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初投稿ですが、ご容赦ください。
ぬたりと意識が頭をもたげた途端、異臭が鼻の奥深くまで貫いた。辛味や酸味、渋味が混ざった、今まで嗅いだことのない臭いだ。
慌てて目を開き、体を起こす。
そこに見慣れた自室はなく、あるのは汚れた煉瓦の壁ばかり。いつか見た異国の街並みを彷彿とさせる造りだ。
不透明な思考の中、臭いを少しでも防ごうと鼻を摘まむ。
慣れているはずの自分の顔の感触に、違和感を覚えた。
俺は既に成人しているが、それにしては随分と柔らかい感触だ。何度顔を撫でまわしても違和感が拭えない。手袋でもつけているのかと両手を確認するが、あったのは成人男性の手よりも遥かに小さい幼児の手。
事態が上手く飲み込めず、腹の奥が掻き乱される。
何が、起こっているんだ……
このところツイてない。
クソッタレな上司から面倒な案件を押し付けられ、ここ数日は会社に泊まりきりだった。しかも当の上司はまた出世をするらしい。全く良い御身分だな。
それも今日の昼にやっとの思いで片付いた。だから久しぶりに定時で帰れると内心小躍りしていたのだ。
だが徹夜明けで気が緩んでいたのか虫の好かない同僚達に捕まってしまい、半ば無理矢理合コンに参加する羽目になった。
奴らに対する嫌悪や不機嫌を隠す気はさらさらない。相手もこちらが気に食わないのか、飲み屋で俺をさりげなく扱き下ろし己の株を上げるのに利用する始末。気分が悪いやりとりだ。
飲み屋を出た後も奴らは女の子達と無益に騒ぐ。ホームの端でぼうっと立ちながら、帰る方向が重なっていた不運を恨んだ。
酒が入ったからいつにもまして足元が覚束無い。うつらうつらしていると、いきなり背後から衝撃が襲う。今思えば奴らの誰かが再びからかおうと背中を叩いたのだろう。
けれども間が悪かった。
一瞬の浮遊感の後、体が強かに打ち付けられる。酩酊状態で受け身がとれるわけがない。
焦る上方の声につられて、頭部を擦りながら右側を振り仰ぐ。
迫りくる光源と甲高い金属音。
記憶はここで途切れた。
ざあと血の気が引く音が聞こえる。
記憶が正しいのならば、自身を信用するのならば。
両腕を地面について体を支える。荒い呼吸が耳につく。
俺はあの時死んだ、のか?
喉元まで熱いものがせり上がってくる。堪えることなくそれを吐き出す。吐瀉物と嗚咽が溢れて止まらなかった。
どれほどの時間が経ったのかは分からないが、淡い寒気から目を覚ます。あの後、疲れて眠ってしまったのか。
壁に背を凭れさせ、一度大きく息を吐く。これ以上同じことをしても現状は変わらないだろう。
緩慢な手つきで己の身体を検分する。身長から見て精々5歳ぐらいだが、節々の骨が浮き出ていて頼りない。栄養が足りていないのは一目瞭然だった。おまけに伸び放題の髪は燃えカスのような灰色だ。
身に纏っていたのは襤褸切れが一枚と不似合いなプレートネックレス。金属板の片面にはミミズの様な記号が、もう片面には謎の絵が彫られていた。双頭のトカゲの図だ。おまけに翼までついている。
これで疑惑が確信に変わってしまった。やはりこれは俺の元来の身体ではない。
一際大きく息を吐き出し、膝を抱えて目を閉じだ。
しばらくして久しく感じていなかった強い空腹感に突き動かされ、ゆっくりと立ち上がる。軽く脳みそが揺れた。少し離れた所から人の声のようなもの聞こえたため、そのまま壁伝いに音のする方を目指し、路地を出た。
路地よりも強い光に思わず目を細める。少し経ってから目蓋を上げると、信じられないようなものが視界に飛び込んできた。
一世紀前の闇市のように敷布に品物を並べただけの簡素な屋台が道を覆い尽くし、その間を大勢の人と声が行き交っている。しかも通りの中で様々な人種が入り乱れているだけでなく、毛の生えた耳や鱗をくっつけた者や俺とそう変わらない背丈の屈強疎な男、獣の頭を首に据えた者なんかが混じっている。理解不能な音の奔流が耳に流れ込む。
まるでおとぎ話やファンタジーゲームをそっくり抜き出してきたような光景が、そこには広がっていた。
日本どころか地球上の何処にだってあるはずのない、非現実的で不可解な状況。
俺の鼓動は加速し始めていた。
ふらりと誘われるようにして雑踏へと歩みだす。
瞬間、誰かの足にぶつかり転倒した。慌てて起き上がろうとするも立て続けに蹴飛ばされてしまい、そのまま転がるように人の波に押し流される。
藁にでも縋ろうと必死になって手を伸ばし何かを掴んだ。それを思い切り引っ張り、辛うじて立ち上がることができた。
興味本位でごわごわとブラシの様なそれの先を目で辿ると、くたびれた布地に包まれた臀部が確認できた。柔らかさの欠片もない筋肉がズボンを押し上げている。
恐る恐る顔を上げると傷のある犬面と目が合った。見つめあうこと約五秒。潔く手を放し、後方へ駆け出そうとした。けれど抵抗空しく捕まってしまう。猫の子よろしく掴み上げられ、再び犬面と向かい合う。
鼻に大量の皺を寄せ、唾を撒き散らしながら吠えたてられる。何を言っているかは全く理解できないが、善人の類ではないことだけは流石に分かる。慌てて手足をばたつかせるが少しも意に介されず、片手で首元を締め上げられた。
毛だらけの腕に手を掛けるも妨害の一つにすらならない。
息苦しさから視界が滲む。四肢の感覚すら危うくなってきた。冷たい汗が湧き、顎を伝う。背筋に気味の悪い寒気がはしった。
前触れなく体が後ろに引き寄せられた。数秒ほど滑空し、何かにぶつかることにより停止する。肺から強制的に空気が押し出された。何度も咳き込みつつ濡れた地面に横になる。落下した先は水溜りだったらしい。身に着けた布切れが水を吸い、少ない体重の足しになってしまった。
やっとの思いで露店の隙間に身を寄せ、その場に座り込む。こんな身体で人混みに繰り出すなんて無謀もいいところだった。
軽く一呼吸し、今一度周囲を検分する。
地面は赤土、気温はおそらく高め。冷えた体に当たる風が心地良い。真横での店では果実が並び、甘さと酸っぱさのカクテルが鼻腔をくすぐった。その香りに思わず腹部を擦る。
そこの店主はがたいの良い大男で、今も客を相手へ向けて泡を飛ばしている。こちらには一片の視線もくれていない。
つい唾を飲みこんでしまう。その音が喧噪の中で一際大きく響いた気がする。
視界の隅に店主を捉えたまま、そろりと右手を浮かす。果実までは三十センチもないだろう。
それでも指先に触感が現れない。秒針さえ立ち止まったようでもどかしい。意識して腕の筋を伸ばした。
とうとう人差し指に何かが触れた。と思った瞬間に左側からけたたましい音が鳴り響いた。
弾かれたように右手を引っ込んでしまう。すぐさま音源を確認したが横の金物屋で大量の鍋が落ちただけだった。
細長く息を吐き、膝に顔を埋める。
一度右の果実を眺めたが、気概を削がれてしまったのか再び手を出す気にはなれなかった。
右腕でを撫で擦りながらその場に横たわる。もう止めだ。
重苦しい倦怠感と空腹感を被りながらも、妙な安堵を抱えて目を閉じる。
二度あることは三度あるとは本当らしい。左右には相も変わらず店が並び、その中身だけが入れ替わっていた。今度は何やら怪しげな干物を売っている。とても食欲をそそられない。眼前の雑踏は衰えた気配もなく、無意識に後ずさってしまう。
今日も、このまま過ごすしか手はないのか。半ば惰性で通り過ぎる人達を目で追いかける。どれだけ経ったのかは知らないが、段々と下半身が痺れてきた気がする。
そんな中、不意に頭上から声が落ちてきた。
ぬるぬると首だけ上げると、そこにはシミの散った中年の顔が迫っている。想像以上に近くにあり、首をすくめた。
その男は口の端を吊り上げながら、こちらに話しかけてくる。生憎ながら一片も理解はできなかったが。
取り敢えず首を横に振る。流石にこれが肯定ととらえられないことを祈りながら。
男は眉を下げ、肩を落とす。その様子に少しだけ胸が痛んだ。
かと言って言葉もわからない状態で何ができる訳もなく、下がった肩を軽く叩くだけにとどめておいた。
顔を上げた男は緩く微笑み、こちらの頭を撫でる。慣れていないのか少し痛い。
気が済んだのか男は立ち上がる。名残惜し気に右手を離し、肩にかけた袋に差し込んだ。そして何かをこちらに投げ寄越してから、背を向けて路地へ進んだ。
慌てて受け取った手元には黒色のパン。両目を目いっぱい見開き、思い切り擦ってもパンが消えることはないようだ。
すぐ立ち上がるも、男の背中は既にかなり小さい。
結局その場にしばらく立ち尽くしてしまった。