛に感じ始めていた。
決してできない量ではない……ないんだが、どうしてもこれに合わせて正規の「宿題」があると思うと、どっと疲労感が増したからだ。つか、普通に七日で合計九十枚は頭おかしい。
補習は罰でもある。俺は改めてそれを思わされた。俺は全九〇枚、一日約十三枚を目標に、プリントを埋めていくことにした。
「今日はここまで。解散」
九時から始まり十二時に終わる、名ばかりの補習時間が終わる。俺はじーっとプリントを見る。
「……おかしいな」
予定ではこの時間の間に十枚は終わるかと思っていたが、半分の五枚しか埋めることはできなかった。
「や、やはり数学から攻めるのは失敗だったか……」
うん、計算問題に時間を取られていたんだな。国語からいけばもっと埋まっていたはずだ。
俺は苦手科目から終わらせるという作戦を変え、得意もとい単純作業の漢字の書き取りからやることにした。
俺の考えは正解だった。あっという間に枚数は減っていき、俺は国語分を終わらせた。
「お、おえぇ……!」
だが、一枚につき漢字一つを書き続けるという行為は、苦行以外のなにものでもなかった。ゲシュタルト崩壊、俺は目を閉じても漢字がチカチカ浮かんできた。
その分、時間を稼ぐことはできた。あとは歴史の穴埋めと計算問題だ。
「……よ、よっしゃあ!」
三日目、寝る間やゲームする時間を惜しみながら、俺の「罰」は計五十枚済ませることに成功した。
補習が終わるまで残り二日。全然間に合う。
「――今日はここまで」
「あれえ?」
四日目、なぜかいつの間にやら補習は終わっていた。
「間に合うなら文句は言わん」
担任は俺の頭を叩き出ていく。そこで俺は補習時間ずっと寝ていたことを知った。
「やっべえ……やべえ!」
予定じゃ今日中に終わらせ、余裕を持って朝桐さんを夏祭りに誘うという計画が狂ってしまう。俺はかなり焦りながら家に帰ろうとした。
「いや待てよ?」
このまま頭に血が上った状態で帰れば、途中で事故るかもしれない。いやそうじゃなくても、家に着いたという安堵感から眠りに落ちてしまうかもしれない。
ならばと俺は、下校時間になるまで図書館にこもることにした。
「涼しっ」
二階校舎にある図書館に入った俺は、そのあまりにも快適な空間に、あっという間に魅了された。
「こんな涼しいなら、最初から来とけばよかった……」
心理的に図書館に抵抗を持っていたが、勉強をするにはもってこいだ。俺は誰も座っていないテーブルに腰を下ろした。
「さてと」
残り枚数を減らそうとする前に、俺は頭をすっきりさせるために、目を閉じた。一分間睡眠法とかいうやつだ。
ページをめくる音、冷房から流れる心地よい風……。一分じゃなく十分間にしよう。俺は浅瀬と深瀬の中間くらいにいるイメージを持って、眠りについた。
「…………ん。……くん」
耳元で声がする。寝ぼけた眼をゆっくりと開く。
「皆見くん」
聞き覚えのある声。俺は完全に目を開き、その正体を見る。
「うおおお!」
あまりにもびっくりした俺は、素っ頓狂な声を出した。
「きゃっ!」
声の主もそれに驚き、勢い余って倒れそうになる。俺はとっさに手を取り、それを阻止した。
「あっ! ご、ごめん! ……あ」
声をかけてきたのは、まさかの朝桐さんだった。
「――っとごめん」
ずっと手を握っていたことに気づき、俺は慌てて離す。朝桐さんは困ったように笑いながら、なんとか声を出した。
「あの、皆見くん」
「はい!」
自然と姿勢を正す。俺は朝桐さんを見上げた。
「もう図書館がしまる時間です」
「え?」
俺の首は壁にかかった時計に向く。五時を回っていた。
「……それじゃ!」
勢いよく立ち上がり、俺は朝桐さんにそう言って図書館を出た。
「あああああ! くそったれええ!」
課題ができなかったどころか、朝桐さんに小汚い寝顔を見られてしまった……!
とてもじゃないが、もう朝桐さんを誘うなんてできない。俺はさっさと帰って、今日寝た分を取り返す
ために黙々と課題を終わらせることを決意した。
「皆見くん」
夏祭りは夏彦を誘おう。そして夏彦の家に泊まらせてもらって徹夜でゲームをしよう。俺がそう計画を変更した時だった。背後から俺を呼ぶ声がした。俺は走り出そうとしたところで止まり、首だけを後ろに向ける。朝桐さんだった。
「ド、ドウシタノ?」
ロボットのような口調で、俺は朝桐さんに尋ねる。朝桐さんは息を切らせながら、俺に一枚の紙を見せる。
「これ、忘れてましたよ……」
補習の課題だった。俺はぶんと手を振り、プリントを手に取った。
「こ、これはその……」
もう隠せない。いや、隠す必要なんてそもそもない。俺は推理小説の犯人のごとく、全てを自供することにした。
「えらいですね」
「え?」
頑張ってください……そういった同情の言葉なら分かる。だが、「えらい」なんて予想外だった。
「それって、宿題にはない、参考書をコピーしたプリントですよね? 先生に頼んだんですか?」
「まあ、頼んだというより頼まれたというか……」
「わたしなんて宿題だけで手一杯なのに……すごいと思います」
嫌味とか皮肉じゃない。朝桐さんはプリントの意味を知らず、本気でそう言っていた。
「あ、あはは……単に俺が馬鹿だからやらなきゃいけないだけだよ」
決して嘘はついていない。俺は補習のことは口にせず、謙虚に答えた。
「でも、無理はしないでくださいね。さっきも眠っていたみたいでしたから……」
……これ以上心配されると、逆にいたたまれない。俺はプリントをカバンにしまいこみ、話題を変えた。
「朝桐さんは読書?」
愚問と分かっていても、それぐらいしか話題は浮かばなかった。
「はい! 夏休みが始まってからずっと通っています!」
それでも朝桐さんにはいいネタだったようで、水を与えられた花のようにのびのびと答えた。
本という言葉を聞いただけで眠気が襲うが、なんとか爪を手のひらに食い込ませながら聞くと、図書館は冷暖房管理で、けっこう新しい小説も多く取り入れられているとか、図書館の利点を元気よく語った。
「……だからみなさん、もっと利用するべきだと思うんです……あ、すいません……!」
本関連の話は本当に饒舌だ。俺は気にしていないと言った。
「むしろ、謝るのは俺の方だし……」
図書館で本を読む。そんな当たり前なことをせず、勉強どころかただ眠っていただけの俺は、朝桐さんのような「ガチ勢」に対し申し訳ない気持ちがあった。俺は改めて、図書館で勉強しないことを心に決めた。
「あの、皆見くん。明日も……図書館で自習するんですか?」
「え? うん」
信念はスティック菓子のように、すぐにぽっきりと折れた。
「そ、そうなんですか……」
俺の返答に、朝桐さんはなぜか顔をそらした。……あっ。
「自習はするつもりはないよ。明日は普通に本を読みに行くよ」
自習するなんて言語道断、そんなことは許さない。朝桐さんはそういう意味で訊いてきたのだと、俺には理解できた。
「だからもし良かったら、おすすめの本があったら教えてくれない?」
「もちろんです!」
朝桐さんは顔をこちらに向け直す。全てを超越するかのような、まぶしい笑顔だった。
「楽しみにしているよ。じゃ、また明日」
「はい、さようなら」
朝桐さんとは別のホームへと向かい、俺はちょうどやって来た電車に乗り込む。
「……ふう」
いつもは帰ったらゲームをしたり漫画を読んで過ごしていた。
「計画変更、だな」
俺は三度目の徹夜を決意した。




