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黒パンはとても硬く、歯が欠けそうになった。生前ならばとても食べれたものではない。
俺は早急にそれを食道に押し込んだ。時々噛み切れなかった欠片で咳き込む。それでも手を止めることはない。
そのまま一息に食べ終えてしまうと、空の手の平だけが残ってしまった。そこに黒ずんだ爪を立ててたが、湧いて出たのは柔い痛みのみ。
こんなものでは到底足る訳がない。胃の中にはまだ随分と空きがあるではないか。
手持ち無沙汰から身体を抱く。跡が残る程力を込めても自身に与える影響は微々たるものだ。
あの程度で腹が満たされる訳などあるまい。けれども俺の内腑は今、これ以上何かを受け付けないだろう。
数日前と異なり、頬を伝う水はやけに温く感じた。
多少なりとも気力が回復したため、まず路地裏の探索を始めることにした。何があるかは予想がつかないが、大通りと違い身動きが取れなくなることは無い筈だ。
よろりとした身体を壁に擦りつけながら、牛歩を進める。
昼間であるにもかかわらず黄昏時のようなそこは、純粋に薄気味悪かった。よくよく目を凝らせば見てはいけないものまで見えそうだ。
すんと鼻を鳴らせば雨と鉄、獣臭さが色濃く臭う。やはり鼻呼吸は諦めた方が良さそうだ。
ぞろりとする壁に手でなぞれば、手の平の嫌な色に染まった。点々とある染みに赤味が浮いていることは意識の外へと追いやる。
足裏からも絶えず湿った土の感触がし、時折水気のあるものを踏みつけてしまう。そこを確かめる気にはなれなかった。
クズ布を体に巻きなおし、歩く速さを上げる。
あれから数日の間、全てを探索と睡眠に費やしていた。
けれども衛生状態の芳しくない人から虚ろな目を向けられるばかりで、口に出来そうなものは少しも見当たらない。道中で二枚目の襤褸切れに枯れ枝が数本、砕けた煉瓦が拾えた程度だ。流石に煉瓦は食せまい。襤褸切れは首に巻き、その他は早々に捨てた。先日のパンがなければ今頃倒れていたに違いない。
今日もまた疲労に負け、足を止める。投げ出した足裏から石などの異物を取り除くと、新たに血が滲んだ。痛覚はとうに麻痺してしまったため、おざなりに血を拭う。
周りに漂う霧を尻目にうたた寝を始めた。このところ毎日のように発生しているのだ、生前見慣れずとも慣れはする。雨が降らなければそれで良い。
薄れる意識に比例して、霧は濃くなってゆく。もう一押しで暗転するという時に、場の静寂が破れた。
通路の奥をからずるり、ぐちゃりと何かを引き摺る音がする。そちらを見据えても霧中で揺らぐ陰影しか確認できない。
静かに立ち上がり、壁を握りしめた。音はこちらに迫り続ける。
そして、ようやく音の主が現れた。
爪先は膿み、右足はあり得ない方向に曲がっている。衣類は申し訳程度に腰に巻かれた布のみ。上半身には数えきれない傷で爛れ、目も当てられない有様だ。頬がこけて眼孔の落ち窪んだ顔は、幽鬼のほうがまだ生き物らしく感じるだろう。
男は数歩踏み出した後、文字通り崩れ落ちた。再び周囲は沈黙する。
額に嫌な汗が伝う。恐る恐る日本語で呼びかけるが、男はぴくりとも身じろぎしない。
ゆっくりと男に近づき、頭をつつく。三度目でごろりと男はこちらに向けた。けれど、その瞳から光は見受けられなかった。
脳で響く警鐘に従い、慎重に方向転換をして走り出す。
ししどと汗が流れるも、寒気は首筋から離れなかった。
ぬかるみに足を取られ、転ぶ。
だが無理矢理体制を立て直し、再び駆け出した。角を曲がりきれず壁にぶつかるも、それを気に留める余裕など残ってはいない。
白く爆ぜる脳裏に先程の男が染みついている。大きく頭を振った
五里霧中を馬鹿の一つ覚えのように彷徨う。犬のような呼吸音が一際大きく聞こえ、うっとおしかった。
一刻も早く、あの場から離れなれろと。そう背後から怒鳴りつけられた気がした。ペースト状の思考の中で、それと男の姿だけが固形物なのだ。
けれども白く燻された迷路は一向に出口を示す気配がない。前後不覚だけにはなるまいと、頬の内側を噛み締める。
段々と喉奥まで痛くなってきた。休みなく走り続けているのだから、当たり前だ。乾いた口内を舐めまわしても、舌に鉄の味が残るだけ。
再び何かに衝突し、ひっくり返ってしまう。身体より先に三半規管が悲鳴を上げたらしい。
すぐさま起き上がり、障害物を避けて改めて足を進めようとする。だが、それは何者かによって阻まれてしまった。
犯人を仰ぎ見て、思わずあんぐりと口を開けた。
そこにあったのはシミだらけの中年顔。忘れるはずもない。あの命の恩人だ。
こんな事あり得ない、ただの都合の良い白昼夢だ。いっそのこと笑い飛ばしてしまいたかった。
思いに反して、恩人はこちらに触れてくる。顔や頭をペタペタと、まるで安否確認のようだ。
一通り触って気が済んだのか、あからさまにほっとした表情を向けられる。無理な運動で火照ったはずの身体が、カッと熱くなる。
あまつさえ何を思ったのか、こちらに向けて左手を差し出してきた。条件反射で右手を出すと、力強く握り返される。混乱しながら恩人を見つめると、彼は気の良さそうな笑みを浮かべて立ち上がった。成人男性の力には逆らえず、そのまま腕を引かれて歩き出す。
あなたは単なる他人だろうに、何故ここまでしてくれるのだ。
彼は迷いなく路地を進み、それに追従するように歩く。こちらのコンパスに合わせてくれているのか、十二分についていける速さだ。にも関わらず時折立ち止まって、心配そうにこちらを見てくるのだ。それに首を横に振ることで返事をし、改めて二人で歩を進める。
先の狂想が嘘のように、俺の心は凪いでいた。
不意に悪戯心が湧き、繋いだ右手に軽く力を込めてしまう。やや間を空けて、右手に同じような力がかかった。
ああ、これでは期待をするなという方が酷だ。恩人の横顔に父の姿を幻視し、目頭が熱くなった。
目の前には朽ち果てた屋敷ががそびえている。ここが彼の目的地らしい。
彼は勝手知ったる我が家といった体で、声もかけずに中に入っていく。続けて入ると、やけに嫌な臭いが鼻を突いた。まるで肥溜のような臭いだ。それでも彼が気にする様子も見受けられないため、黙って我慢した。
草の伸びきった中庭を通り過ぎ、階段を上る。所々に穴が開き、踏み込むたび音が鳴るのが恐怖を煽った。
二階に上がると臭いが一層酷くなる。自由な左手で鼻を摘まむも、穴という穴から臭いが忍び込むようだ。けれど臭いがする割には二階に来ても物音がほとんどしなかった。
場の不気味さを無視して、彼は戸惑いもなく部屋の扉を開ける。
俺は、目を疑った。
悉く割れた窓や剥がれ落ちかけた天井、風化した壁紙。その程度の内装であれば、まだ納得した。問題は並べられた家具の方だ。
その部屋の大部分は大小様々な檻に占拠されていた。中では弱々しく何かが蠢いている。それがただの動物であったなら、どんなに幸福だっただろうか。
それらはほとんどを占めていたのは、俺と同じ形の生き物。
平たく言えば、人間だった。
咄嗟に逃げ出そうとするも、掴まれていた手に阻まれる。足を踏ん張ってみるが、あっさりと引き摺られた。腕を振りほどこうにも力の差から、無駄に終わってしまう。ならばとその手に食らいつき必死に爪を立てるも、欠片も意に介されない。他にもあの手この手を尽くしてみたが、全て己の体力を削っただけだった。
抵抗空しく連れてこられた先は、やはり一つの檻の前。扉に手足を突っ張るも、無造作に叩き込まれてしまう。
無慈悲に区切られた格子の向こうでは、恩人だったものが気色悪い笑みを満面に浮かべていた。呆然自失としていると、こちらへ長々とした言葉をぶつけてくる。一切合切が耳を通り抜け、内容を推察することさえできなかった。ひとしきりこちらを眺めて満足したのか、扉の向こうへ立ち去ってゆく。慌てて鉄格子に掴みかかったが、虚しくも音を立てて扉は閉まってしまった。
鉄格子が人肌ほどまで温まっても、手を剥がすことが出来ない。ぼたりとぼたりと腕に液体が垂れる。
耳元で誰かが囁いた。
後悔先に立たず、と。