彼女は椅子に座る
僕は彼女が好きだ。
正確に言うと、彼女が椅子に座る瞬間の、その姿が好きだ。
それはきっと、彼女の席が僕の席の前方にあり、そのシーンを目にする機会が多いせいだ。
正確には、彼女の席は僕の席の左前。僕の隣の女の子の、前の前が彼女の席だ。そこは教室の一番前の一番左。グラウンドに面した南の窓の横にある、とっても日当たりのいい場所だ。きっと彼女の席からは、体育の授業で走り回るジャージ姿の生徒たちや、その向こうに広がる畑の多い田舎の町並みの様子なども、よく見えるはずだ。
けれども彼女は授業中、決してそちらを見たりはしない。一心に黒板のほうだけを見つめている。彼女はとっても真面目なのだ。
彼女は細身で背は普通。どちらかと言えば地味なタイプの女の子だ。大人しそうな色白の顔に、手足の細い華奢な体。肩の下までの黒い髪は、いつも後ろで一つにくくられている。
そして彼女は薄い黄色だ。
彼女のことを思う時、僕はいつも薄い黄色を思い出してしまう。それが彼女の見た目の雰囲気からなのか、彼女の名前の響きからなのか、彼女が何か黄色い小物でも持っているのを見たことでもあったからなのか、それははっきりしないのだけれど、とにかく彼女は薄い黄色だ。僕の中ではそうなのだ。
高三で初めて同じクラスになり、そして、この席順になってすぐ、僕は彼女に魅せられてしまった。正確に言うと、彼女が椅子に座るその姿に、だ。
彼女はいつも音を立てないようにゆっくりと椅子を後ろに引き、スカートの裾を優しい手つきで抑えつけ、そして静かに椅子に座る。穏やかな様子で椅子に座る。まるで、湖面に花びらが落ちるみたいに。
……その姿が僕は好きだ。たまらないほど好きなのだ。
理由は自分でもよく分からない。きっと「好き」には理由がないのだ。
……とにかく、薄い黄色の彼女が椅子に座るその姿を、一回でも多く見たいと、いつも僕は思っている。
けれど、ある日ふと気がついた。授業中以外で彼女が椅子に座る瞬間を僕が目にする回数が、何故だか極端に少ないことに。
例えば、僕の隣の女子なんかは、一日に何度も席を離れてどこかへ行く。誰かと話しに出掛けて行ったり、用もないのにベランダに出たり、休み時間ごとに友達と連れだってトイレに行ったりなんかする。そして戻って来て椅子に座る。
けれども彼女は全然なのだ。ちっとも席を立たないのだ。当然、帰って来て椅子に座る瞬間を僕が目にする回数も、減ってしまう。
……これは一体どうしてだろうか? 何か訳でもあるのだろうか?
僕はなんだか気になって、ますます彼女を見つめ始めた。
朝、彼女はいつも誰よりも早く登校して来て、もう自分の席に座っている。授業の合間の休み時間も、彼女は椅子に座ったまま静かに本を読んだりしていて、席を立つことは滅多にない。昼休みも席で一人で弁当を食べ、食べ終わると再び一人で読書を始める。美術や体育などの移動が必要な授業の後も、彼女は誰よりも早く戻って来て、もう自分の席に座っている。その様子はなんだか少し頑なで、まるで、椅子に座る瞬間を人に見られてしまうのを、避けているみたいな感じさえする。
……結局、意識して観察してみた週末までの三日間で、授業中に指された時と、トイレの後以外で、彼女が椅子に座る瞬間を僕が目撃出来たのは、一回だけだった。それも、授業の合間に先生に用事を頼まれてしまった、その不可避の一回だけだった。
……これは一体どうしてだろうか? 彼女には、何か事情でもあるのだろうか?
僕はますます彼女に夢中になり、彼女の謎に夢中になった。
ある日、こんなことがあった。
昼休み、弁当を食べ終えていつものように一人読書をしていた彼女は、担任教師に再び用事を頼まれて、教室の外へと連れ出された。「すぐに済むから」と笑顔で言われて手招きされて。
僕はすぐに立ち上がり、周囲の目を盗んで教室の後ろの掃除用具入れの中に入ると、そのまま彼女の帰りを待った。いつものようにチラチラと上目づかいで見るのではなく、この機会を利用して、思う存分彼女が椅子に座るその姿を眺めるために、だ。
教師の言葉に嘘はなく、彼女はすぐに用事を済まして戻って来た。そして、自分の席の前まで行き、そこで一回立ち止まると、ゆっくりと教室中を見回し始めた。
僕は息を詰めて彼女のことを見つめている。扉のわずかな隙間から、覗き見している背徳感に多少の興奮を感じながら、まじまじと彼女のことを見つめている。
教室にはいくつかのグループが残っている。席をくっつけてお弁当を食べる女子のグループが二つと、食べ終えてベランダのところで騒ぐ男子のグループが一つ。それから机で寝ている男子。
彼女はすごい集中力で彼らのことを見回すと、全員の視線が彼女のほうに向いていないのを確認し、それからようやく椅子に座った。
……素早く、無音で。まるで、店員の視線をかいくぐる熟練の万引き犯みたいな目つきをして。
……その姿を見た僕は、ようやく彼女のことが分かった。理由はさっぱり分からないけれど、彼女は、恥ずかしいことだと思っているのだ。椅子に座る瞬間を人に見られてしまうのを、恥ずべきことだと思っているのだ。それも、死ぬほどに!
これは突飛な発想だろうか? 僕の単なる妄想だろうか? いや、決してそうとは言い切れないだろう。人間の信じる真にも善にも美にも恥にも、「絶対」なんてないのだから。誰かの信じるそれらの価値が、他の誰かと一致するとは限らないのだから。……ただ、一つだけ分からないことがあるとすれば、それは、一体どんな変わった経験をすれば、そんな変わった価値観を持ち得るのだろうか、ということだけだ。
その謎も、すぐに解かれる時が来た。
彼女はある日、左目に大きな眼帯をつけて登校して来た。白い大きな眼帯を、だ。その姿は彼女の大人しい雰囲気とも相まって、クラスでかなりの話題になった。そして僕は、こんな話を聞いてしまったのだ。彼女と同じ中学出身の女の子がする、こんな話を聞いてしまったのだ。
それは、彼女の父親に関することだった。
彼女がまだ幼い時に彼女の母親が再婚して、今の父親は彼女にとって継父であること。その継父が酷く粗暴な感じの人で、地元ではあまり評判が良くないということ。彼女は前にも眼帯をつけて来たことがあるし、それ以外にも何度か怪我をしているということ。そういったことを熱に浮かされたような潤んだ声でその子は話し、最後に、こう言って小さく笑ったのだ。
「――もしかしたらあの子、その父親に酷いことでもされてるのかもね。ほら、よくあるじゃん、そういうやつ。無理やりエッチなこととかされちゃってさ、抵抗すると殴られる、みたいなやつ」
……僕は全てを理解した。ようやく彼女の全てが分かった。彼女はきっと、その父親に虐待を受けて育ったのだ。その、ド変態で鬼畜な父親に、まだ幼い時分から、こう教育されて育ったのだ。それはきっと、父親自身の歪んだ性欲を満たすために。倒錯的な羞恥を義理の娘に植え付けて、長じたのちにいびって楽しむ、という、周到で淫靡なプレイのために。
彼女はきっと幼い時から、何度も何度も繰り返し、こう言い聞かされて育ったのだ。
「排泄シーンを人に見られることは恥ずかしい。性的なシーンを人に見られることも恥ずかしい。けれど、椅子に座る瞬間を人に見られてしまうというのは、それら以上の恥なのだ」と。「それこそ恥の極致なのだ」と。「それを見られるくらいなら、死んだほうがマシなのだ」と。
こうして、彼女の地獄は始まったのだ。日常生活のあらゆる場面につきまとう、「影」みたいなその地獄が!
そんな彼女にとってみれば、教室の一番前の席、というのは、まさに、地獄のような席だったのだ。授業中に当てられた彼女は、三十人になんなんとするクラスメートの視線を背中に感じながら、平然と椅子から立ち上がり、そして、答えなくてはならないのだ。詩人の美しい詩を朗読し、数学の無機質な式を黒板に書き、微生物の滑稽な名前を口にしなくてはならないのだ。その後に待つ地獄のような羞恥のことには、気づいてもいない澄ました顔で!
その日の午後の五時限目、英語の授業の終わり頃、そんな地獄が再び来る。
割と長めの英文を読むようにと、彼女は教師に指名される。
彼女は小さな声で返事をし、そしてゆっくりと椅子から立つ。それから軽く咳払いをし、静かに息を吸い込むと、慎重に英文を読み始める。
僕は息を詰めて彼女の背中を見つめている。その視線が彼女にとって何よりの苦痛であると知りながら、それでも真っ直ぐ見つめている。
彼女の声は震えている。足もかすかに震えている。紺のソックスに包まれた彼女の白くて細い足が、地獄の予感に震えている。
そんな様子を一秒たりとも見逃すまいと、僕は息を殺して見つめている。カラカラに乾いてしまった喉の奥に、必死で唾を送りながら。
……やがて彼女は英文を読み終える。「はい、有難う」と英語の教師が笑顔で言う。
彼にちょこんと頭を下げて、小さな仕草で身じろぎをして、そして彼女は椅子に座る。
いつものような静けさで。いつもと変わらぬ手順と動作で。深くて激しい地獄の羞恥に、心の中では咽びながら……。
……彼女の秘密を知ってから、僕の中で彼女の色は変化した。綺麗な薄い黄色から、排ガスで曇ったような黄灰色に。そして僕は決意した。彼女を地獄から救うことを。僕だけが気づいたその地獄から、彼女を助け出すことを。
彼女を救う方法は簡単だ。僕にその勇気さえあれば簡単だ。まず、僕は彼女を呼び出して、彼女に対してこう告げる。「君の秘密は知っているよ」と。その途端、彼女の足は震え出し、顔は羞恥に紅潮し出し、目には涙さえ浮かび始めることだろう。そして彼女は首をうなだれ、僕に向かってこう言うのだ。「お願い誰にも言わないで」と。「なんでもあなたの言うことを聞くから、絶対に誰にも言わないで」と。そんな彼女を見つめながら、僕は優しく返すのだ。「大丈夫、誰にも言わないよ」と。「絶対に誰にも言わないよ」と。「だから二人で練習をしよう。椅子に座る練習をしよう」と。
こうして、僕と彼女の秘密の特訓が始まるのだ。彼女の羞恥を取り除くための、激しい特訓が始まるのだ。
放課後の誰もいない夕日に染まる教室で、僕は彼女の前に一脚の椅子を置き、戸惑う彼女にこう言うのだ。「さあ、この椅子に座ってごらん」と。「僕の目の前で、僕に真正面から見られながら、羞恥に耐えて座ってごらん」と。
彼女は膝をガクガク震わせて、目には涙をいっぱい溜めて、それでも、僕の命令に従おうとするだろう。彼女が地獄を終わらすためには、そうする以外にないのだから。
……なんとか座れた彼女を褒めて、僕はすぐさま命ずるのだ。「さあ、もう一度」と。
それを何度か繰り返すうちに、彼女は本格的に泣き出してしまうかもしれない。あまりの羞恥と屈辱に、「座って」いられなくなってしまうかもしれない。それでも僕はやめないのだ。非情で残酷な命令を、彼女に下し続けるのだ。何度も何度も繰り返し、まるで、彼女の父親がそうしたように……。
……そんなことを続けるうちに、ふと僕は気づくのだろう。彼女の汚れた薄い黄色が、すっかり綺麗に取り除かれて、別の色へと変わったことに。淡いオレンジ色へと変わったことに。その時窓から見えている、夕焼け空と同じような、淡い綺麗なオレンジ色に……。
それを実行に移す勇気も出ないまま時だけが過ぎ、そして、彼女の白い眼帯がようやく左目から外れた頃、ある重大な行事が巡って来た。それは、卒業アルバムの個人写真の撮影日だ。
もし中学の時と同じようなものならば、それは、男女一緒のアイウエオ順で行われるはずだ。クラス全員同じ部屋で、みんなが見つめるその前で、そして何より椅子に座って、だ。
彼女はその時、一体どんな顔をするのだろうか? 多くのクラスメートに真正面から見られながら、一体、どんな顔で彼女は椅子に座るのだろうか?
僕はその時その様子を、しっかりと見届けなくてはならないだろう。そうすれば、全てがはっきりするだろう。彼女の抱える闇の深さも、父親の犯した罪の重さも、そして、彼女を救う勇気さえない、僕の狡さや惰弱さも。そして僕はそれを経て、ようやく持つことが出来るのだろう。彼女を救うその覚悟を。
彼女にとっての地獄の日、予想に反して彼女は来た。そして、撮影手順は予想通りだった。被服室の壁際に貼られた青みがかったグレーの布。その前に置かれた一脚の黒い木製の椅子。生徒たちは順番にそこに腰掛けて、真顔の写真を撮られていく。
カメラマンの合図と共に一枚パチリ。もう一枚パチリ。終わった人から部屋を出て、教室に戻ってそれぞれ自習。そういう流れで進んでいく。
……列は、すごい速さで進んでいく。もう、ア行が終わろうとしている。ナ行の僕はサ行の彼女をチラチラ見ながら、黙々と列の進みに身を任せている。
……ああ、それにしても、これはなんという卒業アルバムだろうか? なんという個人写真だろうか? 彼女は、多くのクラスメートに至近距離から見られながら、椅子に座って正面を向き、そして、写真に撮られてしまうのだ。そしてそれが、未来永劫保存されてしまうのだ。どんなポルノグラフィよりも醜悪なそれが、卒業生全員の家の本棚に!
……やがて彼女の番が回って来る。被服室にはまだ多くの生徒が残っている。
「はい、次の人」と彼女に向かってカメラマンが言う。彼女は小さく返事をする。それから彼女は椅子に向かい、ゆっくりとこちらを振り向くと、ふうっと小さく息をつく。
そして彼女は……、
……その時僕ははっきりと見た。彼女の顔をはっきりと見た。
それは、恥にまみれた顔ではなかった。絶望に打ちひしがれた顔でもなかった。
彼女の顔は全体的に引きつって、そして、笑いを堪えるみたいに歪んでいた。
それは、恍惚の顔だった。快感を感じた時の顔だった。体を巡る快楽の波に、我を忘れて浸り切る、卑猥な女の顔だった。
――僕は彼女に罰を与えなくてはならないだろう。激しく厳しい、罰を与えなくてはならないだろう。
彼女は地獄に落ちた聖女ではなかった。蛇に騙されたイヴではなかった。椅子に座るところをクラスメートに見られてしまい、あまつさえその瞬間を写真に撮られてしまう、という、圧倒的なその羞恥を、自らの快楽へと変えてしまう、稀代の変態女だった。ド変態で鬼畜な男に育てられた、ド変態で鬼畜な女だった。
……僕は彼女に罰を与えなくてはならないだろう。快楽に変える余裕も暇もないほどの、膨大な量の「恥」による罰を。
その機会はすぐにやって来た。登校途中の自転車事故が二回続いたことを受けての、緊急の全校集会だ。
窓を開け放った体育館の中。ずらっと居並ぶ生徒たち。壇上にいる司会役の教師がマイクのスイッチを入れたのを見るや、僕は動き出す。前方に並ぶ彼女の前まで歩いて行き、彼女の腕を無言で取ると、ゆっくりと舞台のほうへと引っ張って行く。
彼女は呆気にとられて僕の横顔を見つめている。あまりの驚きに抵抗すらも出来ずにいる。周りに居並ぶ生徒たちや、壁際に立つ教師たちも同様だ。ただポカンとして僕と彼女を見つめている。
……やがて僕たちは舞台の上に辿り着く。司会の教師の前まで行き、彼に向かって頭を下げると、真面目な顔でこう告げる。
「ちょっと言いたいことがあるので少し時間を下さい」
司会の教師は呆然としている。生徒たちは徐々にざわつき始めている。僕はそれらに構わずに、教師の手からマイクを奪うと、演台の前まで彼女の腕を引いて行き、それから生徒のほうを向いた。そして、大きな声でこう言った。
「みなさん、この女は変態なんです!」
僕は彼女の顔を指差す。彼女は引きつった顔で僕のことを見つめている。
「椅子に座るところを人に見られるだけでイってしまう、どうしょうもない変態なんです!」
体育館は一瞬沈黙に包まれる。そしてその後、大きな笑いが沸き起こる。
男子たちは僕をあざける野次を飛ばし、女子たちは顔をしかめて囁き合い、教師たちは困ったようにお互いに顔を見つめ合う。
そんな様子に僕は構わず先を続ける。彼女の顔を見つめながら。
「さあ、認めろよ! みんなの前で認めろよ! 私は変態女ですって、自分の口で言ってみろよ!」
「……おい、キモイぞ!」誰かが大きな声で言う。
「……お前だろ、変態は!」どっと笑いが巻き起こる。
僕はそちらを睨みつけ、唾を飛ばして叫び返す。
「うるさい、黙れ! なんで僕が変態なんだ! 変態なのはこの女だ!」
男子たちの野次が高まり、女子たちの囁き声は悲鳴に変わり、彼女は泣きそうな顔で僕の横顔を見つめている。
ふと視線を左に動かした僕は、四、五人の男性教師の集団が、こちらに向かって走って来るのに気がついた。
僕は焦って周囲を見回し、彼女のための椅子を探した。けれど、それはどこにも見当たらなかった。僕は仕方なくその場で四つん這いの恰好になると、そのまま彼女の顔を見上げ、大きな声でこう叫んだ。
「さあ、僕は椅子だ! お前の椅子だ! 早く僕に座ってみろよ! みんなの前で座ってみろよ! さあ、早く! さあ、早く!」
……その瞬間、僕は男性教師たちに取り押さえられた。両手両足を抱え上げられ、お神輿みたいに持ち上げられると、そのまま舞台を降ろされ始めた。
「離せ! 離せ!」
そう言って激しく手足をばたつかせるけれど、教師たちはびくともせずに進んで行く。
僕はそのまま生徒の前を運ばれて行き、右側の扉の前まで連れて行かれ、そして、そこから外へと運び出された。
……その刹那、僕は首をもたげて彼女を見た。女性教師に肩を抱かれて立ちすくむ、舞台の上の彼女を見た。
……彼女の顔は淡いピンクに染まっていた。
深い恥じらいと戸惑いを示す、淡いピンクに染まっていた。
……その色と彼女の薄い黄色とが溶け合うように混じり合い、僕にはその時彼女の顔が、淡い綺麗なオレンジに見えた。
……二人きりの秘密の特訓の時に見た、夕焼け空の色だった。
――あの男が学校からいなくなって、すでに一週間が過ぎた。
人見知りなためただでさえ少なかった私の周りから、人の姿は完全に消えた。
「ご両親にも話してカウンセリングを受けるべきだ」と担任の中野先生は言う。「最近のあなたは普通じゃないから」と。けれど、あの時のことはもう絶対思い出したくないし、それに、お父さんにもお母さんにもあまり心配をかけたくないので、「その必要はありません」といつも私は答えている。けれど、やっぱり、カウンセリングは必要なのかもしれないな、と私は思う。最近の私は普通じゃないから。
……子供の頃からの引っ込み思案のせいでどうしても行動的になれない癖も、いざ行動する時にもきょろきょろと周囲の視線を気にしてしまう癖も、授業中に答える時の声の震えや足の震えも、ますます酷くなってしまった。そして、よくお母さんに指摘される、緊張すると笑いを堪えるみたいに顔全体が引きつってしまう変な癖も。
「……はあ」と小さな溜め息をついて、私は教室の中に入る。
早く戻って来たつもりなのに、もう人がいる。体育の授業をさぼって遊んでいたらしき男子生徒のグループが、教室の後ろでゲームをしている。
私は彼らのほうをチラリと見、誰もこちらを向いていないのを確認すると、素早く机の前まで行き、そして自分の椅子に座る。
……瞬間、彼らのほうから小さな笑いが聞こえてくる。そして、冷やかすようなこんな声も。
「おい、あの椅子じゃちょっと座り心地が悪いんじゃないか?」
「お前、ちょっと行って椅子になってやれよ」
……しまった、と私は思う。ちゃんと確かめたつもりなのに、見られていたのだ、と思う。
私はすぐさま下を向き、赤らむ顔を彼らから隠すと、小さな声でこう呟く。
「……やっぱり私は普通じゃない。最近の私は普通じゃない。椅子に座るところを人に見られただけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだ」
了